第13話 三つ巴の危機と監視者の影
リセルは、昏睡しているアークを背負い、塔の崩れかけた一階通路を駆け抜けた。背中には、まるで重い石炭袋を背負っているかのような、魔力枯渇状態のアークの重みがずっしりと食い込んでいる。
「待ってなさい、アーク。必ず貴方を、この街を、この無茶苦茶な状況から救い出すわ」
彼女は唇を噛み締め、塔の出口の扉を蹴破った。外の空気は、一時的に霧が晴れたことで澄みきっているはずだったが、上空の巨大な船影が凝縮する破滅的なエネルギーによって、鉛のように重く、ピリピリと肌を刺すような緊張感に満ちていた。
目の前の街路には、リセルの予想通り、フードを深く被った人物が立っていた。彼は空を見上げているが、その視線は正確に、上空の船影が放とうとしている破滅的な光の凝縮点に固定されているように見えた。
リセルは警戒心を最大限に高め、声を潜めた。「退いて。貴方も攻撃に巻き込まれるわ」
フードの男は、リセルの警告を無視したかのように、ゆっくりとこちらを振り向いた。フードの奥の表情は窺えないが、彼の手に握られた黒く細身の傘が、アークの青い骨を組み込んだ傘と驚くほど酷似していることに、リセルは戦慄した。
男は静かに、しかし、はっきりと聞こえる声で言った。
「ああ、ようやく起動したか。数千年ぶりに、虚飾の展開者が、その真価を示した……。私は、この瞬間を待っていた」
「何の話? 貴方、一体何者なの!」リセルは足を止めず、男の脇をすり抜けようとする。
男は動かない。まるで最初からリセルたちの行動を全て知っていたかのように、ただ静かに佇んでいる。
「焦ることはない。リセル・フローレンス。古代の術式の管理者よ。そして、その背中の少年……彼は、その力を危険な方法で証明してしまった。その代償は、街一つでは済まない」
その瞬間、遠くの街路から、ゼノスの怒号が響き渡った。
「馬鹿な敵め! 街を救うのは我々だ! 破滅的な力など、私の一撃で霧散させてやる!」
ゼノスは、上空の船影に向けて、最大出力の雷撃を放った。青白い雷鳴は夜空を裂き、船影に向かって一直線に突き進む。リセルは心の中で叫んだ。
(駄目よ、ゼノス! 相手は貴方の攻撃を誘っているのよ!)
事実、巨大な船影はゼノスの雷撃を意に介さず、船体底部に凝縮されていた都市破壊級の光を、完成させようとしていた。
リセルはフードの男から距離を取り、一瞬、上空と男の持つ傘を見た。そして、直感的に悟った。
「彼ら(外部勢力)の目的は、王の魔力だけでなく、アークの能力、そして、貴方と同じような『傘』の技術ね!」
男は初めて、わずかに唇の端を上げたように見えた。
「さすがだ。リセル。だが、彼らが求めているのは、少年の能力の『進化』ではない。『監視』だ」
男はそう言うと、静かに手に持った黒い傘を、天空に向けてゆっくりと開いた。
**パアァン!**
アークが発した時と同じ、乾いた金属音。しかし、そこから魔力や光が放出される様子は一切ない。ただ、傘を開くという動作だけ。
だが、その動作が意味を持った。
上空で凝縮が完了した破滅的な光——都市を蒸発させるほどの巨大なエネルギーの塊が、船影から解き放たれる直前、ごく僅かだが、その軌道が**南へ**と歪んだのだ。
巨大な光の奔流は、塔の頂上ではなく、遠く離れた都市の辺境、無人の荒野めがけて放たれた。
**ドオォォォン!**
大地が悲鳴を上げ、凄まじい爆発の衝撃波が塔を揺さぶる。リセルは反射的にアークを抱きしめ、地面に伏せた。彼らがいた場所は爆心地から離れていたが、塔の構造が一層崩壊し、瓦礫が雨のように降り注ぐ。
「……何をしたの、貴方?」リセルは立ち上がり、男を睨んだ。彼はすでに傘を閉じ、何もなかったかのように静かに立っている。
「私はただ、流れを観測し、少しだけ『補助』したに過ぎない。彼(ゼノス)の愚かな攻撃が、相手の戦術に嵌まるのを避けるためにね」
男は、自分の能力がアークの【虚飾の展開者】と同じ、極微細なエネルギー流の操作であることを認めているように聞こえた。
そして、遠方から、ゼノスの歓喜の叫びが聞こえてきた。
「見たか、討伐隊! 奴らの攻撃は外れた! 私の雷撃が、奴らの集中を乱したのだ! やはり、確実な力こそが正義だ!」
リセルは舌打ちをした。ゼノスは完全に誤解している。彼の雷撃は船影に全く届いておらず、むしろフードの男が能力を行使し、破滅的な光の軌道を僅かに逸らしたことで、街は救われたのだ。そして、その干渉は、ゼノスの「集中を乱した」という誤解によって完全に隠蔽された。
「貴方は、王の封印が破られ、街が危機に瀕することを、ずっと『監視』していたのね。そして、アークの能力が目覚めるのを待っていた」リセルは推理した。
フードの男は肯定も否定もしなかった。彼は再び空を見上げ、船影が次の攻撃準備に入っていることを確認する。
「この塔はもう限界だ。急いで、この街を抜けなさい。少年はまだ生きている。彼の持つ『真なる器』は、私の求めるものの写し鏡だからな」
「『真なる器』だと? 貴方の目的は何?」リセルは逃げ道を確保しながら問い詰める。
「目的? そうだな。この虚飾の展開者が、最終的にこの世界を救うか、それとも破滅させるか……。それを『観測』することだ」
男は、その冷たい視線をリセルたちに固定した。
「今は、邪魔をしない。だが、少年がその能力を理解し、この街の外へ出た時、私は再び現れるだろう。その力を、正しく使わせるために」
フードの男の言葉は、まるでリセルたちの行動を規定する、数千年を超えた支配的な指令のように響いた。
リセルは、彼が単なる敵ではないことを直感した。彼は、アークの能力のルーツを知る、極めて危険な「監視者」だ。
「貴方を信用できるわけがないでしょう!」リセルは地面を蹴り、アークを背負いながら、街路の陰へと身を隠した。
彼女は、都市の機能が回復し始めている今、急いで街を離れ、誰も知らない安全な場所でアークの治療と、新たな術式の研究に着手しなければならないと判断した。
「ゼノスがいる限り、ここでは常に破壊と誤解が生まれる。王の封印修復が完了するまで、私たちは外部からの敵と、この不気味な監視者から逃げ続けなければ……」
リセルが路地裏を曲がり、街の北門を目指し始めた、その時だった。
フードの男は、塔の崩壊した出口に一人、静かに立ち尽くしている。彼は何も言わず、ただ、リセルとアークが向かった方向へ、手のひらをかざした。
その手のひらの上では、彼が閉じた傘の先端から、極めて微細な、風の渦が発生し始めていた。
それは、アークが能力を向上させた時と同じように、周囲の極微細なエネルギーの流れを「観測」し、リセルたちの正確な現在地と移動速度を瞬時に計算している、高度な情報収集のサインだった。
「逃げる必要はない、虚飾の展開者よ」
男は再び、黒い傘を開いた。
**パアァン!**
今度は、傘の展開と同時に、極めて鋭利な、目に見えない風の刃が、リセルが逃げ込んだ路地裏の入り口を、正確に切り裂いた。
リセルは男の追跡を警戒していたが、この超精密な「追撃」を予期していなかった。彼女は、背中にアークを背負ったまま、咄嗟にその一撃を避けることができなかった。
**ザシュッ。**
リセルの肩を、目に見えない風の刃が掠め、血が路地裏の石畳に飛び散った。リセルは激痛に顔を歪ませ、アークを抱きしめたまま、壁に寄りかかった。
「……っ! 何なの、その力は!?」
「これは、数千年の『監視』で熟練させた、展開者の真の姿だ。逃げても無駄だ。私には、貴方たちの『風脈』が読める」
男はゆっくりと路地裏へ足を踏み入れる。彼の目的は、アークを確保すること。そして、その能力の未来を、彼自身の『観測』の内に収めることだ。
リセルは、出血する肩を押さえながら、目の前の脅威と、背中のアークの重み、そして遠方で叫び続けるゼノスの雷鳴に、絶望的な焦燥を感じた。
「貴様、誰の許可を得て、この街で勝手な行動を!」
背後の塔の出口から、今度はゼノスの怒声が響いた。ゼノスは、フードの男の存在を「外部の敵の仲間」と誤認し、新たな標的として彼を認識したようだった。
フードの男は、リセルを追うのを止め、背後のゼノスに静かに振り向いた。
「また、愚かな破壊者が一人……。お前が、王を解放したか」
男の声には、侮蔑の色が滲んでいた。
ゼノスは、男の無礼な態度と、肩を負傷したリセルを見て、激昂した。「貴様、リセルを傷つけたな! 正義の鉄槌をくれてやる!」
ゼノスは右腕に再び強力な雷魔力を集中させ、フードの男に向けて放とうとする。
リセルは、この三者による衝突が、街の崩壊を加速させると確信した。
(私とアーク、フードの男、そしてゼノス。三つ巴の衝突よ! このままでは、街全体が巻き込まれる!)
リセルは、路地裏の影で、冷たい汗を流しながら、この状況を脱するための、次の手を必死に模索した。彼女の視線は、まだ意識のないアークの、青い骨を組み込まれた傘に固定されていた。男の能力に対抗できるのは、アークの能力しかない。だが、アークは動けない。
彼女に残された選択肢は、極めて少ない。ゼノスの破壊的な攻撃を利用し、この場から逃走するしかなかった。
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