第2話:後ろをついてくる影

 海辺の朝は、思いのほか静かだった。

 潮の音も、波の光も、すべてがゆっくりと時間を引き延ばしているようだった。


 佐伯祐一は、宿の窓を開け、潮風を吸い込んだ。

 どこかに行くあてもない。だが、足を止めてしまうのはもっと苦しい。

 だから今日も、ただ歩くことにした。


 細い海沿いの道を進んでいると、後ろから足音がした。

 振り向けば、やはり昨日の犬がいた。

 十メートルほど離れた場所で、ぴたりと止まり、首を傾げている。


 「お前……まだついてくるのか」

 犬は何も答えない。

 ただ、祐一の目を見つめていた。

 その視線は、拒絶よりもむしろ“待つ”という形をしていた。


 昼前、古びた食堂を見つけて暖簾をくぐった。

 カウンターの隅に腰を下ろし、日替わり定食を頼む。

 煮魚の湯気が立ちのぼり、味噌汁の香りが懐かしい。

 久しぶりに、誰かに「いただきます」と言葉をかけられた気がした。


 食事を終え、外に出ると、犬は店の前にいた。

 雨上がりの地面に伏せ、尻尾だけが小さく動いている。

 祐一は思わず笑った。

 「お前、根気があるな」

 パンを少しちぎって差し出すと、犬はそっと近づき、口に咥えてすぐに下がった。

 その仕草が妙に慎ましく、心の奥の固くなった部分を少し溶かすようだった。


 午後、空が曇りはじめた。

 風が冷たくなり、町の灯りがひとつ、またひとつ灯る。

 祐一は海岸沿いのベンチに腰を下ろし、犬と並んで水平線を見た。

 波が寄せては返し、白い泡が消えていく。

 その繰り返しが、人の時間のようにも思えた。


 「千景も、こうして海を見てたな……」

 呟くと、犬がこちらを見上げた。

 まるでその名を覚えているかのように、静かな目で。


 祐一はカメラを取り出した。

 犬を撮ろうとしたわけではない。

 ただ、風の動きを写しておきたかった。

 ファインダー越しに見える景色は、どこか淡く揺れている。

 そこに犬の影が重なり、まるで画面の中に一つの物語が浮かんでいくようだった。


 夕暮れ。

 宿へ戻る道すがら、空の色が灰から橙へと変わる。

 犬は相変わらず少し離れた場所を歩き、祐一が立ち止まれば、同じように立ち止まった。

 まるで、呼吸を合わせているかのように。


 その夜、祐一は久しぶりに夢を見た。

 風の中で千景が笑っている。

 白いスカーフを押さえながら、「ほら、早く」と手を伸ばす。

 彼女の後ろを、小さな犬が走り抜けた。

 夢の中の風は暖かく、胸が痛いほど懐かしかった。


 目を覚ますと、外から雨の匂いがした。

 窓の外では、犬が軒下で丸まっていた。

 その姿を見た瞬間、祐一はそっと呟いた。

 「……風、って呼んでもいいか」


 犬は顔を上げ、静かに瞬きをした。

 それはまるで、肯(うなず)くようだった。


 夜明け前の空気が、少しだけ柔らかくなっていた。

 祐一はゆっくりと立ち上がり、カメラを手にした。

 どこへ向かうのかは、まだわからない。

 けれど、風の背を追っていけばいい。

 ――その思いだけが、確かな光として胸の中に残っていた。

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