第5話 帰郷──閉じていく未来と、わずかな灯

 お盆明けの金曜日、小さな台風が南で停滞しているとニュースが言っていた。湿った灰色の空の下、真央は寮の前に立っていた。帰省といっても数日だけだ。二学期が始まる前の、わずかな空白。


 鞄は軽い。それでも胸の奥には、いつものざわつきが沈んでいた。——帰るのは、家ではなく、“御山”だ。


**


 難波を出た夜行バスは、明け方に鹿児島・天ヶ野へ着いた。バスを降りると、空気の透明さに思わず呼吸が深くなる。参道をのぼるにつれ、蜩の声が消え、木々のざわめきが耳を満たした。


 本殿に近づくほど、違和感が強くなる。人の気配はあるのに、音が薄い。張りつめた静けさだけが漂っていた。


 旧巫女殿の前で、真央は足を止めた。

 白い衣を纏い、光の中に立つ弥生の肖像画——母が完全に“神”として描かれている。


 若い信徒がその前で祈っていた。真央は近づけなかった。半年のあいだに、御山で何が起きたのか。胸が冷たくなる。


**


 本部の応接室には美沙がいた。久しぶりの顔は、以前より落ち着いて見えたが、その影は深い。


「戻ったのね、真央。……元気そうで安心したわ」


「美沙さんこそ。本部は忙しいですか?」


「忙しいわよ。特に——」


 美沙はそこを曖昧に笑って濁した。


 襖が滑り、信吉が入ってきた。痩せて、眉間の皺が深い。その姿は“代表”より、“疲れた父親”に近かった。


「真央……久しぶりだな」


「父さんこそ、元気ですか?」


「ああ……どうにか、な」


 信吉は座り、一枚のパンフレットを差し出した。

 ——金胎大学(仮称)。完成予想図が表紙に描かれている。


「……大学、ですか」


「来春、開校になる」


「来春……?」


 胸がわずかに沈む。信吉は視線を落とした。


「……少し話す。これは、もう三年前から進んでいたことだ」


**


〈信吉の回想〉


 金胎大学を最初に言い出したのは弥生派だった。


『御子様が十八になる前に学び舎を』『弥生様の教えを体系に』『第二の御山を』


 信吉は反対した。


「十年は早い。地盤も何も整っていない」


 だが、弥生派は止まらなかった。

 献金は雪崩のように集まり、ある支部では一晩で千万を超えた。政治家まで動き、大学は“潮流”だと持ち上げられた。


 予定地は兵庫・三田市に決まり、認可の手続きも進み、寄付総額は計画の四倍。

 そして——


『御子様が第一期生として入学されることを前提に』


 この一文が、すべてを押し流した。


 ——もう誰にも止められない。


**


〈現在〉


「……すまない、真央」


 初めて聞く父の“謝罪”だった。


「本当は五年、十年先でよかった。お前が外で学び、自分の道を選んだ後で……と思っていた」


「では、なぜ急ぐのですか」


「——弥生派の勢いだ」


 部屋の空気が冷える。


「弥生の神格化が止まらん。政治家も企業も金をつぎ込み、“御子が学ぶ姿”だけを欲しがる。私はもう……ひとりじゃ、流れを変えられん」


 声は震えていた。


「父さん……」


「すまない。私は、お前を“真央”として世界に出したかった」


 胸に熱が宿った。父は自分のために謝り、苦しんでいる。初めて見る姿だった。


**


 沈黙のあと、美沙が口を開いた。


「……真央。私も伝えなきゃいけないことがあるの」


「なんでしょう」


「来月から、大阪本部に移るわ。大学の運営準備の責任者に選ばれたの」


「大阪に……?」


「ええ。あなたの近くにいるべきだと思ったの。困ったら遠慮なく言いなさい。私は、あなたを“守る側”にいる」


 そのまなざしは静かで、強かった。


**


 夜。真央は御山の尾根道を歩いた。星がよく見え、風がやさしい。手には大学のパンフレット。


 丘陵に描かれた広大なキャンパス——それは、“未来”として押しつけられた図だった。


 麻衣の震える歌声。恵一の夢。大阪で触れてきた人の痛み。

 それが、胸の奥で静かに響く。


 未来を閉じる力に従うのか。

 それとも、自分の手で未来を少しでも開くのか。


 真央はゆっくり夜空を見上げた。

 胸の奥に、小さな灯が静かに揺れていた。まだ言葉にはならない。けれど確かに——ここから始まる“何か”だった。

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