第5話 帰郷──閉じていく未来と、わずかな灯
お盆明けの金曜日、小さな台風が南で停滞しているとニュースが言っていた。湿った灰色の空の下、真央は寮の前に立っていた。帰省といっても数日だけだ。二学期が始まる前の、わずかな空白。
鞄は軽い。それでも胸の奥には、いつものざわつきが沈んでいた。——帰るのは、家ではなく、“御山”だ。
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難波を出た夜行バスは、明け方に鹿児島・天ヶ野へ着いた。バスを降りると、空気の透明さに思わず呼吸が深くなる。参道をのぼるにつれ、蜩の声が消え、木々のざわめきが耳を満たした。
本殿に近づくほど、違和感が強くなる。人の気配はあるのに、音が薄い。張りつめた静けさだけが漂っていた。
旧巫女殿の前で、真央は足を止めた。
白い衣を纏い、光の中に立つ弥生の肖像画——母が完全に“神”として描かれている。
若い信徒がその前で祈っていた。真央は近づけなかった。半年のあいだに、御山で何が起きたのか。胸が冷たくなる。
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本部の応接室には美沙がいた。久しぶりの顔は、以前より落ち着いて見えたが、その影は深い。
「戻ったのね、真央。……元気そうで安心したわ」
「美沙さんこそ。本部は忙しいですか?」
「忙しいわよ。特に——」
美沙はそこを曖昧に笑って濁した。
襖が滑り、信吉が入ってきた。痩せて、眉間の皺が深い。その姿は“代表”より、“疲れた父親”に近かった。
「真央……久しぶりだな」
「父さんこそ、元気ですか?」
「ああ……どうにか、な」
信吉は座り、一枚のパンフレットを差し出した。
——金胎大学(仮称)。完成予想図が表紙に描かれている。
「……大学、ですか」
「来春、開校になる」
「来春……?」
胸がわずかに沈む。信吉は視線を落とした。
「……少し話す。これは、もう三年前から進んでいたことだ」
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〈信吉の回想〉
金胎大学を最初に言い出したのは弥生派だった。
『御子様が十八になる前に学び舎を』『弥生様の教えを体系に』『第二の御山を』
信吉は反対した。
「十年は早い。地盤も何も整っていない」
だが、弥生派は止まらなかった。
献金は雪崩のように集まり、ある支部では一晩で千万を超えた。政治家まで動き、大学は“潮流”だと持ち上げられた。
予定地は兵庫・三田市に決まり、認可の手続きも進み、寄付総額は計画の四倍。
そして——
『御子様が第一期生として入学されることを前提に』
この一文が、すべてを押し流した。
——もう誰にも止められない。
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〈現在〉
「……すまない、真央」
初めて聞く父の“謝罪”だった。
「本当は五年、十年先でよかった。お前が外で学び、自分の道を選んだ後で……と思っていた」
「では、なぜ急ぐのですか」
「——弥生派の勢いだ」
部屋の空気が冷える。
「弥生の神格化が止まらん。政治家も企業も金をつぎ込み、“御子が学ぶ姿”だけを欲しがる。私はもう……ひとりじゃ、流れを変えられん」
声は震えていた。
「父さん……」
「すまない。私は、お前を“真央”として世界に出したかった」
胸に熱が宿った。父は自分のために謝り、苦しんでいる。初めて見る姿だった。
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沈黙のあと、美沙が口を開いた。
「……真央。私も伝えなきゃいけないことがあるの」
「なんでしょう」
「来月から、大阪本部に移るわ。大学の運営準備の責任者に選ばれたの」
「大阪に……?」
「ええ。あなたの近くにいるべきだと思ったの。困ったら遠慮なく言いなさい。私は、あなたを“守る側”にいる」
そのまなざしは静かで、強かった。
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夜。真央は御山の尾根道を歩いた。星がよく見え、風がやさしい。手には大学のパンフレット。
丘陵に描かれた広大なキャンパス——それは、“未来”として押しつけられた図だった。
麻衣の震える歌声。恵一の夢。大阪で触れてきた人の痛み。
それが、胸の奥で静かに響く。
未来を閉じる力に従うのか。
それとも、自分の手で未来を少しでも開くのか。
真央はゆっくり夜空を見上げた。
胸の奥に、小さな灯が静かに揺れていた。まだ言葉にはならない。けれど確かに——ここから始まる“何か”だった。
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