第6話 進路表の白紙と、閉ざされた未来
九月。夏の熱は引いたのに、教室には受験モード特有のざらついた空気が漂いはじめていた。
ホームルームで配られた進路調査票。机に置かれた白い紙を、真央と恵一はほぼ同時に見つめた。
周囲ではクラスメイトの声が飛び交う。
「オレ、関大の文系いくわ」
「理系の方が就職つよいらしいで」
「北野落ちたぶん、ここからリベンジや」
未来を語る声の明るさが、逆に眩しかった。
——僕は、この紙に“希望”を書けるんだろうか。
胸に、重い影が垂れ込める。
隣を見ると、恵一も黙ったままだった。見つめている紙は同じ白さなのに、その“白紙の理由”は違う。
**
放課後。廊下に出ようとしたところで、担任の宮本志桜里が声をかけた。
「神代くん。……進路、迷っているわね?」
「……そんなに分かりやすいですか」
「あなたは、“許される未来”と“望む未来”を分けて考えるタイプよ。どっちも選べないとき、顔に出ちゃう」
宮本の声はやわらかく、それでいて容赦がない。
「でもね、誰かの都合で作られた未来を、そのまま受け取る必要はないの。少なくとも、そう“信じた方がいい”」
その一言が胸を揺らした。
**
帰り道。風は少し涼しくなったのに、二人の足取りは重かった。
「……恵一。お前も、書けなかったんだな」
「迷ってる、いうより……分かってんねん」
恵一は、空を見上げたまま笑う。その笑いは乾いていた。
「ウチは金ない。麻衣と陽二、学校出すだけでいっぱいいっぱいや。俺の分まで望んだら、家ごとつぶれる」
一拍おいて、ぽつりと続けた。
「ホンマはな。関学、行きたかったんや」
真央は目を瞬いた。
「関学? あの、アメフトの?」
「そう。関学FIGHTERS。中学からずっと憧れとった。でも、学費見て笑ったわ。……ああ、俺、“選ばれへん側”やったんやな、って」
その言い方は軽くて、その実、長年慣らしてきた痛みのようだった。
真央は何も言えなかった。
自分もまた、別の形で“選べない未来”の前に立っているからだ。
真央は金胎大学に行くことがほぼ決められている。
恵一は貧しさの中で、そもそも選択肢を与えられていない。
違う形なのに、どちらも「閉じた未来」として胸に響いた。
**
夜。寮の静けさの中、古い黒電話が突然鳴った。
「神代くん、電話よー。鹿児島からみたい」
寮母に呼ばれ、真央は受話器を取る。
「……もしもし、真央?」
落ち着いた声。叔母の美沙だった。
「美沙叔母さん。どうしたの?」
「ちょっとだけ、伝えたいことがあって。時間、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「前に言った通りね、来月から大阪本部に移るの。大学開校の準備も兼ねて」
それ自体は聞いていた話だ。だが、声の奥にいつもより強い決意があった。
「……叔母さん、大変じゃない?」
「大変よ。でも、あなたの近くにいられるから、悪いことばかりでもないわ」
いつもの調子で笑い、それから声を落とした。
「本題ね。——金胎大学、正式に認可が下りたわ。工事もほぼ終わって、来春には開校できる」
真央は息を呑んだ。このタイミングで聞くと、紙の上の計画ではなく、現実として迫ってくる。
「……そうなんだ」
「ええ。だから、一度ちゃんと見てほしいの。パンフレットじゃ分からないこと、現地なら見えることがあるから」
美沙は続ける。
「来月、三田のキャンパスを案内するわ。私も一緒だから安心しなさい。そのあと、美味しいものでも食べに行きましょう。あなた、ちゃんと食べてる?」
「……うん、まあ」
「“まあ”はダメ。大阪に来るなら、私が奢るから覚悟しなさい」
らしい言い方だった。
「真央。あなたがどんな選択をしてもいい。でもね——」
電話越しの空気が、すっと張りつめる。
「誰かに“決められた未来”だと思ったまま生きるのだけは、やめてほしい。
同じ場所に行くにしても、あなたが“自分で選んだ”と思える未来にして」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ落ちていった。
「……ありがとう、叔母さん」
「どういたしまして。じゃあ、来月ね。会えるの、楽しみにしてる」
通話が途切れると、廊下の静寂が戻った。
真央は受話器を置き、机の上の白紙の進路票をあらためて見つめる。
まだ何も書けない白紙。
けれど、さっきまでとは少し違って見えた。
“閉じられた紙”ではなく、
——いつか、自分で線を引くための「余白」として。
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