第10話 繁栄の光、ひび割れの音
昭和三十九年、春。
山の空気はやわらぎ、金神殿の前庭では、植えたばかりの椿の苗が細い枝を震わせていた。境内には新しい参道が敷かれ、かつて土のままだった道に白い小石がびっしりと詰められている。朝日を受けて、その一粒一粒が、小さな宝石のように光を返した。
金胎教は、いまもっとも穏やかな繁栄のただ中にあった。
信者は村の外からも訪れるようになり、週末ともなれば、参道の外れに十数台の車が並ぶ。信吉の指示で建てられた集会所では、毎朝、祈祷と共同炊き出しがおこなわれ、年寄りたちは「ありがたいことや」「こんな日が来るとは」と目を赤くしていた。
弥生は変わらず、闇をまとったような静けさの中にいた。声はもう発さず、書板に筆を走らせるか、わずかに頷くだけ。それでも、その沈黙は信者たちの畏れと敬意を呼び込み、「声なき弥生さま」すなわち“生ける神の器”として、むしろ人気を増していた。
外から見れば、すべては順調に見えた。
だが、内側にいる者には、別の音が聴こえていた。軋みの音だ。
信吉は、新たに届いた献金帳簿をめくりながら、その数字の増え方に、言葉にならない不安を覚えていた。
──多すぎる。
喜びではなく、重しのように胸に沈む。
「……このまま広げて、本当にええんやろか」
小さく漏らしたつぶやきは、帳場の薄闇に吸い込まれた。
脇では、美沙が湯気の立つ茶をそっと置いている。
「繁盛してる時ほど、いちばん怖いんよ」
美沙はぽつりと言った。大阪の商家で身に沁みた“栄枯盛衰の規則”が、いまも骨の奥に残っている。
「人が集まるんはええ。けどな、集まれば集まるほど、人は『もっと』を求めるんよ。その『もっと』が、家も、店も、壊してきた。うちは、その流れで潰れた口や」
信吉は黙って帳簿を閉じた。
参道では、信者たちが弥生を描いた画を掲げて歩いている。純白の衣をまとい、真央を抱いた弥生──金胎教の象徴となった“母子像”。
声なき弥生。沈黙の真央。
金色の光に包まれたその絵は、いつの間にか「信仰そのもの」のように扱われ始めていた。
だからこそ、美沙には見えていた。
信仰が一人の女と一人の子から離れ、絵と物語だけで走り始めている危うさが。
「信吉。あんた、気づいとるやろ? 弥生さんが弱うなってきとることも、みんなが“絵”と“御利益”ばっかり見とることも」
信吉は俯いたまま、小さく息を吐いた。
「……父が作りたかったんは、こんな熱狂やなかった。ただ、人が生きられる場所やったはずや」
「せやけど、熱狂は人の側から勝手に生まれる。そこが“宗教”の一番怖いとこやで」
外から、信者の歌声が高く響いた。春風に乗って、金神殿の梁がかすかに鳴る。
繁栄の光の中に、細いひびが一本、確かに走り始めていた。
**
誰が最初に言い出したのかは分からない。
ただ、春の終わり頃から、境内の一角に、いつも同じ顔ぶれの女たちが集まるようになった。
白装束に身を包み、弥生の一挙手一投足を追いかけるように目で追う一団。
やがて人は、彼女たちを「弥生さまのお付き」と呼ぶようになった。
彼女らは声を潜めながらも、興奮した囁きをやめない。
「昨日の御影でな、弥生さまの足もとに金の光が差したんやて」
「産湯浴びせた時、御子さまの胸が金糸みたいに光ったんやと言うてたで」
「御子さまは、弥生さまの沈黙を受け継いではる。あれは“選ばれた印”やわ」
それらは、ほとんどが善意から生まれた誇張だった。
だが、宗教というものは、そうした“誇張された善意”ほど火がつきやすい。
弥生は沈黙を守り、笑いもせず、否定もせず、ただ淡々と筆を走らせるだけ。
しかし、その沈黙自体が信者の想像を刺激し、女たちの熱狂に“証拠”を与えるように見えていた。
もはや弥生は、地上に降りた巫女ではない。
神の影そのものになりつつあった。
信吉はその光景を見ながら、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じていた。
弥生が望んでいないことは分かっている。
本当は、あれほど“神”から距離を置きたがっていた女だ。矢萩の残した理を、淡々と守ることを自分の役目としてきた女だ。
なのに今は──信者の善意に押し上げられ、神輿の上に担がれたまま、降りようともしないし、もはや降りることもできない。
「……弥生、大丈夫なんやろか」
漏れた言葉に、美沙は小さくため息をついた。
「降りられへんやろね。ああなったらもう、本人が何言うたって、誰も聞かん。周りの“信じたい”って気持ちが、全部飲み込んでまうんよ」
美沙は目を細める。
「弥生さん、自分を守るつもりで声を捨てたんかもしれへんけど……その沈黙が、逆に信者を走らせとる。皮肉なもんやな」
女性たちの囁きは日に日に大きくなり、弥生の行くところには、いつも小さな群れがついて回った。
すべて善意だ。露骨な悪意は一滴もない。
だが、善意はときに凶器になる。
金胎教は、弥生の静かすぎる神性を中心に、気づけば急速に回転を増した巨大な円環のように膨れ上がっていった。
どこかで止めなければ、弥生は壊れる。
そして、教団そのものも。
その危惧が、信吉の胸の底に、ひっそりと積もり始めていた。
**
真央が五歳に近づく頃、金胎教はひとつの“壁”に触れ始めていた。
それは、繁栄が行き過ぎた時に現れる類の亀裂で、外から眺めれば幸福そのもののように輝きながら、内側にいる者だけがひっそりと恐怖を覚える種類のものだった。
ある朝、美沙は奥殿の縁側で、弥生の背にそっと手を添えていた。
「……しんどいんやないの」
弥生は静かに首を横に振る。
その動きは以前と変わらぬ穏やかさを保っているが、どこかぎこちなく、わずかに遅れがあった。
筆を持つ手は、ときおり小さく震える。
それでも弥生は、その震えを隠そうとしなかった。まるでそれすら“神の徴”であるかのように、ただ静かに、紙へと金泥の線を引き続けていた。
「……姉さん」
信吉が低く呼びかける。彼もまた、その震えを見ていた。
「明らかに疲れとる。休ませた方がええ」
「……でもな、信吉。あの人、自分で弁を閉じてしもうたんよ。いまさら声なんて戻せへん。戻した瞬間、信仰が揺らぐのを、本人がいちばんよう知っとる」
それは、弥生の悲しみであり、同時に強さでもあった。
その頃、境内にはもうひとつ、静かな変化が広がっていた。
真央の周りで、いつも決まった二つの呼び名が飛び交うようになったのだ。
一つは「御子さま」。
弥生の胎に降りた“神の子”としての名。弥生を中心とした女性信徒のあいだから自然と生まれた呼び名だった。
もう一つは「真央さま」。
ひとりの子どもとしての人格を尊ぶ名。こちらは、信吉の周りにいる古参や実務を担う者たちが、意識せぬまま使い始めたものだった。
この“呼び名の分裂”は、やがて教団内部の方向性の違いに繋がっていく。
「御子さまは、神の胎より顕れた子や」
「ちゃう。真央さまは、信吉さんの子や。弥生さんも、それを望んどるはずや」
そのやりとりは、まだ表立った争いにはなっていない。
ただ、目に見えない温度差として、境内の空気を少しずつ変え始めていた。
信吉は、その流れを肌で感じ取っていた。
手水舎の水面に、夕陽が細く揺れている。
信吉は柄杓を置き、その揺れをじっと見つめた。
「……父も矢萩さんも、こんなん見たら苦笑いやろな」
隣に美沙が並ぶ。
「せやけど、これが“宗教”の自然な成り立ちなんやと思うよ。人は“奇跡”を信じたいんや。生活が豊かになればなるほど、その裏にある不安も、一緒に膨らんでいく」
「不安……か」
「せや。弥生さんがちょっと笑うだけで、“奇跡や”って泣く人がおる。良くも悪くも、もう戻られへんところまで来てしもうたんよ」
信吉は、拳をゆるく握った。
弥生は疲弊しながら神の座に縛りつけられ、
真央は声を持たぬまま、誰よりも“聞く子”になっている。
村は豊かになり、信者は増え続ける。
──繁栄は、必ずゆがみを伴う。
そのゆがみの輪郭が、信吉と美沙の目には、はっきりと見え始めていたのだった。
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