第43話 影が形を求める夜

夜の風は、本来もっと軽やかなはずだった。

海沿いの草原を渡る風は涼しく、潮の匂いと月の光を運ぶ――それが、この世界の“普通”の夜だ。


けれど今夜の風は、どこかが違っていた。

重い。

どこか湿っている。

そして、風の“流れ”が妙に淀んでいる。


ユウトは焚き火のそばでそっと目を閉じ、風を読む。


(……また流れが乱れてる。昼間よりも強くなってる……)


第三の影。

形を持つ前の段階――“胎動”。

ここ数日の風の乱れは、それが確実に進行している証拠だった。


ピリィがユウトの膝に乗ってきて、心配そうに震える。

『ぷるぅ……ユウト、また嫌な風ですぅ……。風が……泣いてるみたいですぅ……』

「……うん。風が“誰かに触られてる”感覚がある。影が……何かを探してる」


『ぷる? 誰を探してるですぅ?』

「……俺だと思う」


そう答えると、ピリィが大きく震えた。


『だって、第三の影は“風の根っこ”を食べたいんですよね……?

 じゃあユウトの風って……一番の獲物じゃないですぅ!!』


「まあ……うん。そうなんだけどさ」


どこか他人事のように言うユウトに、ピリィが涙目で体を膨らませる。


『ぷるるるるっ!! ユウトが喰われたら森の風も海の風も全部消えちゃうですぅ!

 ピリィ困るですぅ! 湿気すごくなるですぅ!』


「湿気の問題なのかお前は……」


少し笑ったが、胸の奥には不安が張り付いたままだった。


(……たしかに第三の影の“本命”は俺だ)


風の源流に近い者――風の勇者。

影が形を得るには“宿主”が必要で、その条件を満たすのはユウトだ。


しかし――。


ユウトは焚き火から少し離れ、夜空へ目を向けた。


(……今の俺は“狙われやすい対象”じゃない)


理由は明確だ。


影との決戦、沈語の渦、言葉の海――

この数か月で、ユウトの風は何度も極限まで使われ、いまは“枯れかけた井戸”のように消耗している。


影が求めるのは“満ちた風”。

器として機能する者。


今のユウトは、風を補充していない。

影が取り憑くには“旨味が少ない”。


(だから今は……“仮の宿り場”を探してるんだ)


そして、思い当たる人物が一人いる。


「……レオン」


海辺の遠く。

別行動中の彼が向かったであろう方向へユウトは目を細める。


沈語の影の後遺症で、レオンの“声の穴”はまだ完全には塞がっていない。

その“隙間”は、影にしてみれば絶好の侵入口。


(……影が本当に形を求めるなら、まずレオンに触れる。

 でも最終目標は俺だ)


それが、風が示す答えだった。


ピリィも同じ方向を見つめる。

『ぷるる……レオンさんのところ……風が変ですぅ。ちょっとだけザワザワしてるですぅ……』

「わかってる。……風の“芯”が震えてる」


ユウトは立ち上がり、夜風を胸いっぱい吸い込む。


風は弱い。

頼りない。

いつもよりずっと“薄い”。


(……でも、この薄さは“影が近い”って証拠だ)


海が静かだ。

波の音が小さくなる。

夜の虫の声が遠のく。


世界の“音”が、第三の影を避けるように沈んでいく。


まるで――

影に触れた場所から、世界がひっそりと息を止めているようだった。


ピリィが震えながら呟く。


『ユウト……風が……あっちに呼ばれてるですぅ……

 なんか“おいでおいで”されてる感じですぅ……』


「それは呼ばれるんじゃなくて“食われる合図”だからな」


『ぷるぁぁぁ!? 怖いですぅ!!』


ユウトは肩をすくめながらも、拳を握った。


(レオンに取り憑こうとしてる……でも、レオンはまだ耐えてる)


決定的な感覚だった。

第三の影はまだ“器”を決めていない。


大きな理由がある。


(レオンでも俺でも……まだ“形”になれない)


影は焦っている。

だからこそ、夜の風がここまで荒れ始めている。


形がほしい。

体がほしい。

声がほしい。

“影ではない何か”になりたい。


その“渇望”が夜空を満たしている。


ユウトは静かに言った。


「……影は、間違いなく“形を求めて動き始めてる”。

 でも、まだ生まれきれない。

 レオンも喰われてないし……俺もまだ狙われてない」


だから――今だけは平穏だ。


しかし、夜の風が警告を運んできた。


(明日か……。

 影が“形を得る夜”は……近い)


ユウトは月を見上げた。

雲がゆっくり流れ、月の光が揺れている。


ピリィが小さく囁く。


『ユウト……影さん、どうしてそんなに“形”をほしがるですぅ……?』


ユウトは答えを探しながら夜空を見つめた。


「……わからない。

 でも、沈黙の影も沈語の影も“孤独”を抱えていた。

 影ってのは……もともと“欠けた心”から生まれるもんなんだろうな」


沈黙の影はリュミエルの心の沈み。

沈語の影は世界の言葉のずれ。


第三の影は――まだ正体が見えない。


ただひとつだけ確かに感じる。


(あれは……“何かになりたがってる”。

 影ではなく……存在したいって。

 でも、影だから“形のない自分”を理解できないんだ)


だから“風”に寄ってくる。

だから“声”を求める。

だから“レオンの隙間”に触れようとしている。


影は“形”になろうとして、もがいているのだ。


そしてその“胎動”は――

今夜が最も強かった。


ユウトは息を吐いた。


「……明日、動く。

 レオンのところへ行こう。

 影が形を得る前に止める」


ピリィが胸を張って頷いた。

『ぷるりっ!! ピリィ、ぜったい守るですぅ! ユウトとレオンさん、両方守るですぅ!』

「お前は頼もしいな……」


夜の風が流れた。

弱いが、確かにユウトたちを包む優しい風だ。


その風の奥に――薄い、薄い“影の気配”が、微かに混ざっていた。


まるで耳元でささやくように。


……ま……て。

……ま……も……う……す……こ……し……。


影の胎動は、もうそこまで来ていた。

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