第7話 鎮火と断罪 ― 学長の決断

 年が明けても、冷たい風は何ひとつ洗い流してはくれなかった。


 一月の金胎大学。三田の山あいの空気は、都市部より一段と冷たく、白い息が長く伸びる。

 その静けさとは裏腹に、大学を取り巻く空気には、十二月の騒擾の余熱がまだかすかに残っていた。


 駅売りのスポーツ紙の片隅に、小さな見出しが載る。


《宗教系新設大学で学生騒動――教団の影? 行政も注視》


 雑誌の特集も、一巡してトーンを変え始めていた。


《「対話の会」は理想か、扇動か》

《若者たちの危うい自己啓発ごっこ》


 センセーショナルな写真は減り、「沈静化を求める論調」が紙面に並び始める。


 ――そろそろ、誰かが責任を取らなければならない。


 その「誰か」を決める会議が、今まさに始まろうとしていた。


***


 学長室の扉が静かに閉じられる。


 丸いテーブルを囲むのは四人。

 金胎大学学長・加茂裕作。事務局長。県の私学担当課長。そして、地元警察署の生活安全課長。


 窓の外には、霜の降りた芝生が広がる。

 つい数ヶ月前まで、そこに車座になって語り合う学生たちの姿があったとは、とても思えなかった。


「……お忙しいところ、ありがとうございます」


 加茂が低い声で口火を切る。


 県の課長が、書類を揃えながら言った。


「こちらこそです、学長。先月の一連の騒ぎについては、まずはご苦労様と言うべきでしょう。警察としても、あれ以上の事態は避けたかった」


 警察の課長が続ける。


「十二月の集会、各大学での小競り合い。幸い、大きな負傷者は出なかった。しかし――“次はない”。これは公式にも非公式にも、同じ認識です」


 「次はない」という一言が、室内の温度をさらに数度下げる。


 事務局長が、慎重に言葉を選んだ。


「ただ……学生たちは、自分たちの言葉で話そうとしただけです。宗教的な過激活動ではなく──」


「分かっています」


 県の課長はそこで遮る。


「金胎教本部からの報告書も拝見しています。問題は、学生の善意ではない。世間からどう“見えるか”です」


 机の上には、新聞のコピーと週刊誌の切り抜きが並んでいた。


《御子を旗印に革命?》

《若者を蠱惑する“沈黙のカリスマ”》


 本人が何を言ったかではなく、「そういうことになっている」紙片たち。


「学長」


 警察の課長が静かに言う。


「このままでは、大学そのものが“危険な宗教活動の拠点”と見なされかねません。そうなれば、来年度以降の学生募集にも、認可にも影響が出る」


 分かりきったことだった。

 だが改めて言葉にされると、その現実は刃物のように胸に刺さる。


「……具体的に、どういう措置をお考えですか」


 加茂の声は、かすかに掠れていた。


 県の課長は、用意してきた紙を一枚、テーブル中央に置いた。


「第一に、問題の中心と見なされている“対話の会”の活動を、大学として即時停止すること。


 第二に、今後、学内外での政治・宗教に関する集会を、一切“大学名義ではない”形でしか許可しないこと。


 第三に──」


 一拍置き、


「場合によっては、主導した学生数名への処分も検討していただきたい」


 学長室の時計の音が、やけに大きく響いた。


 加茂は、紙を見つめたまま、しばらく言葉を失う。


(彼らは……何も、“悪事”はしていない)


 誰かを殴ったわけでもない。店を壊したわけでもない。

 ただ、語り、歩き、繋がっただけだ。


 それでも――。


「……処分とは、具体的に?」


 警察の課長が、言いにくそうに口を開く。


「退学、停学……あるいは、対外的には“自主退学”という形もあり得るでしょう。内々に話がつけば、こちらが動く必要はありません」


 やんわりとした言い方の奥に、「それが最善だ」という圧があった。


(罪なき者を、裁けというのか)


 心の中で誰かが呟く。


 だが口をついて出たのは、別の言葉だった。


「……検討します。ただし、一つだけ約束してほしい」


 県の課長が眉を上げる。


「大学は、若者たちのためにある。彼らを“悪者として”差し出すことは、決してしません。それだけは……」


 加茂は、指先に力を込めた。


「罪を問うのではなく、“責任の所在”を示す形にしたい。彼らの人生を“終わらせる”ような処分は、私は呑めません」


 短い沈黙。


 やがて、県の課長は小さく息を吐いた。


「……分かりました。そこは学長の裁量にお任せします。ただ、大学として“明確な線引き”をしていただくこと。それができなければ、我々としても次の手を考えねばならない」


 会議は、それで事実上の結論を迎えた。


 語る会は、終わる。

 そのことだけは、もう覆しようがなかった。


***


 同じ日の夕方。


 教授会議室には、重い空気が満ちていた。

 出席しているのは、主要な教授陣。宗教社会学の高村理、倫理学の宮内仁、そして学長・加茂裕作。


 高村が、新聞のコピーをテーブルに投げ出す。


「“若者を煽動する危険な集団”“宗教系大学による政治活動の温床”……よくもまあ、ここまで書けますね。現場も見ずに」


 宮内が眼鏡を押し上げた。


「笑えません。外から見れば、そう映ってしまったということです」


「分かっていますよ」


 高村は苦く笑う。


「でも、この大学は“考える場”としてスタートしたはずだ。そこで真っ先に切り捨てられるのが、考えようとした学生たちだなんて」


 加茂は、二人のやり取りを黙って聞いていた。


「……私は、語る会を誇りに思っている」


 ふと漏れた言葉に、室内の視線が集まる。


「彼らは、自分の頭で考え、他者の言葉を聞こうとした。これ以上ない“大学的な営み”だ。しかし――」


 そこで言葉を区切る。


「しかし?」と宮内。


「大学は、理想だけでは守れない。建物も、人も、学生たちの日々も……この場そのものを維持するためには、現実と折り合いをつけねばならない時がある」


 声は低いが、はっきりしていた。


「語る会の公認を、取り消したいと思う。学内での活動も、形式上は“禁止”する。……それが、大学を守るための、最低限の線だ」


 高村が、ぎゅっと拳を握る。


「それは……“彼ら”を守ることになるんですか? それとも、“我々”を守ることになるんですか?」


 問いは鋭く、痛みを伴っていた。


 加茂は、まっすぐに受け止める。


「両方だ。どちらか一方だけを守ろうとすれば、もう一方は必ず潰れる。私は――どちらも、ぎりぎりのところで守りたい」


 宮内が、静かに頷いた。


「では、せめて。彼らに“恥”ではなく、“悔しさ”として残る形にしましょう。罪ではなく、喪失として」


 教授会は、重い合意に至った。

 語る会は、正式に大学の庇護を失う。


***


 数日後の朝。


 金胎大学の掲示板に、一枚の紙が貼られた。


【学内サークル「対話の会」活動停止のお知らせ】


 本学は、昨年末より続いた一連の混乱に鑑み、学生の安全と教育環境の維持のため、当該サークルの公認を取り消し、今後の活動を停止することを決定いたしました。


 なお、本件に関する個別の処分は行いませんが、今後、本学の名を用いた政治・宗教活動を一切認めないことを、ここに周知いたします。


 学長 加茂裕作


 紙の前に、学生たちが自然と集まっていく。


「……マジか」「終わり、ってことか」


 ざわめきの中で、一人の女子学生が貼り紙を見上げて立ち尽くしていた。


 浅野凛だった。


 隣で佐伯慎也が、教科書をぐっと握りしめる。


「……こう来たか」


「……処分は、ないんやな」


 凛の声は、不思議と落ち着いていた。


「うん。“公認”だけ、消された。うちらは、“何もなかったことにされる”んや」


 それは慰めにも、皮肉にも聞こえた。


 岩城響子が後ろから近づいてくる。


「なあ……怒っていいんやろか、これ」


 凛は貼り紙の文字を、もう一度なぞるように目で追う。


 ――個別の処分は行いません。


「……怒る相手が、どこにもおらんねん」


 ぽつりと、そう言った。


「誰かひとりを責められたら、どれだけ楽か。学長のせいや、教団のせいや、新聞のせいや、静子とかいう人のせいや……」


 言いかけて、ふっと息を吐く。


「でも、多分、全部ちょっとずつ正しい。だから余計、タチ悪い」


 慎也が、苦笑いを浮かべて呟く。


「“善意の集合体”って、一番残酷やからな」


 そこへ、駆け足でやってきた一年生の苑が、小さな声で言った。


「……これで、終わりなんですか?」


 凛は、彼女の肩にそっと手を置いた。


「終わりにするかどうかは、うちらが決めることや。大学が決めるんやない」


 そう言いながら、自分の胸に広がる空洞を、どう埋めればいいのか分からなかった。


***


 同じ頃、真央は学長室に呼び出されていた。


 椅子に背筋を伸ばして座る十九歳の青年を、加茂はしばらく黙って見つめる。


「……掲示は、読んだかね」


「はい」


 真央は、まっすぐに頷いた。


「僕のせいです」


 第一声が、それだった。


 加茂は、ゆっくりと首を振る。


「君ひとりのせいではない」


「でも、僕が来なければ……僕の名前がなければ、ここまで広がることはなかった」


 指先が、わずかに震えている。


「僕が、声を上げなければよかったのかもしれません」


 加茂は深く息を吸った。


「私は、君の声を聞いて、間違っていたとは思っていない。あの日の文化祭でも、君は誰ひとり煽らなかった。むしろ、止めようとした」


 ――知っていますよ、と言う代わりのように。


「しかし、世界はいつも“意図”ではなく、“結果”で判断する。君が何を願っていても、君の名前の周りで何が起きたか──それだけを見る」


 真央は目を伏せた。


「……大学を、辞めた方がいいですか」


 しばらくの沈黙のあと、ぽつりと零れた言葉。


「僕がここにいる限り、また同じことが起きるかもしれない。だったら――」


「――逃げるために辞めるのなら、私は賛成できない」


 意外なほど強い声だった。


 真央が顔を上げる。


「君がこれから選ぶ“辞める”という決断は、きっと人生で何度も訪れる。そのたびに、『人を傷つけたから』『誰かの邪魔になるから』という理由で背中を向けるのなら、君は一生、自分を赦せないだろう」


 学長は、机の上で両手を組む。


「君は、すでに十分すぎるほど傷ついている。その上でなお、“どう生きるか”を自分で決めなければならない」


 真央は、唇を結んだまま黙り込んだ。


 ここで頷けば、きっと少しは楽になる。

 学長に委ねてしまえば、自分で決めなくて済む。


 だが、それは――。


「……今は、分かりません」


 ようやく、それだけを絞り出した。


「まだ、何も整理できていない。自分が何をしたくて、何をしてしまったのかも」


 加茂は頷いた。


「分からないままでいい。今はそれでいい」


 それが、大人として彼に言える精一杯の言葉だった。


***


 数日後、「語る会」は最後の集まりを持った。


 いつもの談話室。

 畳の上に、十数人が座っている。暖房の効いた部屋なのに、誰も上着を脱ごうとしない。


 凛が、丸めた掲示のコピーを手に持ちながら言った。


「……大学公認としての“語る会”は、ここで終わりや」


 誰も、声を上げない。


 慎也が、ため息混じりに笑う。


「まあ、公認やなくなっても、口ん中まで検閲されるわけやないけどな」


「そやけど」


 苑が言う。


「教室借りられへんし、告知もできひんし……“ここでやってるよ”って、公には言えない」


 響子が腕を組んだまま、ぼそりと呟く。


「地下活動みたいやな。そういうの、うちは嫌いや」


 沈黙の中で、真央が口を開きかけた。


「あの──」


 凛が、先に手を上げる。


「その前に、一個だけ言わせて」


 全員の視線が集まる。


「……ごめん」


 凛は、深く頭を下げた。


「代表ちゃうって言い続けてきたけど、実際はうちが一番“この会を信じてた”。せやからこそ、ここまで来てもうたんやと思う。うちのせいかもしれへん」


「それは違うな」


 慎也がすぐに言う。


「誰かひとりのせいやない。全員のせいであり、全員のせいじゃない」


 真央が、改めて口を開いた。


「……僕も、謝らないといけません」


「謝らんでええ」


 凛の声が、それを遮った。


「真央さんのせいやない。真央さんがおらんかったら、うちはここまで真剣に考えへんかった。苑も、他のみんなも、多分同じや」


 苑が、膝の上でぎゅっと手を握る。


「はい……。私、ここに来て初めて、自分の“信じてないもの”についてちゃんと考えました」


 響子が、ふっと笑う。


「あんたは、ただそこにおっただけや。勝手に燃え上がったんは、うちらの方や」


 その時、襖がそっと開いた。


「……入ってもええか」


 顔を覗かせたのは、恵一だった。


「恵一さん!」


 苑が目を丸くする。


「清掃局、今日は休みもらってきた。最後くらい顔出しとかなあかんやろ」


 恵一は中に入り、座布団の端に腰を下ろした。


「外の方が、もっと酷いで。お前の名前、勝手に使う連中もおる。“真神代央を信じる会”とか、よう分からん署名回してる奴もおるし」


 真央が顔をしかめる。


「やめさせたい……」


「無理や」


 恵一ははっきり言った。


「人の口は塞がれへん。塞ごうとしたら、余計に膨らむ。清掃局でも同じや。ゴミはちゃんと燃やしたら無くなるけど、人の“熱”はそうはいかん」


 そして、真央を見据える。


「……けどな。あの夜、ここで見た光は、本物やったと思うで。あれを見てしもた奴らは、簡単には忘れられへん」


 凛が、涙ぐみながら笑った。


「なんや、ええこと言うやん」


「たまにはな」


 笑いと涙が、同じ場所に滲む。


 最後に、慎也がノートを開いた。


「これで、『金胎大学 学生有志による対話の会』は一旦終わり。……でも、“対話”そのものは、どこででも続けられる。サークル名も、部屋も、掲示もいらん」


 ノートの最後のページに、一行だけ書き込む。


 ――ここで得た言葉を、それぞれの場所に持ち帰ること。


 誰も、大仰な解散宣言はしなかった。

 ただ、ひとりひとりが、静かに部屋をあとにした。


***


 数日後。

 キャンパスの掲示板から、「対話の会」のチラシはすべて剥がされた。自治会室の片隅にあった小さな机も片づけられ、母子像のコピーも、どこかへ運ばれていく。


 新聞は、短い記事を載せた。


《金胎大学、学生グループを解体 混乱は沈静化へ》


 テレビは、別の事件を追い始める。

 街のざわめきは、あっという間に別の話題へと移り変わっていった。


 まるで、最初から何もなかったかのように。


***


 金胎教本部。


 阿倍静子は、報告書に目を通しながら、小さく息を吐いた。


「……大学側が手を打ちましたか」


 側に控える幹部が頷く。


「はい。“対話の会”は事実上解体。御子様への直接的な非難は避けられています」


 静子は、目を閉じる。


「これでいいのです。御子は、あくまで“象徴”として守られなければならない。自ら炎の中に身を置くべきではない」


 その言葉を聞きながらも、美沙は、複雑な表情で奥歯を噛んでいた。


 ――本当に、そうだろうか。


 その問いは、声にならなかった。


***


 その夜。


 真央は、一人、下宿の部屋に座っていた。


 机の上には、例の雑誌の切り抜きと、語る会のノートのコピー。

 どれも、自分のものではない“声”で、自分を語っている。


 《真神代央(マカミシロオウ)――沈黙の青年王は、何を見ているのか》


 勝手につけられた異名が、紙の上で黒々と踊っていた。


 窓の外には、冬の夜の静けさが広がる。

 遠くで、電車の音がかすかに響いた。


 真央は、ゆっくりと目を閉じる。


(僕の声は……誰にも届かなかった)


 叫んでも、否定しても、制止しても。

 熱は別の場所で燃え続け、鎮火したときには、語る会は消えていた。


(母さんも、同じものを見たんだろうか)


 救いを求めて群がる人々。奇跡を求めて叫ぶ声。感謝と執着と欲望が混ざり合ったうねり。


 それらがすべて、自分に向かって押し寄せてくる感覚。


(だから、母さんは声を封じたんだな)


 ぽつりと、言葉が漏れた。


 声を持てば、誰かは救われる。

 だが同時に、誰かは依存し、誰かは狂信し、誰かはその名を利用する。


 沈黙は、臆病さの証かもしれない。

 だが同時に、それは“暴走する熱から距離を取るための、最後の防波堤”でもある。


(僕は……どうすればいい)


 誰かの救いになりたいと願った。その結果、誰かを傷つけ、誰かの日常を奪い、大学から一つの居場所を消した。


 静かな部屋の中で、真央は両手で顔を覆う。


「……母さん」


 初めて、心の底からその名を呼んだ気がした。


 弥生は、沈黙を選んだ。

 だからこそ、人々は勝手に彼女の物語を語り続けることができた。


 では、自分は――。


 その問いの答えは、まだどこにも見つからない。


 ただ一つだけ、確かに胸の奥に残っているものがあった。


 あの夜、芝生の上で見た、無数の顔。


 恐れながらも語ろうとした者。

 泣きながら怒った者。

 震える声で、自分の過去を差し出した者。


 あの光だけは、誰に消されることもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る