第4話 霧の城壁と、崩壊する知の要塞

「まずい。閉じ込められる!」


リセルの叫びが濃霧に響く。ミスト・ゴーレムを打ち破った直後、周囲の魔力の流れが急激に収束し始めたのだ。霧都エセリア・ゲート特有のこの濃霧は、古代の術によって形作られた巨大な「霧の城壁」そのものだった。


「風脈の路が、閉じていきます! 魔力の流れが収束し、この空間全体を圧迫している!」リセルは細剣を鞘に納め、アークの腕を掴んだ。「アーク、急いで! 出口を探して!」


アークは、周囲の圧力がまるで物理的な壁のように迫ってくるのを感じた。ゴーレムを撃破したことで、一時的に制御を失っていた古代の封印術が、再び異常な勢いで閉じようとしている。彼の心臓が激しく鳴った。


「ええと、たぶん、その……出口、出口って言われても、ここじゃ一メートル先も見えない!」


「出口は私たちが入ってきた場所ではなく、前哨監視塔へ続く航路です! 塔が崩壊しかけている今、この城壁も魔力の流れが不安定です。閉じられる前に、航路を『展開』させて!」


リセルの声は焦りを含んでいたが、その指示は的確だった。アークは全身の疲労を無視して、傘を握りしめた。


「展開……魔力を押し返す……」


彼は、先ほどゴーレムの防御を消した、あの瞬間を再現しようとした。魔力が最も凝縮される瞬間に、傘を「開く」。それは、周囲のエネルギー流に対して、極めて繊細な「拒否」の意思表示だ。


アークは目を閉じ、全身の神経を指先に集中させる。周囲の霧、そしてその奥で蠢く魔力の重い流れ。それら全てを、傘の石突きと布地で構成された「虚飾の展開者」の限界まで引きつけ、そして一気に押し返す。


カシュッ! カチリ!


傘がわずかに震え、開いた。その瞬間、アークの周囲を取り囲んでいた濃密な魔力の圧力が、まるで呼吸をするように一瞬だけ緩んだ。


「効果あり!」リセルが興奮した声で叫んだ。「魔力の壁がわずかに後退した。この隙間を維持できるか、アーク!」


「たぶん、これが限界です! これ以上広げると、僕の魔力が持たない……」アークは、力を使い果たした後のように、手に汗を握った。極微細なエネルギー流の操作は、彼の精神力を激しく消耗させた。


「十分です! このわずかな航路を走り抜けましょう!」


二人は、アークの傘によって一時的に維持された、霧の薄い通路を駆け抜けた。視界は依然として悪いが、少なくとも魔力の壁に押し潰される恐怖からは解放された。


走りながら、リセルは崩壊しかけている監視塔を見上げた。塔は激しく揺れ、外壁に魔力の光が走っている。


「アーク、この『霧の城壁』は、単に何かを閉じ込めるためだけの構造ではないのかもしれません」


「閉じ込めるだけ、じゃない?」


「ええ。古代の環境工学には、風や魔力の流れを循環させ、エネルギーを一時的に蓄積させる技術があったとされています。この塔と霧の城壁は、おそらく大規模な魔力源を地下に封じ込めるために、その魔力を城壁全体で吸い上げていた」


リセルは息を切らしながらも分析を続けた。「しかし、何らかの原因で術が暴走し、蓄積された魔力が塔の内部で逆流している。だからこそ、塔が内部から破綻し、崩壊し始めているんです!」


アークはぞっとした。彼らが運ぼうとしていた薬草どころではない。この塔自体が、巨大な魔力爆弾と化しているのだ。


「僕たちが、もし、このまま魔力の流れを完全に抑え込んだら、塔の崩壊は止まるんでしょうか?」


「わかりません。抑え込むどころか、今、城壁が閉じれば、暴走した魔力は逃げ場を失い、一気に霧都全体へと噴出する可能性すらあります!」


アークは、自分の能力が持つ責任の重さを、改めて痛感した。彼の傘の開閉一つが、街全体の運命を左右しかねない。虚飾どころか、これはあまりにも重すぎる「鍵」だった。


二人は、崩壊寸前の前哨監視塔の入り口に、ようやくたどり着いた。


塔の内部は凄惨な状況だった。床はひび割れ、壁面は魔力で焼かれた跡が生々しい。職員たちの姿は見えない。


「誰も……避難しているか、あるいは……」アークは息を呑んだ。


「生存者を探す時間はありません。この塔の崩壊を止めるには、魔力の暴走源を突き止め、アーク、あなたがその循環に干渉するしか方法がない」リセルは迷わず塔の中央階段を指差した。「地下へ行きましょう。封印されていた魔力源は、必ず塔の最深部にあります」


二人は、軋む階段を急いで降り始めた。地下へ向かう通路は、熱い魔力の奔流で満たされており、アークは傘を開閉させて周囲の魔力を散らしながら進む必要があった。


地下三階。そこは、古代の術式が刻まれた重厚な石壁に囲まれた、巨大な空間だった。空間の中央には、巨大な円形の魔力封印装置があり、それが今、激しい光を放ち、雷鳴のような音を立てていた。


「あれが……魔力源……」アークは、その圧倒的なエネルギーの奔流に、思わず後ずさりそうになった。


リセルが封印装置に近づき、刻まれた術式を解析しようと目を凝らす。


「古代の環境工学……やはり、ただの風脈制御ではない。これは、数千年にわたる、巨大な魔力体の休眠を維持するための術式です!」


「休眠を、維持……?」


「ええ。そして、その術式は、誰かによって意図的に破壊されかかっている!」


リセルが指差した先。封印装置の要石の一つが、細い刃物で深く抉られたような痕跡を残していた。術式を崩壊させ、魔力暴走を引き起こしたのは、環境の乱れだけではなく、明確な『人為的な破壊』だった。


その瞬間、地下空間のさらに奥の暗がりから、冷たい笑い声が響いた。


「見つけたぞ、リセル。やはり、貴様はこの最下層に来るだろうと思った」


声の主が、暗闇の中から姿を現す。それは、青い装甲を纏った、見慣れた人物だった。金の瞳が、アークとリセルを射抜く。


「ゼノス……なぜ、あなたがここに?」リセルは警戒を強め、細剣の柄に手をかけた。


ゼノス・ヴァルディスは、手にした雷の魔力を帯びた剣の切っ先を、封印装置の破壊された箇所に向けた。


「なぜ、だと? 当然だろう。ロマンと不確実な可能性に賭ける貴様らを守るために、確実な力を持つ私が、この封印を完全に解体しに来たのだ」


ゼノスの言葉は、彼が塔を崩壊に導いた犯人であることを示唆していた。そして、彼の視線が、アークの手に持つ黒い傘に固定される。


「そして、貴様だ、アーク・レインハート。その無意味な『虚飾の傘』が、この巨大な魔力体の目覚めを早めている。すぐに退け。そうでなければ、貴様ごと、ここで塵に変える」

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