回覧板の黒地図

浅沼ミナ

第1話 雨の配り手

雨は団地の角という角に薄い膜を張って音を短く切り、エレベーターの到着音さえ布越しに聞いているみたいに鈍らせて、私は傘を畳んだあと共用マットに靴底を二度軽く当てて水の粒を払い、蛍光灯の白がぷつりと揺れるのを合図みたいに感じた。


ドアノブにかかった透明ビニール包みの回覧板は、角がわずかにふやけて紙の匂いを濃く漂わせ、今夜が私の番だと無言で思い出させるみたいに手に吸いつき、印刷された「301→302→303→…」の矢印は、何も考えず順に回せばよいという安心と、順路から外れたら何かが生じるかもしれないという予感を同時に差し出してきた。


留め具を外した瞬間に立ちのぼる紙粉の乾いた匂いは、町内会だよりや粗大ごみの日程や来月の防災訓練といった「いつも通り」の書類の並びと重なって私の肩の力をふっと抜いたけれど、束の一番下にある最後の一枚をめくった途端、視界の温度がひとつ下がるみたいに暗くなり、私はそこで初めて“黒地図”という言葉を心の中で作った。


それは四棟の輪郭も階段室の位置もゴミ置き場の矩形も駐車場の区画線も、全部が濃いトナーで塗りつぶされて白が息継ぎできる場所をほとんど残していない団地の見取り図で、わずかに残された白は部屋番号の数字と、丸で囲まれた印の上にだけ抜け道みたいに置かれており、その丸は私の棟の三階、302の向かいにある303の位置でかすかに光を吸いながら、指先の体温を奪う紙の冷たさといっしょに「開」という小さな印字を見せてきた。


喉の奥に貼りついた唾は雨より重くて飲み込むタイミングを忘れてしまうし、私は視線を紙から外して廊下の向こうを見やるけれど、濡れた手すりと非常灯の緑と雨の気配しかなく、去年の秋から空き部屋のままの303は表札だけ外されて銀色の台座がぽつんと残り、夜になると中の空気がこちらへ押してくるような、生活の残り香のない静けさだけが貼りついている。


黒地図の左下には拡大鏡が要りそうな極小の注意書きが印字と手書きの癖の中間みたいな不安定さで並び、私は息を止めて目を近づけて読み取った言葉を、読み終えてもなお脳の内側が勝手に反芻し続けるのを止められなかった。


受け取った人は同じ階の家に順番どおり回してください、三軒以上まとめて回すと鍵が甘くなります、回覧板は「夜の管理人」が見ています、遅くなるほど扉は増えます、扉が増えるほど名前は薄くなります、という連なりは意味が理解できないのに理解できないこと自体が輪郭のはっきりした恐怖として胸の中央に沈み、私は黒地図を束のいちばん下に戻し、ビニールの口を丁寧に閉じて自分の呼吸が曇りを作るのを見届けると、白い丸だけが曇り越しにもはっきり残るのを見て、回す、ただ回す、という作業へ身体を押し戻した。


部屋に一度戻って鍵を二度まわすと金属の歯が軽く笑ってくれて、内側に入る前に反射で廊下を振り返るとやっぱり誰もいなくて、増え続ける雨の層だけが床のタイル上に薄い波紋を重ね、テーブルには母のいつもの字で「カレー温めて食べること。回覧板よろしく」と置き手紙があり、私は誰にも見られていないのに首を小さく縦に振ってしまった。


ビニールの上にラップを重ねて重ねて濡れ対策を過剰にしながらも黒地図の丸だけが透けて視界の端で目を引き続けるのが落ち着かず、時計の針が二十時をわずかに過ぎているのを見て、遅くなるほど扉は増えます、という一行が喉の裏側に紙片のように貼りついた感覚のまま私はサンダルをつっかけ、雨の匂いが濃くなった廊下へふたたび出た。


303の前で私は足を止め、表札台座の端に細い擦り傷が斜めに二本走っているのに気づき、爪で引っかいたような浅い線が新しいのか古いのか判断がつかずに耳を澄ますけれど、冷蔵庫のモーターの残響もテレビの青白さの名残もなく、生活というものが一度剥がされた面にだけ残る静電気のようなじりじりした無音が、内側からこちらの皮膚をやわらかく押し返してきた。


私は回覧板をドアノブにそっと掛けるが、軽い板が今夜に限って妙に重く感じられ、ビニールの口がわずかに開いた気がして振り返るも風の向きは変わっておらず、ただ次の角部屋304へ向かう私の背中に、空の部屋の視線という形のない重さが乗ってくるのを肩甲骨で受け止めながら歩幅を短くした。


304のチャイムは半年前から壊れたままで、三回一定の間隔でノックすると内側でチェーンの金属がかすれ、その隙間から赤く乾いた老女の目がこちらを軽くなぞり、私は「回覧板です」と声を出し、差し出された掌に板を渡すと老女の視線が黒地図の面へ吸い込まれて瞬きが半拍遅れ、「今夜は雨が強いね」と話題をずらすように言ってから「すぐ回しますよ」と隙間を閉じ、チェーンの触れ合う音だけがさっきより温かく残った。


戻る通路で303の前をもう一度通り過ぎると、銀の台座の角に米粒ほどの黒い点がひとつ増えていて、私はそれがさっきは無かったと直感で断言できるのに証拠がどこにもないことに苛立ち、指を伸ばしかけてから触れたくないという体の判断に従って手を引き、ちょうどその時エレベーターの到着音が空鳴りのように響いて扉は開いたのに誰も降りず、鏡に映った廊下の奥で私の肩が勝手にすぼまり、鏡の中の私が半拍遅れて同じ動作をするのを見て、ずれるという現象が恐怖の第一歩に過ぎないことを思い出した。


部屋に戻って鍵を二度まわし、三度目の位置まで指が自然に進んでしまったのを途中で止めて「二回だけ」と声にならない声で口の形を作ったところで、ポストに何かが落ちる軽い音がして私は玄関の内側から差し込み口を開け、差出人のない白い封筒と対面し、糊が最初から閉じられていない封を開けると、真鍮色の古い鍵が入った小さな透明袋と一枚の紙片が、雨の匂いと混じった冷たい空気といっしょに掌へ滑り込んできた。


紙片には「見つけたら回してください、回せないなら開けてください、開けないなら覚えていてください、夜の管理人より」とあり、鍵の頭には小さく「303」と刻印されて、冷たい金属の輪郭が指の腹に沈むと同時に台所の蛍光灯の音まで薄くなるように感じられ、私は手を洗い直しても爪の間に残る金属の匂いが消えないことに神経を尖らせながら、鏡の前で自分の顔を確認して「今日の私」という確かさが紙の角みたいに欠けていることに目を逸らせなかった。


スマホが震えて母からの通話が入り「大丈夫? 雨、強いでしょ」といつもの調子で始まった声は半拍遅れて耳に届き、「回覧板、もう半分。すぐ戻る」と答えると「鍵は二回、三回はだめ」と間髪入れず返ってきて、「なんで」と訊いた途端に高い虫の音みたいな雑音が入り込み、季節外れの音に背筋がざわつく中「三回は、しないで」とだけ言い残して通話が途切れたとき、言葉の切れ端が玄関の空気にひらひら残るのが見える気がした。


私は部屋の照明を一段落として暗さを自分で選べる程度に揃え、壁の時計の秒針がさっきまで止まっていた位置からひと目盛だけ進んでまた止まるのを横目で見ながら、団地の掲示板アプリを開いて「黒い地図」と検索し、二年前の古いスレッドの「夜の回覧板の話、知ってる?」という軽い見出しの下に「黒い地図が入ってた、朝、鍵がゆるゆる」「夜の管理人に見られると、名前が消える」といった半笑いの書き込みが続き、最後は馬鹿馬鹿しいで閉じられているのを見て喉を鳴らそうとするが、喉は作動せずに鎖骨の下で音が粉々になった。


そのとき掲示板に新しい通知が跳ねて、投稿者名が伏せ字のまま「302の方へ。夜の管理人室には行かないで」という文章がちょうど私が封筒を開けて十分後の時刻で表示され、返信欄を出して「どうして」と入力するより早く同じ投稿者から「扉が増える前に」という追記が落ちてきて、背中の皮膚が一斉に鳥肌を並べるのを止められなかった。


キッチンの床に水滴の小さな列があり、私のスリッパの跡ではない裸足に近い浅い印が305の前で見たものと同じ長さで続いていて、玄関も窓もベランダの鍵も閉めているのにどこから来たのか経路が見えず、私は姿見の前に立って縁の曇りを指で拭うが内側の曇りは消えず、鏡の枠と壁紙の間に封筒が入りそうな幅の黒い溝があるのに初めて気づき、父が固定してくれたはずの脚が壁に少しめり込んでいるのを見て、名前を呼ぼうとした瞬間だけ父の名前の輪郭が砂のように崩れ、残ったのは筆圧の癖の記憶だけだった。


雨の匂いは窓を閉めた室内にも細い通路を見つけたみたいに入り込み、その通路は人の肩幅でやわらかい壁を持ち、私は回覧板を抱え直して「二軒」と心の中で数え、扉が増える前に、名前が薄くなる前に、と自分を押すための言葉を重ね、再び廊下へ出て非常灯の緑が濡れた床で膨らむのを避けるように歩いた。


305の前には浅い足跡が乾ききらずに残っており、右と左の幅がわずかに違うことが気になりながらチャイムを押して応答がなく、もう一度押したあと内側で鍵が触れ合う乾いた音だけがして開く気配はなく、私はそっとドアノブに板をかけると、束の中の黒地図が私の意志と関係なく一番上へ滑り出てきた感触が指先にあり、見なかったふりをして留め具を押さえたまま目線だけを前に進めた。


廊下の壁には昨日まで存在しなかった低い鉄扉が一本増えていて、四角い覗き穴は外からは何も見えないくせに内側からはこちらがよく見える構造を知っていると言わんばかりに冷たい沈黙を返し、私は指の腹で軽く二度叩くと足元の水の皮膜が一瞬だけ波立ち、扉の裏側に誰かが耳を当てて呼吸している距離感の気配が生まれて、音のない返事が「いる」と告げた。


エレベーターがまた空のまま到着して扉を開き、鏡は廊下の奥の303の表札台座を映し、その角にあった黒い点は二つに増えて指一本分の間隔で並び、私は肩を狭くして通り過ぎ、306では管理組合の役員をしている中年の男がチェーン越しの隙間から目だけを見せ、「回覧板?」と紙のように薄い声で言って掌を出し、黒地図へ視線を落として瞬きが遅れたあと「すぐ回します」とだけ言って隙間を閉じたが、チェーンの金属音のほうが彼の声より温度を持っていた。


踊り場に出ると雨の匂いがまとまって上へ押し上がり、ゴミ置き場の屋根を叩く音は規則的なのにときどき一拍抜け、その穴から「こっち」と子どもが呼ぶような短い音が現れては消え、私は身を乗り出して階下を覗くが誰もいないことを確認してから戻り、増えた扉がさらに一枚、今度は覗き穴が縦に二つ並んだ大人と子どもの目線の高さを備えたものに変わっているのを見て、両方から見られている温度が外気より少し高いのに背筋だけは冷えていく奇妙さに、胸の前で回覧板を盾のように持った。


307の前には黄色い小さな長靴が二つ几帳面に並んでおり、子どもの置き方というより大人が整えた並びだと分かる角度でまっすぐ、チャイムに応答はなく、のどの奥に砂を転がすような咳が内側で聞こえただけでドアは開かず、私はメモ欄に「雨のためビニール二重にしています」と一行書き添えると、ペン先の真下で紙が波打ち、束の中の黒地図の部分だけ比重が重く板の重心が指の中で偏るのを確かめた。


角を曲がると覗き穴のない扉がもう一枚増えており、そこには図書館の返却ボックスのような細い差込口がひとつだけ開いて、上に「ここへ回す」と黒マジックの手書きがあり、差込口の向こうからは遠い水音と金属の球が床を転がる鈍い音と、すぐ近くで紙の端を揃える乾いた音が重なり、誰かが差し込まれる紙を待っている静けさが金属越しに伝わってきた。


私は板の角を差込口へ合わせれば入ることを直感で理解しながらも手を止め、かわりにポケットから真鍮の鍵を取り出して歯を差込口の縁に軽く当て、金属が触れた低い音をひとつ鳴らすと、向こう側の紙の音がぴたりと止み、代わりにごく近い呼吸だけが金属一枚隔てた温度でこちらの額に触れるみたいに広がり、私はゆっくり鍵を下ろして後ずさりし、「番号のある家に回す」と口の中で句読点を置くみたいに唇を動かした。


307へ回覧板を掛け直した途端に板は急に軽くなり、黒地図がいつの間にか束の下へ戻って重心が元の位置へ帰り、私は踊り場で深く息を吸ったが、その瞬間だけ廊下の電気が一度落ちて雨の音だけが生き残り、すぐに点いた照明の下では影の位置がわずかにずれて、影の中に靴下の足が一本だけ濡れもせず立ってこちらを見ていて、私は首を横に振って「回すだけ」と無音で伝えると、足は一歩だけ後ろへ退き、いなかったはずの場所に濡れた足跡だけが証拠のように残った。


302の前まで戻ると表札台座の下のポスト縁に黒い点が三つ目まで増え、指で触れてもインクが移らず、金属そのものが黒く変質していることに気づき、これはやがて穴になる予告であり、名前が書かれる位置から白が削られていく仕組みなのだと嫌でも理解させられ、私は鍵を二度だけ確かめて中へ入り、扉を閉じてチェーンを掛け、呼吸の数を数え直してからテーブルに視線を戻した。


白い封筒の紙片はさっきと違う文を静かに抱えており、「見つけた扉は増えます、増えた扉はあなたを覚えます、覚えられた名前から薄くなります」とインクはもう乾ききっているのに今まさに書かれたばかりのような鮮度で浮かび、私は照明を一段落として耳を大きくすると、部屋の奥、洗面所でもキッチンでもない方向、すなわち姿見の脚の下、壁と鏡の隙間の見えない通路から、一秒に一滴という正確さで水が落ちる音が続いているのを聞いた。


私は椅子に腰を下ろし、真鍮の鍵をテーブルへ置くと薄い音が鳴ってその響きが壁紙の裏へ吸い込まれ、スマホが震えて亜衣から「明日、教材取りに行っていい?」という普段どおりのメッセージが届き、「いいよ」と返した直後に画面上の彼女の名前が一瞬だけ霞んで輝度を上げても濃度が戻らず、点の一部が微かに揺れてから固まるのを見て、私は「まだ大丈夫」という言葉を自分に当てながらも“まだ”という副詞が怖さの単位であることを知った。


雨の層は夜の厚みを増やすように深くなり、外の匂いは鍵のいらない細い道を選んで部屋へ入り続け、私は玄関の前で耳を当てれば差込口の向こうで紙の端を揃える音が戻っているのを確認し、今夜回すべき二軒をかろうじて終えた自分の指先に残る紙の感触を数えて「今はここで止める」と決め、チェーンを外さずに鍵を二度だけ確かめ、三度目の誘惑から目を逸らし、姿見の前に立たないまま部屋の灯りを落として、雨の間隔を数え、間隔がふっと合わなくなる瞬間に頭の内側へ差し込まれる一文「回してくれて、ありがとう。あなたの名前は、まだ濃い。今夜のうちに、もう二軒。」を、紙の手触りつきで受け取った。


私は枕元のノートを開いて自分の名前を丁寧に「浅野灯」と書き、インクが紙へ沈む速度を指で確かめ、沈んだ跡の確かさがやけに軽いことに気づいてページを閉じ、軽いものは簡単に動き、動いたものは元の位置へ戻しにくいことを思い出しながら、鍵は二回、三回はしない、という単純な掟を今夜の最後の輪郭として胸の中央へ置いた。


雨はやまず、団地は静まり、扉は見ていないところでまた一枚増える気配を濃くし、私は目を閉じて耳を広げ、自分の中の名前を順に呼んで濃さを確かめ、母、亜衣、そして自分、最後に父の名を呼ぼうとして輪郭が崩れる瞬間に息を止め、まだ、という言葉だけをその場所に残して、長い夜の最初のページを静かに折った。


雨脚は細かく編まれた布のように窓を叩き続け、暗闇は目を閉じていてもわかるほど室内の形をやわらかく丸め、私は枕元のノートの端に指を置いたまま眠りと覚醒の境目を往復しながら、胸の内側に置いた「まだ」という小さな石を転がさないよう、呼吸の位置と速度をゆっくり揃えた。


その時、家全体が低く息を呑むようにわずかに沈み、続けて天井のどこかで石の粒が一つ滑り落ちるほどの微かな衝撃があり、私は瞼の裏で光が薄く明滅するのを感じながら身じろぎせずに耳だけを前へ突き出し、音が去っていく方向を追いかけると、それは玄関でもベランダでもなく、寝室とリビングの境い目、昼間にはただの白い壁紙しか見えないはずのあの縦の影のほうへゆっくり引かれていた。


目を開けた私は暗闇に視線を慣らすためにあえて時間をかけ、最初は濃い影の塊にしか見えない部屋の輪郭が少しずつ解きほぐれていくのを待ち、光源のない薄明かりの中で壁の縦線がほんの少し太っているのを確認すると、毛細血管を思わせる細い筋が縦線の左右に一本ずつ増えていることに気づき、その筋が呼吸に合わせてかすかに膨らみ縮む様子に、壁そのものがこちら側と向こう側の境界として「生きている」ことをはっきり理解した。


私は起き上がらずに手探りで枕元のノートとペンをとり、音を立てないよう紙を一枚破って自分の名前をゆっくり、できるだけ太く書き重ね、最後の一画を伸ばしたところでペン先がわずかに引っかかって紙が毛羽立ち、インクの黒にわずかな空白が生まれたため、息を詰めたまま指でその隙間を押さえて均し、紙の手触りを確かめてからそっと膝の上に置き、壁のほうへ視線を戻した。


縦線の中央に、夜の温度を吸い込んでは吐き出す小さな黒い点が現れ、先に見つけた二つの点のちょうど中間で、壁紙の柄の節を正確に避けるような位置にあって、私はこれが内側から伸びてきた見えないドアノブの目印であることを直感で理解し、その理解が胸の真ん中を冷たく撫でるのを受け入れながら、ベッドから足をおろす前に「鍵は二回、三回はしない」と小さく言葉の形を作って口の内側に貼り付けた。


床に足をつけると板の下で空気が一度だけ鳴り、遠くの配管を水が通る音と、もっと近くで紙の端が揃えられる乾いた気配が重なり、その二つの音の間を縫うように、誰かが指で窓ガラスの結露をなぞるみたいな、書き順のない字を描くような、意味のないけれどこちらを指名する線が、見えないはずの空間に走り抜けていった。


私は立ち上がってからも一歩を踏み出すまでの時間を細かく分割し、足首、膝、腰、肩、視線と順に重心を移動しては止め、止めては移動し、壁の縦線から等距離を保てる地点まで近づいたところで停止し、指先だけを伸ばして空気の厚みを確かめると、見た目には何もないのに、その位置にだけ紙一枚ほどの抵抗があり、押し返してくる弾力が、やわらかい膜の裏側に誰かの掌があることを告げていた。


掌の向こうの温度は外気より一度ほど高く、しかし体温と言うには冷えすぎていて、私は膜をこれ以上刺激しないように手を引き、代わりに机の引き出しから油性のマーカーを取り出し、玄関の金属面に重ね書きした自分の名前の上からもう一度ゆっくりとなぞって厚みを増し、名前というものが実体を持つために必要な「重さ」を、インクと筆圧の両方で補強して、胸の内側に置いた小石と同じ材質に近づけた。


そのとき、スマホが身震いするように震えて画面も点灯し、団地掲示板のスレッドに新しい投稿が一つだけ増えているのが見え、投稿者は相変わらず伏せ字のまま、「回した方は、今夜は扉の内側に立たないで」という一文だけを投げ、続けて「返却口に紙を入れないで」「鏡の下の隙間を塞いで」「三回は回さないで」と箇条書きにもならない短い警告を三つ連ね、最後に「名前を声に出して」と書いて送信を終えた。


私はその最後の一行に従うことを迷わないほうがいいと判断し、声を小さく、けれどはっきりと、母、亜衣、自分、と順に呼び、父の名だけは呼び方を失って喉の奥が白く鳴ったため、代わりに名札プレートを手に取り、印刷されていない最後の一画の欠けを指先でなぞり、その欠けの周りに残っている黒の縁を少し広げるように親指の腹で擦り、紙やすりのような鈍い感覚が皮膚にまとわりつくのを受け止めた。


玄関のほうから、チェーンが存在を確かめるように一度だけきしみ、その直後、ポストの差し込み口が指一本分持ち上がる音がして、私は近づかずに床に座って耳だけを差し向け、入ってくるはずの紙が入ってこない気配のまま時間が伸びるのを数え、やがて差し込み口ではなく鏡の下の細い溝から微かな空気の吸い出し音が生まれ、吸い込まれるものが今は何もないにもかかわらず、通路の向こうで何かが口をすぼめてこちらの名前を試食するみたいな行為を繰り返しているのを、喉の奥の苦みで理解した。


私はラップの箱を取り出し、鏡の脚の下、壁との隙間に数枚重ねて押し込み、テープで縁を目張りし、最後に上から薄いタオルを折って差し込み、即席の塞ぎを作りながら、ラップの張りが呼吸と共鳴して伸び縮みするたびに、あちら側の舌打ちのような乾いた音が一つ、また一つと増えるのを数え、その数が秒針の進みとずれていくところで作業を止め、視界の端に見える壁の縦線の黒い点が四つ目へ増えていることに、遅れて気づいた。


四つ目の点は、さっきまで雨の温度を吸っていた三つよりも濃く、点というよりは細い針穴に近い形で、私は針穴から室内の音が外へ抜けていく感覚をはっきりと覚え、同時に外の別の音、階段を誰かがゆっくり降りるときに手すりへ置く掌の湿った音が、中へ染み込み始めているのを、胸骨のわずかな振動で受け取った。


息を乱さないままに、私は303の鍵をポケットの底から取り出し、その真鍮の重さを掌で受け直し、鍵の歯の一本一本を親指の腹で確かめ、それを玄関の金属面に一度軽く当てて小さな音を出し、その音が部屋の四隅に跳ね返る様子を目で追い、音の余韻が最も長く滞留した角に向けて、心の中でだけもう一度、自分の名前を呼んだ。


返事はないけれど、返事の不在がこれ以上薄くならないようにと願って目を閉じると、雨の層の奥から団地全体の低いうねりがひときわ強く押し寄せ、その波が去ったあとに置き土産のように、壁の縦線の中央に極細の銀色の筋が浮かび、筋はほんの数秒だけ存在して消え、私はそこが今夜扉になりかけて、まだ「ならなかった」場所であることを確かめ、ならなかったという事実に、まだ、という言葉をもう一つ重ねて、胸の石と並べた。


やがて時計の秒針が一目盛ぶん早足になり、すぐ元の速度へ戻り、私はそれを合図に灯りをさらに落として横になり、玄関の名前の厚み、ポケットの鍵の重さ、鏡の塞ぎの張り、壁の点の数、掲示板の短い警告、そして自分の声の濃さをひとつずつ指でなぞってから、二回だけ、という掟を最後の祈りの形に整え、夜の残りを静かに抱え込むようにして、もういちど目を閉じた。


目を閉じた闇の向こうで、扉は見ていないところでまた一枚増えることをやめず、けれど今はまだ、こちら側の名前がこの部屋に属しているという重さが、雨音よりも確かに私の体を沈めていて、私はその沈みの底で浅い眠りへ指先を浸し、次に目を開ける瞬間まで、自分の名の最後の一画を、心の中で書き続けた。


雨の層は深い海圧のようにじりじり重みを増し、浅い眠りへ沈めていた指先はその質量を一本ずつ数え上げるように痺れ、私は夢と現の継ぎ目で耳だけを水面へ浮かべるみたいに意識を上げ、遠方で紙束の縁を揃える乾いた擦れと、もっと遠くで鋼の玉が床を転がり壁に当たってまた転がる律動が、団地全体の拍動みたいに規則を刻んでいるのを、瞼を閉じたまま聴き取った。


やがて家がひと呼吸分だけ静かに膨らみ、同じ幅で収縮する気配があり、その揺れに合わせて壁の内側で木枠が細く鳴り、私はまぶたの裏に触れる明暗の濃淡で部屋の輪郭を組み替えつつ、寝室とリビングの境に置かれた“まだ扉ではない影”が夜気を少し余分に吸い込んで厚みを増したのを、呼吸の引っかかりとして受け止めた。


目を開けば、時計は三時と四時の間の狭い溝へ針を掛け、秒針だけが務めを続けるふりをしながら時折一目盛ぶん怯えて止まり、止まるたび影が半歩ずれ、その度に縦線の中央に置かれた黒点の縁取りが濃さを増し、やがて針穴のような抜けへ変わって室内の音がそこから外へ抜け落ちる感覚を、胸骨裏の小さな空洞で確かに感じた。


私は起き上がるかわりに枕元のノートを胸へ滑らせ、紙端にそっとペン先を置き、自分の名の最後の画を音もなく長く引き延ばし、その線が紙面を越えて机、床、玄関の金属、そして成りかけの影の手前へまで届くところを思い描いてからペンを離し、直後に玄関の向こうで歯が二度だけ並び直る低い擦過を拾い、三度目へ進もうとする気配をチェーンの短い金属音が押し返すのを、厚みの違いで聞き分けた。


外の誰かは鍵を試すのをやめ、ポストの差し込みを指一本ぶんだけ持ち上げ、何も挿れないまま金属の唇を閉じると、こんどは扉そのものへ額を寄せたのか、木と皮膚が触れる弱い摩擦が一度だけ生まれ、こちら側の額と見えない一枚の鋼を挟んで正確に向き合い、それから言葉も足音も置かずに温度だけ残して離れていき、その重みが階段の曲がりで消えるまでの間を、私は胸の上のノートの重量で測った。


部屋は再び私の側へ戻ったふりをしつつ、戻り切らない境は縦線の辺りに残り、私は目を逸らさずその狭い溝を見守り、輪郭が馴れることを避けるため焦点を半歩ぼかし、視界の周縁で黒点が四から五へ、さらに下へ芽を出す直前のわずかなざわめきに変わるのを、布に針先を探す指の感覚で押し止めた。


私はベッドの端に腰を移し、玄関の金属へ油性で重ねた自分の名の最終筆を指腹で確かめ、乾き切ってなお残る“厚さ”の触感が返ってくることに頷き、その重みがまだこの部屋の側へ属していると心内の秤で量ってから、鏡脚の塞ぎに当てたラップとタオルをなで、呼吸に合わせてわずかに張る鼓動が保たれているのを確かめ、小さな安堵を名の周囲に巻きつけて結び目を作った。


ちょうどその頃、机に伏せていた透明の黒地図が照明もないのに微かな反射を返し、私は角をつまんで斜めに傾け、彫りの軌跡を追う。昨日まで透き通っていた「302」の縁に薄い欠けが増し、数字の空洞へ髪一本ほどの白い筋が差し込み、その白がインクではなく“剥き出しの名の地肌”だと直感して、透明の図をラップで包み直し紙の図の下へ滑らせ、重ねの最上にノートを置いて、紙の重みで線の輪郭を守った。


窓辺では針のような雨が等間隔で硝子を縫い、針と針の合間にだけ薄い静けさが生まれては消え、その隙間に遠い踊り場で手すりを撫でて離す微音が一つ落ち、その振動が壁内の枠へ届くころには、縦の影が呼吸と同調して微かにふくらみ、また萎むのを、目だけでなく皮膚の内側でも判じられるほどの大きさになっていた。


私はいったん瞼を閉じ、母、亜衣、自分と順に名を声なきまま濃くなぞり、父の位置で輪郭が崩れる瞬間に息をとどめ、崩れた砂の上へ“まだ”という小石をもう一つ置き、ふたつの重みが支え合う位置へ落ち着くのを感じてから目を開ける。黒点は増えていないただ針穴の縁がうっすら湿り、向こう側がこちらの湿度を学び始めているのがわかった。


朝は来ないふりを続けながら濃度を上げ、暗の黒が濡れた灰へ移る途上、団地の遠いどこかで扉が一枚だけ静かに閉じ、その合図にもかかわらず私の部屋では何も閉まらず、何も開かず、“未完成の扉”の気配だけがもう一段こちらへ寄ってくる。私は迎え撃つ準備として鍵を二度だけ確かめ、三度目へ歯が誘われる癖を口中の言で縛り、結び目の上から自分の名の終筆を心で重ね、その手触りを指腹へ移し替え、長い夜の次頁を折らずに持ち越す体勢を整えた。


そして薄明の底で、私はゆっくり立ち、縦線から半歩離れて、空気に紙一枚ぶんの抵抗が生まれる地点へ手を差し入れ、その柔い反撥の奥にこちらの名を転がす舌のぬめりを感じ取り、その見えない面へ向けて、ごく小さな声で、名の最後の線を一度だけそっと引き足した。


空気がわずかに沈み、指先の前で目に見えない膜が震えた。

振動は水面のさざめきに似ているのに、温度は人肌より冷え、湿りだけがこちらの皮膚へ薄く移る。

呼吸を整えると、壁の奥から紙を揃える短い擦過が一度、続けて金属の丸い物がどこかで転がり、遠くなる。


私は手を引き、足裏で床のきしみを確かめながら後退した。

影は薄明に合わせて細り、黒点の縁だけが濡れた墨のように艶を持つ。

耳を澄ますと、鏡の塞ぎが微かにきゅっと鳴り、ぴんと張ったラップが息づく。


机へ戻り、紙の束の上に置いたノートを開く。

先ほどの一画は乾き、指でなぞると微かな段差が残っている。

そこに名前の重さを乗せ直すように、ページの隅へ小さく日付を記した。


玄関の金属面に目をやる。

重ね書きした文字は剥げず、黒の厚みが光を吸っている。

鍵穴の周囲で、誰かの額が触れていた位置だけ、白く曇った跡が楕円に残った。


掲示板の通知が震え、短い一文が増える。

「今夜回した数を覚えてください」

続けて、数秒後にもう一行。

「返し口は朝に閉まります」


私は茶封筒を引き出しから取り出し、透明の地図と紙の図を重ねて入れた。

名札の欠けは別に包み、303の鍵は布越しに歯形を感じる位置へしまう。

重心が少し整い、頭の内側の音が静まる。


窓の外が灰に寄り、雨脚は細る。

団地の遠いどこかで、階段の踊り場を拭くような布の擦れが二度。

その合間に、エレベーターが空のまま一度だけ上下し、止まる。


壁へ視線を戻す。

縦の影は太らず、黒点の数も増えない。

代わりに、目の高さの針穴から、甘い匂いが薄く流れ込んだ。


胸の前で両手を組み、低く短く数を読む。

一、二。

鍵は二度だけ。

その合図を胸骨に置き、声にならないところで固める。


キッチンの蛇口から、落ちた覚えのない滴が一つ。

音は小さく、時計の秒針とずれない。

ずれないこと自体が、逆に気味を悪くする。


私は姿見の前に立たず、横を通り過ぎる。

塞ぎのタオルは乾いたまま。

縁のテープは剥がれていない。


ベッドへ腰を下ろし、ノートを閉じる。

表紙の端で爪を弾くと、紙の重ねが小さく応える。

その反響を合図に、目を細めて部屋全体を見渡す。


どこも開かず、どこも閉じない。

それでも、内と外の境い目だけは起伏を忘れず、薄い背骨のように室内を通っている。

私はその線から半歩外れて、肩の力を抜く。


薄明はやっと朝に傾き、窓の灰が明度を上げる。

遠くの車のタイヤが水を切り、鳥の鳴き交わしが一声。

団地のどこかの扉が、遅れて一回だけ、乾いた音で合図した。


呼吸を整え、胸の奥で自分の名を一度、丁寧に唱える。

母、亜衣、自分。

父の位置は空白のまま、そこに小石の重みを置く。


立ち上がる。

玄関の前で、鍵の角を指に当てる。

二度だけ回す形を、指先に覚えさせる。


扉の内側に生まれかけた線は、今は眠っている。

眠りは浅く、起き足は軽いはずだ。

けれど今はまだ、こちらの名がこの部屋の重みを持っている。


私はその重みを確かめ、朝へ向けて灯りを一段だけ上げた。

紙の束は静かに現実へ馴染み、金属の文字は薄く光を返す。

そして、最初の足音が廊下の端で生まれるのを待った。


廊下の向こうで、ラバー底が濡れた床を押す音が近づいた。

金属製のワゴンが角を曲がり、清掃用具の柄が揺れる。

青い作業服の若い男が、こちらに気づいて軽く会釈した。


ドアは細く開けたまま、鎖だけ残す。

「おはようございます」

声は端正で、夜の湿りを連れていない。


「夜、何かありました?」

モップを立てかけ、彼は足元を見回す。

目線がポストの縁に止まり、次に表札台座へ移った。


台座の黒い点は三つのまま。

増えもせず、薄れもしない。

私は肩を小さく下げた。


「非常階段に紙が落ちてました」

彼は透明のファイルを差し出す。

薄い図面が一枚、黒の面積が大きい。


受け取ると、昨夜のものより縮尺が荒い。

棟の外周だけが太線、内側はほとんど塗り潰し。

白で抜かれた丸は、たった一箇所。


管理人室。

印のすぐ横に、鉛筆で細く書き足した字。

「午前九時まで」


「掲示板に貼っておきますね」

男はそう言ってワゴンを押し出す。

タイヤが水を切り、角で消えた。


扉を閉め、二度だけ鍵を回す。

金属の噛み合いが、夜より素直に収まる。

鎖を外さず、スリットから空気の温度を測る。


机に広げ、紙と透明シートを重ねる。

縮尺は違うのに、角の欠けが一致した。

端のわずかな歪みまで、同じ癖。


時計は八時を回った。

冷めたカレーの匂いが台所に残る。

一口だけ温めて、塩気で喉を動かす。


スマホに短い通知。

「午前の便、遅れます」

母からの連絡は、それだけ。


洗面所の塞ぎは保っている。

テープの端を押し直し、タオルの角を整える。

鏡面には曇りが出ていない。


玄関の金属文字を指で確かめる。

厚さは変わらない。

黒はまだ沈んでいる。


九時が近づく。

団地のどこかで一斉に鍵の音が鳴り、郵便受けが開閉する。

エレベーターの表示灯が上から下へ滑る。


私は封筒をバッグに入れた。

透明図、紙図、名札の欠け、303の鍵。

重さが均等になる位置を探して詰める。


靴を履き、鎖を外す。

ドアを引くと、廊下の灰色が薄く上がった。

非常灯の緑は夜より小さい。


管理人室は一階の奥、掲示板の裏。

階段を降りる間、各階の踊り場に水の輪が残っている。

誰の足跡も混じらない円形。


扉の前に到着。

木目の古い建具、真鍮の取っ手。

札には「在室」。


ノックを二回。

返答はなく、内側で紙の束が揃う気配。

そのあと、閂が外れる音。


「どうぞ」

年配の女の声が、思っていたより柔らかい。

私は隙間から中へ足を入れた。


室内は狭い。

机が一つ、金属の棚が二つ。

壁際に古い印刷機、静かなまま。


女は濃紺のカーディガンを羽織り、眼鏡を外して布で拭いていた。

机上には回覧板の束、輪ゴム、朱肉。

端に黒い封筒が積まれている。


「落し物を受け取りました」

透明ファイルを見せる。

女は眉をわずかに動かした。


「見せて」

指先は白く、爪は短い。

図を一瞥し、時間の欄を指で押さえる。


「これは夜の分」

「朝にも配るんですか」

「朝は回収だけ」


私は鞄から封筒を出した。

透明の図と紙の図、それから名札の欠片、古い鍵。

机の上に順番に置く。


女は欠片だけを手に取り、印字の欠けを目でなぞる。

「あなたの名?」

頷くと、朱肉の横から薄い紙を取り出した。


「失った画は、すぐには戻らない」

「戻すには」

「今夜を越えること」


彼女は透明図へ視線を落とし、指で角を合わせていく。

私の持つ紙と、棚の下段から出した別の写し。

三枚がぴたりと重なった。


「三つ重なれば、しばらく薄れない」

低い声が、紙の間を滑る。

「ただし、昼のあいだだけ」


「夜になったら」

「また来る」

短い答えは、質問の余地を残さない。


彼女は303の鍵を掌で転がし、刻印を確かめた。

「これは返さないほうがいい」

机の引き出しを少し開け、すぐ閉じる。


「なぜ」

「扉は、貸す顔を覚えるから」

言い終える前に、壁の時計が九時を指した。


管理人室の外で、誰かが廊下を通り過ぎる。

キャリーの車輪が短く鳴り、遠ざかる。

女は眼鏡を掛け直した。


「午前はここまで」

「午後は」

「夕暮れ前」


私は紙の束を持ち直し、深く礼をした。

扉を引くと、廊下の空気が新しく換わる。

湿りは残り、冷気は薄い。


階段を上る途中、掲示板の前で立ち止まる。

同じ図が貼られている。

管理人室の丸に赤い囲み、横に小さく書き込み。


「夜間連絡先 管理人不在時は回収箱へ」

地図の角に矢印。

返却口の位置が示されていた。


自室の階で降りる。

角を曲がると、見慣れた廊下の先に違和感が一つ。

昨日の低い鉄扉が、跡形なく消えている。


表札台座の黒点は依然三つ。

針穴は閉じ、甘い匂いは残らない。

代わりに、空気の密度だけがわずかに軽くなっている。


鍵を回し、内へ入る。

鎖を掛け、背中で扉を押さえる。

静けさが戻る。


机の上、重ねた紙はずれない。

透明面の下で、白い筋が動かない。

名の輪郭は、午前中だけ濃さを保つ。


私は椅子に腰を落とし、深い呼吸を一度。

窓の雨粒は少なくなり、光が薄く広がる。

この静けさのうちに、やるべき順番を決めた。


昼までに、封筒の整理。

夕方前に、もう一度一階へ。

夜が来る前に、名前をもう一画、太らせる。


ページを開き、細い線で予定を書き込む。

インクの痕は乾きが早い。

指先はようやく温度を取り戻す。


団地全体の音は日中の形へ移りつつある。

洗濯機の回転、テレビの小さな笑い声、遠いドアベル。

それらが重なり、夜の名残を押し出していく。


ただ一箇所、押し出されないものがある。

玄関の金属に重ねた文字の厚み。

私の側の重さ。


その存在を確かめ、椅子を引いた。

台所へ向かい、湯を沸かす。

湯気が立つ瞬間、壁の縦線は揺れなかった。


湯気は静かに天井へほどけ、金属の蓋が小さく鳴った。

湯をカップへ移すと、香りが部屋の隅まで薄く広がる。

口を付ける前に、電話が震えた。


表示は亜衣。

「今から寄っていい?」

声は軽いが、語尾に迷いが混じる。


「昼前なら」

返すと、少し間があって「三十分」とだけ言って切れた。

通話履歴の下で、掲示板の通知が点灯している。


「午前の回収、あと一度」

短い一行が、時間を押すように見えた。

私は封筒を取り出し、内容物を順に確認する。


透明の図面は端を押さえると反りが消え、紙の写しは角の欠けが一致。

名札の断片は手触りが乾き、指を汚さない。

鍵の歯は布越しでも形がわかる。


玄関の金属文字に触れる。

厚みは維持され、黒は沈んだまま。

表面温度だけが外気よりわずかに高い。


廊下から軽い足音。

扉越しの気配は一人分。

チャイムは鳴らないまま、ノックが二度。


鎖を残し、少しだけ開ける。

「おはよう」

亜衣はフードの水滴を払って笑った。


「中、入っていい?」

頷くと、靴をそろえて上がるしぐさが丁寧だった。

濡れた傘は新聞の上に置く。


「渡すプリントだけ」

彼女はリュックから封筒を出した。

角に団地の回覧印が押されている。


「それ、どこで」

「玄関ポスト。朝に入ってた」

中身は白紙。角だけ黒い縁取り。


紙を光に透かすと、薄い線が浮いて消えた。

読めない設計図の骨組みのような影。

亜衣の手元で、その影が少しだけ濃くなった。


「昨日、寝られた?」

「短く」

「顔色は悪くない」


テーブルの上の封筒へ視線が落ちる。

彼女は名札の欠けに気づき、形を指でなぞった。

「これ、戻る?」


「昼のあいだは濃い」

自分でも不思議な台詞が口を出た。

亜衣は深追いせず、頷いて視線を外す。


湯を二杯に分け、マグを差し出す。

温かさで指の震えが収まる。

会話は短く切れ、沈黙が居心地を悪くしない。


「帰り、管理人のところ通る」

亜衣がぽつりと告げた。

「掲示に“夕暮れ前”ってあったから」


その言葉で、室内の時計が少し早く進んだ気がした。

私は紙の束をバッグへ戻し、口を閉める。

透明の図は底、鍵は一番手前。


ふいに、台所の壁が軽く鳴った。

縦の線ではなく、配管の向こう。

水は落ちていないのに、響きだけが通る。


「今日は雨、上がるかも」

亜衣が窓の方を見た。

雲は薄く、灰色が白へ寄っている。


彼女は封筒を胸ポケットへしまい、立ち上がる。

「夕方、また連絡する」

ドアの前で振り返り、小さく手を上げた。


廊下へ出る足音が遠ざかる。

私は鎖を掛け直し、鍵を二度だけ確かめた。

金属は素直に噛み合う。


机へ戻り、予定の行を一本増やす。

「十六時すぎ、再訪」

字は細く、線は揺れていない。


昼の音が広がる。

洗濯槽の回転、誰かの窓を開ける軋み、遠い笑い。

夜に残った匂いは薄れ、空気が軽くなった。


それでも、静かに残るものがひとつ。

玄関の黒い筆圧と、鞄の底の真鍮の重み。

それを背骨の位置に置き直し、呼吸を整える。


湯は飲みきり、マグは空。

シンクに置くと、陶器が乾いた音を返した。

私は立ち上がり、昼の光へ肩を差し出した。


廊下のほうから、乾いた布で床を拭く擦過が一度だけ滑っていった。

窓辺の雲はちぎれ、白が優勢になる。

私は洗濯物を一枚だけ干し、揺れの具合で風向きを読む。


鞄の中身をもう一度入れ替える。

透明の板は封筒の奥、紙の写しは手前。

金色の歯は小袋に移し替え、外ポケットへ。


机の端でスマホが点滅した。

「夕刻、掲示更新予定」

管理人室からの一斉連絡だ。


時間までの間を、静かな作業で埋める。

台所の引き出しを整え、不要なチラシを三つ折りにして束ねる。

メモ帳の角を切りそろえ、ページの端に小さく印をつけた。


正午を過ぎると、階下の子どもが廊下を走り抜け、すぐに止まる。

遠くのベランダでハンガーが触れ合い、細い鈴のような音を置く。

外気は乾き、壁の冷たさが和らいだ。


玄関の金属文字に軽く触れる。

朝より温度差が少ない。

塗り重ねた黒は、沈黙のまま保たれている。


影の縦筋は細い線に戻り、針穴の位置は閉じたまま。

甘い匂いも漂ってこない。

代わりに紙の香りだけが、鞄の口もとでかすかに立つ。


午後三時、短いメッセージが届く。

「四時半、来室可」

文末に小さな点がひとつ打ってあった。


外へ出る支度を始める。

鍵束の位置を掌で確かめ、靴紐を結び直す。

封はきちんと折り、口をテープで一度だけ留めた。


廊下へ出ると、空気は薄く甘い。

階段の踊り場には誰もおらず、床に輪もない。

各階の掲示板に同じ紙が増え、赤い丸が強調されている。


一階で角を曲がると、カートに山積みの古紙。

作業員が紐を締め、段ボールの面を掌で叩いて形を整える。

奥の扉の札は「受付中」に掛け替えられていた。


軽く二回ノックし、呼吸を整えてから取っ手を引く。

中には朝と同じ机、同じ棚。

違うのは、黒い封筒が一つだけ減っていること。


女は書類に押印していた。

顔を上げると、視線はすぐ封筒へ移る。

私は中身を順に差し出し、端を押さえて待つ。


「昼は、静かだったね」

眼鏡越しの瞳が、わずかに柔らぐ。

「夜のほうが、仕事が多い」


彼女は透明の板を光にかざし、角の欠けをなぞる。

紙の写しを下へ、私のものを上へ。

三枚重ねて、端を揃えた。


「今から貼り合わせる。短い効き目だけど、夕暮れまでは持つ」

細い糊を縁に引き、金属の定規で空気を追い出す。

重ねた面の下で、白い筋が動かない。


「欠けた名は」

「一画だけ足りない。夜を越えないと戻らない」

返事は簡潔で、余白を許さない。


「鍵は?」

私は小袋を差し出す。

「持っていなさい。貸したままが一番まずい」


切り貼りを終えると、女は封筒を返してきた。

「返却口は今夜も開く。ただし、数を超えないこと」

視線が一瞬だけ鋭くなる。


私は頷き、深く礼をして部屋を出る。

廊下の温度は朝より高く、湿度は低い。

階段を上がる足取りは、朝より軽い。


自室の前、表札の台座に変化はない。

黒い点は増えず、金属は鈍く光る。

鍵を回し、室内へ戻る。


テーブルに封筒を置き、時計を確認する。

四時を少し過ぎたところ。

空は薄い橙色を含み始めている。


窓を細く開けると、外の気配が入った。

洗濯機の終わりを告げる短いメロディ、遠い自転車のブレーキ。

鳥の影が一羽、屋根の上を横切った。


私はノートの次の頁を開き、線を一本引く。

今夜の順路と、数の上限を書き留める。

最後に、自分の名を小さく重ね、筆圧を確かめた。


夕暮れは、ゆっくり近づいてくる。

それまでの間、呼吸を揃え、余計なものを増やさない。

光が壁を浅く染め、部屋の輪郭が穏やかに揺れた。


窓際で色が橙から薄紅へ移り、天井の白がやわらかく沈んだ。

机の端に置いた封筒の影も、細長く伸びる。

脈拍をゆっくり落とし、椅子の背に肩を預けた。


短い通知音が一回。

亜衣から「寄る前に連絡する」とだけ。

返信は要らないと判断し、画面を伏せる。


玄関の金属文字へ触れ、筆圧の残りを確かめる。

午前より温度差は少ないが、輪郭は崩れていない。

ポケットの真鍮も、掌で形が読めた。


階下から、台車のゴムが床を滑る低い振動。

続けて子どもの笑いが一度、すぐ消える。

音の層が薄くなり、風が主役に入れ替わる。


私はメモに小さく数字を書き、黒の点で順序を記す。

余白は残しておく。

書き過ぎると、言葉がこちらを引っ張るから。


水を一口。

コップの縁が光を拾い、窓の線を細く反射した。

視界の端で、壁の縦筋は静止したまま。


靴下を履き替え、上着を椅子の背から取る。

鞄の口を開け、封筒を立てた位置へ戻す。

鍵は取り出しやすい箇所へ移動。


時刻は四時半を越える。

日向の色が端から剝がれ、床の模様だけが残る。

匂いは乾き、湿気はひと段落した。


廊下へ出る。

非常灯の緑は小さく、空の方角が明るい。

角を曲がると、掲示板の紙が新しい留め具に替わっていた。


階段を降りる足取りは一定。

踊り場の壁に、消えかけのクレヨン。

波線が一本、黒の上に薄く残る。


管理人室の扉前で息を整える。

二回叩き、返事を待つ。

取っ手が内側へ引かれ、すぐ隙間が開いた。


「時間どおり」

女は声を落として言った。

机の上には、朝の束に一枚だけ追加がある。


私は封筒を差し出し、中身を机へ並べる。

透明板、紙の写し、名札の欠片、真鍮。

順に向きを揃え、端を合わせる。


「今夜の巡り、数を決めて」

女は鋭い鉛筆を取り、私の紙へ小さく印を打つ。

「二。間違えないように」


「返却口は」

「使わない。見つけても触れない」

視線が正面から刺さり、言葉は短く切れた。


彼女は角をテープで補強し、重なりを再固定する。

狭い部屋に糊の匂いが薄く漂った。

金属の定規が紙の上を伏せて走る。


「名は」

「朝まで保つ」

「それで足りる?」


返事の代わりに、私は頷いた。

女はわずかに満足げに口角を上げ、封筒を戻す。

「外は明るいうちに帰りなさい」


部屋を出ると、廊下の明度は落ち始めていた。

階段の手摺が冷え、鉄の匂いが弱く残る。

上がる途中、踊り場の波線はもう見えなかった。


自室の前までくる。

台座は変わらず、金属は鈍い。

鍵を回し、内側へ滑り込む。


窓辺は黄から藍へ移る途中。

向かいの棟のガラスが同じ色を少し遅れて拾う。

部屋の輪郭は、穏やかなまま薄暗がりに馴染んだ。


机に封筒を置き、ノートを開く。

今夜の数を大きく、二に丸。

下に小文字で時刻の目安。


玄関の前に立ち、金属の文字へ指を置いた。

厚さはそのまま、熱はわずかに低い。

胸の奥で回す順序をもう一度、静かにならべ替える。


外は夕刻の匂いに変わり、風が乾いた音を連れてくる。

暗さが一段深くなれば、夜の仕事が始まる。

私は肩の力を落とし、深く息を送った。


窓の色が藍へ沈み、境い目に一番星が滲んだ。

玄関の前で指を伸ばし、金属の文字に触れる。

黒は薄れず、指先へ静かな重みを返す。


鞄の口を整え、鍵の向きを確かめた。

封筒は底、名札の欠片は内ポケット。

真鍮は取り出しやすい位置へ。


靴紐を結び直し、肩の落ち具合を調える。

胸の奥で数を一度だけ唱える。

二。


鎖を外し、扉を引く。

廊下の空気は乾き、低い温度が張り付いている。

非常灯の緑が細く、床に短い楕円を置いた。


角を曲がる。

掲示板の紙は新しい留め具で静止し、下辺だけが風にわずかに揺れる。

階段の踊り場は空で、壁の塗装が夜色を吸っている。


一段ずつ降りる。

足裏の響きが薄く連なり、手摺が冷えを伝える。

一階へ着いて、廊下の右手を見る。


返却箱の札は覆いで隠されていた。

赤い矢印は折りたたまれ、使うなという無言の線になっている。

私は視線を離し、奥へ進む。


管理人室の扉は閉ざされ、札は「巡回」。

ガラス越しに棚の端だけが見える。

黒い封筒が一つ減っている。


外へ出る。

夜風が頬を撫で、駐輪場の金属が微かに鳴った。

棟の間に、薄い霧の筋。


棟の裏手に沿って歩く。

白線は薄れ、雨跡が乾いた地図のように残る。

照明柱の下だけ、地面が温かい色を保っている。


別棟の影を抜け、戻る。

自分の階段を上がりながら、耳だけ前へ伸ばす。

廊下の奥から、紙の束を揃える短い気配が一度。


立ち止まる。

その音は続かない。

代わりに、誰かの靴底が遠くで掠れた。


自室の前で足を止め、台座に目をやる。

黒い点は増えていない。

針穴の位置も沈黙のまま。


回す順を決める。

今夜は廊下の片側だけ、上下を跨がない。

長い動線は作らない。


三〇五へ向かう。

ドアの前に、薄い水痕は見えない。

インターホンを押さず、ノブへ板を掛けるかたちだけ真似た。


その瞬間、背後で金属の薄い触れ。

振り返ると、エレベーターが無人のまま開いた。

鏡の奥に、誰もいない廊下が二度映る。


扉が閉じると、音は消えた。

私は呼吸を整え、三〇六へ進む。

チェーンの内側に生活の明かり。


ノックを二回。

返事はなし。

隙間風が頬に触れ、冷たさが入った。


板を掛けず、足を引く。

自室側へ戻りながら、視線は壁の縦筋へ。

日中、細かった線は厚みを増していない。


最初の一つを決める。

三〇七。

ドア前に並んだ黄色い長靴は片づけられている。


ベルを押さず、ドアポストへ軽く指を当てる。

中の空気は乾き、音は返らない。

私は「通過」と心に小さく印を打つ。


三〇四へ。

角部屋の扉は固く、下縁のゴムが床を掠る。

ノックはせず、しばらく立つ。


内側で何かが擦れ、すぐ止まった。

そこまで。

私は踵を返す。


一つ目は三〇三。

それを認めるしかない。

鍵の冷たさがポケットごしに伝わる。


扉の前に立ち、耳を板へ寄せる。

微かな空洞が広がるだけ。

生活の気配は無い。


真鍮を取り出し、歯の向きを確かめて差し込む。

回す動作の前で、一度停止。

喉の奥で数を短く打つ。


二つのうち、これが最初。

金属は抵抗せずに回り、内部のラッチが静かに退いた。

隙間が自分から開く。


中は暗く、湿度は低い。

玄関マットは無く、薄い埃が線を描いている。

靴箱の上に、紙片が一枚。


拾い上げる。

「今夜はここまで」

鉛筆の濃さが不揃いで、筆圧が浅い。


視線を外へ戻す。

廊下の温度は同じ。

ただ、空気の密度が少し減った。


扉を静かに閉め、鍵を抜く。

金属の微振動が指へ残る。

私は掌で熱を散らす。


次の一つを選ぶ。

三〇六でも三〇七でもない。

向かいの空き部屋三〇八は封がしてある。


斜め向かいの三〇一。

表札の文字は新しく、鈴の跡がドア脇に残る。

呼び鈴に触れず、ポストの隙間に耳を寄せた。


柔らかい息づかい。

子どもの笑いが遠くに混じる。

ここではない。


三〇五の前へもう一度。

床に光が落ち、粒が動く。

覗き穴は黒い。


私は背中で壁を押し、数を再確認する。

残りは一。

誤らない。


三〇四に戻る。

角部屋の静けさは変わらず、内部の空気は重い。

取っ手へ指を置く。


ノックを二回。

今度はかすかな移動音。

チェーンは掛かったまま。


「回覧板」

声に出さず、形だけ唇で作る。

内側の床が一枚きしんだ。


私は留め具を軽く鳴らし、ドアノブへ触れずに引いた。

誰も受け取らないまま、合図だけを置く。

これを二つ目と決める。


胸の奥で締める。

以上。

余計な動きは加えない。


自室まで戻る。

台座の黒点は変化なし。

鍵を二度だけ回す。


扉が閉じ、室内の匂いが戻る。

鞄を机へ置き、真鍮を布へ包む。

封筒は中央、名の欠片は左。


ノートを開き、今夜の印を小さく記す。

一、三〇三。

二、角。


線は震えず、乾きが早い。

窓の外は紺に寄り、遠い街灯がひとつ増えた。

私の名前は、まだ濃さを保っている。


玄関の金属文字に指を置き、厚みを測る。

朝と同じだけ沈む。

胸の結び目は解けず、息は一定だ。


今夜の巡りはここまで。

数は越えない。

呼吸を整え、灯りを一段落とした。


壁の色が深くなり、窓の外で藍が静かに濃度を上げた。

机の端に置いた封筒は影を細くし、角だけが薄い光を拾う。

耳を澄ますと、建物の骨組みが遠くでひとつ軋んだ。


スマホが短く震える。

「無事?」とだけ亜衣。

「戻った」と送って画面を伏せる。


台所の水栓に触れると、冷たさが爪の裏へ上がった。

コップへ少量だけ注ぎ、喉を湿らせる。

陶器がシンクに触れた時の音は、昼より軽い。


玄関の金属へ指先を置き、筆圧の残りを確かめる。

黒は沈み、輪郭は崩れていない。

内側の気温は均一で、息は乱れない。


姿見のほうへは向かわない。

塞ぎの布は端まで密着している。

テープの角は浮いていない。


部屋を縦に横切り、カーテンを少しだけ寄せる。

向かいの棟に灯りが点き、遅れて別の窓も明るくなった。

風がベランダの柵を撫で、鈍い金属音を短く置く。


ノートの余白に小さく印を足す。

「回収 朝」

書いた線は細く、乾きは早い。


そのとき、床の下から薄い反響。

配管を水が通った気配に似て、すぐ去る。

次の音は来ない。


鞄の位置を直し、真鍮を布ごと奥へ滑らせる。

名の欠片は別のポケットへ移した。

透明板は封の内側で静止したまま。


窓の外に細い霧が一本立ち、すぐほどけた。

遠い交差点でブレーキの擦れがかすかに響く。

団地全体は、夜の厚みの中で均等に呼吸している。


私は椅子を壁から少し離し、背を預ける。

肩の力は落ち、掌は温い。

胸の中央に置いた結び目は緩まない。


照明をさらに弱める。

部屋の輪郭が滑らかになり、影は穏やかに沈む。

目を閉じる準備だけを、心の内側で整えた。


廊下のほうで、軽い布が一度だけ擦れた。

続きは無い。

数は守られたまま、夜は静かに深くなる。


夜はそのまま沈み、音の層は薄い膜になって部屋を包んだ。

まぶたの裏で数を一度だけ確かめ、椅子から立ち上がる。

ベッドの端へ腰を移し、浅く横になる。


壁のきしみは遠のき、配管の響きも消える。

呼吸は一定に落ち着き、背中の下で布が静かに温まる。

意識の縁がほどけ、言葉が粒へ戻っていく。


朝の色が窓の端から差し込む。

鳥声が一度だけ高く抜け、廊下の空気が新しく入れ替わる。

ポストの金属が、ごく短く持ち上がった。


体を起こし、鎖を掛けたまま差し込み口へ指を伸ばす。

厚手のカードが一枚、内側へ滑ってきた。

紙肌は固く、角は丸めてある。


表には区の印。

「回覧担当者 浅野 灯」

「夜間配布 実績二」


目が文字を追うあいだ、心臓がひと拍分だけ遅れる。

裏返すと、細い赤線で順路が引かれている。

起点は302、終点は管理人室。


机へ戻り、カードを封筒の上に重ねる。

透明板の下の白筋は動かない。

名の輪郭も、朝の光のなかで濃度を保っている。


玄関の金属へ触れてみる。

昨夜と同じ手触り、冷たさも変わらない。

ただ、筆圧の縁に小さな朱の点が一つ、押されていた。


スマホが震えた。

「夕方、もう一度」

管理人室からの短い通知。


私はノートの頁をめくり、最下段へ線を引く。

「役割:配り手(夜)」と細く記し、時刻を添える。

今日の章は、ここで閉じる。


窓の明度は上がり、雲の境目が滑らかになる。

湯をわかす前に、鞄の口を確かめる。

封筒、鍵、名札の欠片、順に触れて席へ戻った。


深呼吸を一つ。

肩のこわばりが離れ、視界の端が澄む。

次に開く頁は、夕暮れから始まる。

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