第3話 魔力の盾を破る一瞬の収束
大地の底から響くような重い唸り声は、アークの鼓膜を物理的に揺さぶった。彼は反射的に傘を開き、風脈の乱れを鎮めようと試みる。
「カチリ、カチリ……」
いつものリズムで傘を開閉させるが、周囲の濃霧は収まらない。むしろ、唸り声が大きくなるたびに、風の流れが異常なほど乱れ、体全体が押し潰されそうな錯覚に陥る。
「駄目だ、リセルさん。風を抑えられない……これは、風の乱れだけじゃない」
アークは震える声で言った。彼の神経質なほど鋭敏になった感覚が、風の動きの奥に、何か別の、もっと粘着質なエネルギーが渦巻いていることを伝えてくる。
リセルは細剣を構えながらも、瞳の奥に探求心の色を宿していた。
「ええ、その通りです。風脈の乱れは表面的なものです。この振動は、地下で発生している大規模な魔力の暴走によるもの。古代の術が、何かを抑え込むために使っていた魔力そのものが、今、制御を失いかけている」
「魔力の暴走……。僕の能力は、魔力にも、作用するんでしょうか?」
アークは口ごもった。今まで試したのは、あくまで風。目に見えない空気の流れだけだった。
「基本性能を思い出してください、アーク。【虚飾の展開者】は、極微細な『エネルギー流』に対して作用します。風も熱も光も、そして魔力もエネルギーの一種です。ただ、魔力は風よりも遥かに密度が高く、制御が困難なはずです」
リセルは冷静に分析した。「しかし、試す価値はあります。この魔力暴走が、近くの魔物を引きつけ、強化している可能性が高い。このままでは、私たちでは手に負えません」
アークは再び集中した。自分の手の内の傘が、周囲の魔力の流れとシンクロする瞬間を掴もうとする。それは、風を操作する時よりも、遥かに難解だった。周囲の魔力は、粘りつく霧のように重く、傘の動きを嘲笑うかのように四方八方へ噴出している。
「魔力の流れ……どこだ……」
アークは傘を閉じ、そして開く。カシュッ、という小さな空気の音。何の変化もない。彼は汗を拭い、もう一度。
「ええと、たぶん、その……強く、収束させれば……」
彼が意識したのは、傘を「開く」動作ではなく、「閉じる」動作、つまりエネルギーを一時的に**収束**させる機能だ。彼は思い切り傘を閉じ、周囲の魔力をその動作に吸い込ませるイメージを抱いた。
バチッ、という微かな音が、傘の石突きの先端から聞こえた。その瞬間、アークの全身に、濃霧の中に漂っていた重い魔力が、一瞬だけ凝縮されたような、強烈な圧力を感じた。
そして、唸り声が、ごくわずかに、しかし明確に静まった。
「やりました、アーク! 魔力の流れを一時的に引きつけ、分散させた! その感触を維持して!」リセルが叫んだ。
しかし、その静寂はすぐに破られた。霧の壁が、大きく裂ける。唸り声の主が姿を現したのだ。それは、巨大な岩石と風の魔力を纏った中級魔物、【ミスト・ゴーレム】だった。体長は三メートルを超え、全身が濃霧と岩片で覆われており、その皮膚は強固な魔力の盾によって守られている。
「中級魔物! やはり、環境の乱れに乗じて活性化したのね!」
ミスト・ゴーレムは、その巨体に見合わない速度で大地を踏みしめ、アークたちに向かって突進してきた。その一歩ごとに、周囲の魔力盾がさらに硬質化していくのがわかる。
リセルは素早く対応し、細剣に魔力を集中させた。「アーク、補助を! 奴の魔力の盾を、ほんの一瞬でいい、薄くして!」
アークは、ミスト・ゴーレムの全身を覆う魔力の流れに、全神経を集中させた。彼が狙うのは、その厚い防御を形成している、目に見えないエネルギーの循環だ。
ゴォッ! ゴーレムが右腕を振りかぶり、岩の拳を振り下ろす。リセルはそれをかわし、細剣で魔力の盾の表面を叩くが、火花が散るだけで、有効なダメージを与えられない。
「堅い……! この魔力の循環は強すぎる!」
リセルの焦りの声が響く。アークは、自分が今、何をすべきか理解した。防御を破るのではない。防御を形成する魔力の流れを、一瞬、完全に「収束」させ、その魔力を彼らの戦闘圏外へ「展開」させるのだ。
彼は深く息を吸い込んだ。傘を固く握りしめ、ゴーレムの魔力循環が頂点に達するタイミングを計る。
「カチリ!」
傘を開く動作を、魔力が最も凝縮された瞬間に合わせた。それは、風を操作した時とは比べ物にならない、極限の集中力が必要な作業だった。
その瞬間、アークの傘の周りに、目に見えない光の帯が、まるで吸い込まれるかのように一瞬だけ渦を巻いた。アークは、自分の体が軽くなったような錯覚を覚える。
ゴーレムの強固な魔力の盾が、音もなく、本当に一瞬だけ、蒸発したかのように消失した。
「今だ!」
リセルは、アークの微細な動作による結果を逃さなかった。防御が消滅したその隙を突き、細剣を魔物の核である胸部へ、迷いなく突き刺した。
ドゴォッ!
細剣が魔力を帯びた岩石の体を貫き、ミスト・ゴーレムは激しい音を立てて崩れ落ちた。周囲の濃霧が、ゴーレムの残滓を吸い込むように、わずかに引いていく。
「成功……です」
アークは膝をつき、荒い息を吐いた。初めて、強大な魔物相手に、自分の能力が決定的な役割を果たした。疲労困憊だが、その感覚は、今までの無力感とは比べ物にならないほど心地よかった。
リセルは細剣を鞘に納め、アークの元へ駆け寄った。
「信じられません、アーク。あなたは魔力の流れを完全に『展開(デプロイ)』させ、防御力をゼロにした。ただの補助ではありません。これは、戦闘の前提条件を書き換える能力です」
リセルの瞳は、興奮と確信に満ちていた。
「風脈の路の不安定化は、ゴーレムの出現で終わる話ではないようです。古代の封印が、本格的に破られかけている可能性があります」
リセルは、崩れ落ちたゴーレムの残骸ではなく、霧のさらに奥、彼らが目指す前哨監視塔の方向を指差した。
「見てください、アーク。霧の壁が、さらに濃く、分厚くなっている。そして、あれは……」
霧の奥、かすかに見えていた監視塔のシルエットが、今、激しい光を放ち、まるで巨大な何かに押し潰されるかのように、ゆっくりと傾き始めていた。物資の運搬どころではない。前哨監視塔そのものが、崩壊の危機に瀕している。アークは立ち上がり、傘を再び握りしめた。
「急がないと、リセルさん。塔が……」
そして、彼は気づいた。彼らが通ってきた風脈の路の周囲に、ゴーレム出現によって一時的に開いたはずの魔力の流れの穴が、急激に閉じ始めている。
「まずい。閉じ込められる!」リセルが叫んだ。
彼らは、古代の術によって『何かを閉じ込める』ために作られた、霧の城壁そのものに、呑み込まれようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます