『風の背を追って』
るいす
第1話:静かな出発
春の風が、窓のカーテンをゆっくりと揺らしていた。
その音が、誰かのため息のように聞こえる。
佐伯祐一は、古びたカメラのレンズを拭きながら、テーブルの上の手紙を見つめていた。
封を開けることはない。宛名もないその手紙は、亡き妻・千景が最後に机の上へ置いたままのものだった。
「あとで見せたい写真があるの」と言っていた声が、まだ耳の奥に残っている。
それから半年。
祐一は、家の中の時計が時を刻むたびに、心の中でひとつずつ何かが欠けていくような気がしていた。
定年を迎えたばかりの暮らしは、静かすぎて息苦しい。
人は孤独に慣れるのではなく、ただ、音の少なさに麻痺していくだけなのだと知った。
ある朝、祐一はゆっくりと立ち上がった。
行き先の決まらない鞄に、最低限の着替えとカメラを入れる。
家を出るとき、鍵をポケットに入れた手が少し震えた。
「風の吹くほうへ行こう」――そんな言葉が、どこからか浮かんできた。
まるで、千景が笑いながら言ったように。
バスに揺られて数時間。
着いたのは、かつて二人で訪れた海辺の町だった。
観光地でもなく、人の姿もまばらな、風の強い場所。
潮の匂いが鼻をかすめ、懐かしさと痛みがいっしょに胸の奥を撫でていく。
祐一はカメラを構えた。
だが、シャッターを切る音はしなかった。
風が強すぎて、ピントが合わない。
それでも構図だけは、昔と同じように決める。空の割合を三分の二、海を残り。
千景はいつも笑っていた。「あなたは、空ばかり撮るのね」と。
ふと視界の端に、小さな影が動いた。
振り向くと、一匹の犬がいた。
白と茶の毛が入り混じった雑種。首輪はしていない。
風に耳をはためかせながら、祐一のほうをじっと見ている。
「どこから来たんだ、お前」
声をかけると、犬は一歩も動かず、ただ目を細めた。
祐一はポケットからパンを取り出して、地面にちぎって置く。
犬は近づかず、しばらく見つめたあと、そっとその場を離れた。
その夜、安宿の窓辺で外を眺めると、街灯の下に同じ犬がいた。
眠るように丸まり、風に背を預けている。
なぜかその姿に、胸が締めつけられた。
自分もまた、風の中で丸くなりたいと願っていたのかもしれない。
翌朝、海沿いの道を歩く。
潮の音が足元で砕け、空は淡い灰色に染まっていた。
ふと振り返ると、昨日の犬がいた。
十メートルほど離れた場所で、静かにこちらを見つめている。
追い払おうとしても、逃げる様子はない。
それどころか、祐一が歩き出すたび、一定の距離を保ちながらついてくる。
「……勝手にすればいい」
そう呟くと、犬の尻尾がゆっくりと揺れた。
その動きが、どこか優しい風のようだった。
夕暮れ、海に沈む陽を見ながら、祐一は初めてシャッターを切った。
そのレンズの先で、犬の影が波間に溶けていった。
風が吹いた。
頬を撫でるその感触が、千景の笑顔を思い出させる。
祐一は目を閉じた。
――きっと、まだ旅は始まったばかりだ。
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