第6話 真神代央(マカミシロオウ)
十二月。
金胎大学のある三田の山あいにも冬の匂いが濃くなり、吐く息が白く揺れ始めていた。
その冷え込みとは裏腹に、学内の空気は妙な熱を帯びていた。
最初は、どこにでもある“噂”だった。
凛たちの「語る会」の話が他大学に伝わり、興味半分で覗きに来る学生が少しずつ増えた──その程度の揺らぎだ。大学の片隅に、少し風通しのいい場所ができただけのことだった。
流れが変わったのは、十一月末に出た一つの記事からだ。
『十代の預言者か──金胎大学で起きた“心の奇跡”』
週刊誌の見出しは露骨に煽情的で、本文はそれ以上に乱暴だった。
凛たちの会を「若者の救済運動」と持ち上げ、中心にいる青年の名を、こう記したのだ。
──真神代央(マカミシロオウ)。
誰が最初に言い出したのか分からない。
だが「真の神の依り代」「今の時代に降りた若き王」といった言葉と一緒に刷られ、紙面に乗った瞬間、その名前にはそれ相応の“重さ”が与えられてしまった。
新聞も追随し、地方紙は面白おかしく取り上げた。
大学の電話は、抗議と問い合わせで鳴り続けるようになる。静子のもとにも、匿名の投書と苦情が届き始めた。
十二月二週目。
火は、金胎大学の外にまで飛び火した。
関西一円、さらに全国の大学で、似ても似つかない“語る会のコピー”が乱立した。瞑想まがいの集まり、自己啓発を名乗るサークル、露骨な勧誘団体──どこも真央や金胎大学とは一切関係ないのに、「あのムーブメントの再現」を名乗り、勝手に名を借り始める。
ある大学では、大講堂が学生たちに占拠され、小競り合いが起きた。
別の大学では自治会が対抗声明を出し、衝突が新聞沙汰になった。
金胎大学に飛び火するのは、時間の問題だった。
学生課の前には抗議する保護者が並び、地域住民も「宗教臭さ」を口にするようになる。
大学の外でも、中でも、「神代真央」の知らないところで、勝手に彼の名前が増幅されていった。
***
恵一は、公園の前で配られているチラシを見て、思わず舌打ちした。
安っぽい紙。
そこには、太いマジックでこう書かれている。
《真神代央の“心の教え”を学ぶ会》
裏面には、聞き覚えのない団体名と、怪しげな集会の案内。内容は、自己啓発セミナーの焼き直しにしか見えない。
「……こんなん、ただの金儲けやんけ。真央とは関係ない」
思わず声が出た瞬間、数人の視線が刺さった。
チラシを配っていた若者たちが、恵一を睨みつける。
「チョーセンが何言うとるんや」
「お前、ここの邪魔すんなよ」
まただ、と恵一は思った。
中学時代、教室の空気が冷たく変わるのを感じたときと、同じ匂いが背中に貼り付く。
それでも、後ろへは下がらなかった。
「真央はな、こんなん望んでへん──」
言い切る前に、怒号が飛んだ。
「真神代央の名を汚すな!」
その呼称がどこから出てきたのかも、誰も知らない。
ただ、その名前を“信じたい者たち”は、本人より先にその名を掲げ、怒り狂う。
恵一は唇を噛み、拳を強く握りしめた。
(……真央。お前、こんなん……どうすんねん)
冬の空気が、ひゅう、と頬を切った。
***
鹿児島・天ヶ野。
金胎教本部の応接室にも、冬の気配が重たく沈んでいた。
静子は卓上の週刊誌を指先で押しやり、その表紙を美沙の方へ向けた。
「……ご覧になりましたか」
表紙には、大げさな見出しが躍っている。
〈“真神代央”現る? 若者の救世主か、危険な偶像か〉
美沙は眉間にしわを寄せた。
「この“真神代央”って呼び名……どこから出てきたんですか。学生の文書にも、どこの取材にも、そんな言い回しはなかったはずでしょう」
静子は首を振った。
「何事にも、“名前を欲しがる者”が一定数いるものです。この記事を書いた記者は、教団の人間でも学生でもない。ただの外の人間です。けれど──」
「けれど?」
「こういう“勝手な看板”ほど、怖いものはありません。名が独り歩きを始めれば、その人間は、否応なくその名に引きずられていく」
美沙は唇を噛んだ。
静子の言葉が半分は正しいと、頭では分かる。
だが、もう半分は──危うい。
「静子さん。あなた……これを“利用”しようとしてませんか?」
問いかけは、刺すような鋭さではなかった。
ただ、避けて通れない直球だった。
静子の目が、ほんの少し細くなる。
「利用ではありません。“守る”のです。真央様を。そして教団を──」
美沙は遮るように言った。
「でも、あなたが外に流した“匂わせ”が、この雑誌の暴走を煽ったんじゃないんですか」
静子の指先が、わずかに止まる。
「学生たちが混乱しています。大学も揺れている。真央……あの子だって、きっと苦しんでいます」
静子は一瞬だけ息をのみ、それから低い声で応えた。
「美沙さん。私たちは昔を知っています。弥生様が“光”になったとき、どれほど多くの者がその光にすがり、燃え、そして壊れたかを」
部屋に沈黙が落ちる。
「私は二度と繰り返させません。真央様が同じ道を歩むことも、教団が再び炎上することも」
言葉は静かだが、その芯には揺るぎがなかった。
美沙は立ち尽くした。怒りでも反論でもない。
胸の奥に、ざらついた違和感だけが残る。
(守るために、火をつけた──そんな理屈、あるかいな)
「……静子さん。その“守る”は、誰のためなんでしょう。真央のため? 教団のため? それとも──」
一拍置き、絞り出すように続けた。
「あなた自身が信じたい“金胎教”のため、ですか?」
静子は答えない。
ただ、壁に掛かった弥生の写真へ視線を移した。
その横顔を見つめる静子の目に、美沙は、かつての“忠義の巫女”ではなく、「組織を背負った責任者」の顔を見た気がした。
そして、悟ってしまう。
このズレは、もう元には戻らない。
***
十二月の終わり。
真央はとうとう、黙っていられなくなった。
冬の夕方、校舎前の広場。
授業を終えた学生たちが群れになっている。その一角に、「語る会」を巡る賛否をめぐって、言い争う声が渦巻いていた。
「大学は宗教活動の場ちゃうやろ!」
「でも、あれは救われる人もおるんや!」
「真神代央の名前を勝手に使うな!」
真央は、その輪の外からしばらく様子を見ていた。
何人かが、ちらりと彼に気づき、ざわめきが広がる。
「……真央君?」
「御子様や……」
いつもなら、その呼び方を笑い飛ばす余裕が、少しはあった。
けれど、この日は違った。
胸のどこかで、何かがぷつりと切れた。
真央は一歩、輪の中心へ踏み出した。
冷えた空気が、頬を刺す。
「もう、やめてくれ!」
思い切り声を張り上げた。
涙が出そうになるのを、ぐっとこらえる。
「俺は……誰の王でも、神でもない!」
ざわつきが止まる。
冬の空に、叫びが突き刺さる。
「俺は、ただ、目の前の人と話したいだけや! こんな争い、俺の願いと違う!」
一瞬、広場全体が静まり返った。
その静寂を、破ったのは──遠くから聞こえた、別の声だった。
「真神代央がお言葉を発したぞ!」
「否定こそ試練や! 信じ抜け!」
どこから紛れ込んだのかも分からない連中が、勝手に叫び始める。
否定の言葉すら、信仰の燃料に変えられていく。
真央は息を呑んだ。
さっきまで震えていた拳から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……なんでや」
こぼれた声は、小さすぎた。
誰の耳にも届かない。ただ、木枯らしの音に紛れて消えていく。
***
その夜。
真央は、人気のない校舎裏で一人、うずくまっていた。
喉は焼けつくように痛い。
叫んでも、何ひとつ変わらなかった。
世界は勝手に燃え広がり、誰も止められない。
(僕の声なんて……どこにも届いてへん)
息をするたび、胸の奥が軋んだ。
ふいに、母・弥生の横顔が浮かぶ。
写真の中の彼女は、いつも口を閉じている。
その沈黙の意味に、今日、初めて指先が触れた気がした。
真央は、冷えたコンクリートの壁にもたれかかる。
かすれる声で、空へ向かってつぶやいた。
「……母さん……こういうこと……やったんか」
答える声はどこにもない。
ただ、冬の夜気だけが、彼の痛みを静かに包み込んでいた。
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