黒衣の教官 part2
昨夕の出来事は、未だ鮮やかに脳裏に焼き付いていた。
薄暗い路地で対峙した男たち、震える下級生、そして――何の前触れもなく現れて自分たちを救ってくれた、黒衣の少女。
衛兵の笛の音が響き、駆けつけた市警団にチンピラたちは憮然とした顔で連行されていった。
乱闘の名残で転がった木箱や散らばった布切れが、路地に惨めな影を落としている。
空気にはまだ吐瀉物と汗の匂いが混じっていて、夜気の冷たさと不釣り合いに重く鼻を刺した。
ネイトと名乗った彼女は「事の次第を証言しなければならないので」と短く言い残し、衛兵と共に去っていった。
自分たちがどう見られたのか、彼女がどこまで事情を話したのかを聞くことはできなかった。
国家一級だとか、指導教官だとか――口にしていた言葉も、混乱の中では自分の聞き間違えに思えて仕方がない。
被害に遭った一年生を学院に連れて戻ると、彼女は涙ながらに何度も礼を述べてきた。袖を強く掴まれる感覚がまだ残っている。
結果的には自分も別の人間に助けられた身なので、何とも格好がつかない――そう心の中で毒づきながらも、少女の安堵した顔を見れば悪い気はしなかった。
ただ、寮に戻ってようやく気付いた。夕食を食べ損ねていたのだ。
もちろん食堂は閉まっている。付き添ってきた少女も同じらしく、気まずそうに腹を押さえていた。
ならばと自室に招き入れ、簡単な食事を振る舞った。彼女は遠慮しようとしたが、どうせ作るのが二人分になったところで手間は変わらない。
「普段は一人で食べてるから寂しいのよ」と言って説き伏せた。
あの分だと、少女は自室に戻ったところで満足に食事も摂れないだろうと考えたからだ。
鍋に刻んだ野菜と豆を放り込み、香辛料をひとつまみ振る。煮込む間に焼いた黒パンを添えるだけの簡素な夕食だったが、湯気に混じる香りに少女は目を丸くした。
匙を口に運ぶたび「美味しい、美味しい」と繰り返す声に、傷だらけだった自尊心がいくらか癒やされたものだ。
そうして一晩が過ぎ――
『二学年〈チーム・アスタロト〉。学院長がお呼びです。至急、学院長室まで来てください。繰り返します――』
朝、教室に向かう途中、そんな放送によって呼び出された。
昨日の事件について、学院に連絡がいったから――とは思えない。
それならば呼び出されるのは自分だけか、せいぜい被害者の少女も一緒に、だろう。オルトリンデやラキシュと、となると心当たりがない。
疑問を得つつも、言われた通りに学院長室を目指す。
「なになに? また何かやらかしたの?」
「いよいよ落第のお達しかもよ?」
「一足飛びに退学になっちゃうんじゃない?」
道すがら、聞えよがしな会話が耳に入ってくる。
だが、反応はしない。元より自分がそうした嘲弄の対象となりやすことを、よく理解しているから。
魔導師社会はすなわち貴族社会と同義だ。
無論、全体の人数比からすると平民出身者の方が多い。
だが、魔導師にとって最も重要かつ根幹的な才能である霊脈の性能、すなわち魔力保有量については、生来かつ遺伝的資質に左右されやすい。
王国の長い歴史の中、優秀な魔導師を輩出し続けてきた家系、それが貴族だ。
彼らはより優れた子孫を遺すため、政略結婚を繰り返し、霊脈の質を維持してきた。
平民の中にも魔導師たりえる霊脈の持ち主は生まれてくるが、貴族たちのそれに敵う者などそうはいない。
魔導師は、生まれながらにして平等ではないのだ。
が――稀に例外が生まれてくる。クルーエル・アーノットのように。
カルディア王国に生まれた全ての子供たちは、義務教育課程の中で霊脈の性能検査を受けることとなる。
その検査において自らの霊脈が、貴族のそれと比較しても破格の性能を有していることが判明したのが、二年前。
人生という道に光が灯った――そんな気がした。
幼少期、父は莫大な借金をこさえた上に行方をくらませた。
以来、母は精一杯の努力と愛情でもって自分を育ててくれたが、その生活が苦しくなかったとは、お世辞にも言えない。貧しいことを理由に周囲から嫌がらせを受けた時期もあった。
そんな自分に魔導師の素質があった。しかも特待生として迎え入れてくれるという。
そのチャンスを掴まない理由はなかった。
魔導師資格さえ得られれば、あらゆる業界で引く手あまたとなる。
それを目指して努力を重ねることは、クルーエルにとって当然の行為だ。
結果、元素科の両雄とまで言われるほどの術師となれた。
しかし、そうした彼女を厭う者もいる。貴族出身の生徒たちだ。
平民でありながら自分たちよりも上に立つクルーエルを疎ましく思うのは――彼女らにとって――当然のことだろう。
平民出身の生徒たちの間でクルーエルが
それでも以前はよかったのだ。そうした妬み嫉みは実力で黙らせてきた。
だが、二年生の後期課程――チーム戦術講義が始まってからは、そうもいかなくなった。
小隊は学院側からの振り分けによって決定される。専攻や実力、ポジションのバランスを調整し、一チームにつき三、四人。
チーム・アスタロトはフォワード、シューター、コントローラーが1人ずつのオーソドックスな三人編成。
顔合わせした当初は、お互い特に不満も問題もなかった。
だが――徐々に歯車は狂っていく。
チームは講義の度に敗戦を重ねた。
稀に偶然、勝ちを拾うこともあったが、年が明けてからは連敗に歯止めがかからなくなった。
悪いことに、丁度クルーエルの暴発癖が悪化したのも同時期だ。
そうなってしまえばもはや、チームは崩壊の一途。
不調は不和を生み、メンバー間の軋轢が更なる悪循環をもたらした。
クルーエルが得ていたそれまでの信頼と評価は、そっくりそのまま反転した。
元素科トップの成績と実力を示していたからこそ、貴族子女たちも内心はどうあれ、認める姿勢を見せていたのだ。
それがこの体たらくでは、格好の口撃の材料を与えるようなものだろう。
直接的な嫌がらせに出てこない辺り、自制が利いているとさえ言える。
それまでクルーエルを祭り上げていた平民出身者たちも、腫れ物を扱うようになった。
悪い者ならば手の平を返して、彼女やチームをこき下ろす側に回るほどだ。
だが、何も言えない。言う資格がない。
今の自分が魔導師として失格であることは、覆しようのない事実なのだから。
「――っと」
思考を巡らせている内に、学院長室前に辿り着いていた。
その扉は、重厚なマホガニー材に金の装飾を施したものだった。
磨き込まれた表面は来訪者の姿をかすかに映し、気安く叩くのをためらわせる気配を放っている。
(学院長、何の用だろ? ……まさか本当に落第? 本試験を受けてもないのに?)
この場で考えても答えが出ようはずもない。悪い想像を振り払い、一度深呼吸をしてから、拳を握りしめて三度、扉を叩いた。
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