第11話 歩み入る夜

 九月の第三金曜日の夜。

 夏の熱を引きずったアスファルトの匂いが、まだどこかに残っていた。


 金胎大学・自治会室の前に立つと、中から微かな声が漏れてくる。


 本当に、ここでいいのか──。


 真央は、小さく息を吸った。


 六月の出会い。浅野凛、佐伯慎也、岩城響子。

 あの三人と交わした短い会話は、この三か月ずっと胸の底で燻っていた。


 そのあいだも、ニュースは変わらず彼の名前を消費し続けた。

 学校では、腫れ物に触るような視線と、期待と、遠慮がごちゃ混ぜになって漂っていた。


 だからこそ、今日ここへ来たのは──

 「自分の足で確かめたかったから」だった。


**


 自治会室の扉を軽く叩くと、すぐ中から凛の声がした。


「どうぞー……え?」


 扉が少し開き、凛が顔を出す。次の瞬間、言葉を失った。


「……来てくれたんや」


 その声には、驚きと喜びと、少しの緊張が混ざっていた。


「邪魔じゃなければ」


「邪魔なわけないやん、大歓迎よ!」


 奥から響子が、コーヒーカップを持ったまま目を丸くする。


「御子──いや、神代さん。ほんまに来たんやな」


「“御子”はやめてください。僕は……神代真央です」


 静かな言葉なのに、部屋の空気がやわらかく震えた。

 慎也は苦笑し、手元のノートをぱたんと閉じる。


「今日は、俺ら学生の“雑談の場”や。肩肘張らんでええよ」


**


 集まっていたのは十数人。

 信者二世、無宗教、地方出身者、帰国子女──小さな円の中に、いくつもの背景が混ざっていた。


 最初に口を開いたのは、凛だ。


「今日は、特別にテーマ決めへん。夏の間に思ったことがあったら、それを話そ。宗教でも、家族でも、大学でも、なんでもええ」


 すると、一人の男子学生が手を挙げた。

 六月の会にも来ていた、無宗教の学生だ。


「俺、質問があって……。神代さんに言うべきか迷ったけど……聞いていいですか?」


「はい」


 真央は、ゆっくり顔を上げた。


「……“信じる”って、なんなんですか?」


 部屋が静まりかえった。

 六月のときとはまったく違う静けさだった。誰も茶化さず、誰も急がない、ただ「待つ」ための沈黙。


 真央は、少しだけ目を伏せた。


「……僕にも、分からないんです」


 慎也が一瞬、眉を上げる。

 しかし真央は、そのまま言葉を継いだ。


「母のことを信じているか……と聞かれたら、分からない。教団の言葉を信じているか……と聞かれたら、それも分からない」


 凛が、そっと息を呑む。


「でも──人を見ようとは思っています。

 信じるより先に、まず“知ろう”と思っています。それが今の僕の……精一杯です」


 その声には、痛みと、少しの覚悟が混ざっていた。

 けれど、誰も否定しなかった。


 響子が、静かに言う。


「……十分やと思うよ。無理に信じんでもええ。“分からん”って言えるの、逆に強いよ」


 真央は、肩の力が少しだけ抜けた気がした。


***


 今度は、弥生派二世の女子学生が、ためらいながら口を開いた。


「うち……なんで信じてるか、正直、自分でも分からへんのです。でも、母は“弥生様に救われた”って言うて……それを否定できん」


 声が、小さく震えていた。


「あの……神代さんから見たら、うちらは、変なんですか?」


 真央は、ゆっくり首を横に振った。


「変じゃないと思います。ただ──“信仰の話”をするとき、誰かの言葉をそのまま使うのは、危ないかもしれません」


 女子学生の視線が、揺れた。


「あなた自身の言葉で話すなら……僕は、ちゃんと聞きます」


 その一言に、女子学生の目に涙が浮かんだ。


 六月に感じた予感が、凛の中で確信に変わりつつあった。

 ——この人は、偶像として担がれる前に、ちゃんと「人」として応答しようとしている。


**


 やがて小さな拍手が起こり、散会の空気がゆっくりと広がる。


 真央は、最後の片づけを手伝いながら、ふと窓の外に目をやった。

 夏の終わりを告げる風が吹き、木の葉の裏を静かに返していく。


 その横で、凛たちはまだ何か話し込んでいた。


「なぁ、真央くん」


 凛が声をかけてくる。さっきまでの“語り手”の顔ではなく、年相応の少女の顔だった。


「今日のこと、正直びっくりした。……けど、なんか、ええなって思ったわ。こういう場が、毎月あるんやなって」


 真央は、小さく笑った。


「僕はただ、聞かれたから答えただけだよ」


「それでええねん。うちら、あんたの“それでええ”を聞きに来とるんやから」


 凛の言葉に、慎也と響子も頷いた。

 誰かを担ごうとしている目ではなかった。ただ、“同じ場所で息をしている人間”を見る目だった。


 その空気に触れて、真央は胸の奥で、固く結ばれていた何かがほどけていくのを感じた。


「……そういえば」


 ふいに、凛がカバンから一枚のプリントを引っ張り出した。大学の広報チラシだ。


「十一月に学祭あるんやけどな……対話の会で、なんか出来へんかなって。まだ、ほんまにぼんやりやけど」


「学祭……」


 真央はプリントを覗き込み、ゆっくり目を細めた。


 春に開校したばかりの大学が迎える、初めての学祭。

 そこに立つ自分の姿はまだ想像できない。


 けれど──胸の奥に、確かに小さな灯がともった。


「……うん。何かできたら、いいね」


 それだけ言って、真央はカバンを肩にかける。

 凛たちの笑顔が、廊下の蛍光灯の下で小さく揺れた。


**


 外へ出ると、夜の入り口のような風が、思いのほか涼しかった。

 秋の匂いが、ひそやかにキャンパスの端から染み込んでくる。


 まだ、何も決まっていない。

 だが、この一歩の先に、何かが動き始める予感だけは、はっきりとあった。


 校門へと歩きながら、真央は胸の奥に残る微かな熱を確かめた。


 十一月。

 その季節に、自分はどんな顔で、どんな名前で、ここに立っているのだろう──。

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