第9話 名を与える日
山を渡る風にはまだ冬の気配が残っていたが、麓の雪はようやく薄くなり、土の匂いがわずかに立ち上がっていた。
金神殿の前には、白装束の列がゆるやかに波をつくっていた。手に灯明を抱えた信徒たちが、固唾をのんで拝殿を見つめている。
今日は、沈黙の御子に“名”が与えられる日だった。
母の肩に抱かれた幼子は、三つになったばかり。泣かず、叫ばず、声を発したことがない。その沈黙は畏れと期待を呼び、いつのまにか誰もが「神意」と呼ぶようになっていた。
拝殿の奥で簾がわずかに揺れ、白衣の弥生が姿を見せた。声を捨てた彼女は今日も筆を持つ。その静けさだけで、場の空気が研ぎ澄まされていく。
墨を含ませた筆が紙をなでる音が、拝殿の中にしんしんと落ちていく。
一筆目──「真」
もう一筆──「魚」
ざわ、と信徒の間で小さな波が走った。
“金の魚”。
弥生が妊娠を告げた夜に語った夢。あれを知る者には、あまりにも象徴的な名だった。
弥生は筆を置き、紙の“魚”の文字にそっと指を触れさせた。
幼子の手が、それに導かれるように伸びる。
人々は息を呑んだ。
信吉は、胸の奥にひやりとしたものが流れるのを感じた。
神の名。象徴としての名。
そこに血の通う“人の名”が欠けていることに、ようやく気づいた。
静かに前へ出る。
「……弥生。この子に、もうひとつ名を与えてもよろしいか」
弥生は、短く頷いた。
信吉は紙の隣に膝をつき、震える指で筆を持った。
構えるだけで、息が胸に重くかかった。
一文字──「央」
紙の上で黒が落ち着き、拝殿の光がわずかに揺れた。
「……真央。魚より生まれしこの命が、この地の央──中心となるように」
その言葉は、祈りとも、願いとも、あるいは覚悟ともつかなかった。
弥生がじっとその名を見つめた。
そして、二年ぶりに、微かに唇を震わせた。
「……真央……」
その声を聞いた瞬間、信徒たちは泣き崩れ、誰かは地に額を擦りつけて祈りはじめた。
熱狂は稲妻のように駆け抜け、村の奥まで震わせた。
こうして沈黙の御子は、正式に“真央”となった。
その名はのちに、村を、日本を揺らす核となる。
**
命名の儀が終わると、弥生と信吉は真央を抱いて外へ出た。
眼下には、雪解けの流れのように白衣が広がっていた。
遠方からも来た者たちが手を合わせ、真央を仰いでいる。
「真央さま……!」
「新しい御代が始まる……!」
声の波が畑を越え、山へと吸い込まれていく。
真央は驚くほど静かに、澄んだ目で人々を見つめていた。
指が小さく動く。その一挙一動に、群衆は胸を打たれたように息を呑む。
祝福と熱狂が、目の前で形を持ちはじめている。
信吉の胸は、むしろ冷えた。
「……美沙姉の言う通りかもしれんな」
隣に立つ美沙は、険しい目を拝殿に向けていた。
「繁栄は呪いやで。流れが止まるまで皆、気づかんのよ。うちの大阪の家もそうやった。金が笑いを連れて、最後には金が笑いを奪っていった」
信吉は真央の背を見つめた。
ただ、この子を守りたい。
その気持ちだけは、熱狂に呑まれまいと踏みとどまっている。
だが、祝祭の光は強すぎる。
影は、まだ形を持たないまま足元に広がりつつあった。
**
命名から七日後。
村には依然として熱の余韻が残っていた。
金神殿の前には、供物が山を成している。米、野菜、布、玩具。
真央への奉納は尽きる気配がなかった。
「静かやから、神さまなんよ」
誰かが言った。
美沙はその言葉に眉を寄せた。
「……静かすぎる子は、人の器になる。願いも、恐れも、そのまま入ってまう。恐いんよ、ほんまは」
信吉は言葉を失った。
その日から“新たな慣わし”が始まっていた。
弥生の周りに若い女たちが集まり、彼女の書く詔を見守る。
〈沈黙の御言(みこと)〉。
信徒は“真央の沈黙を弥生が書き記している”と信じていた。
熱狂は、事実より都合の良い物語を選ぶ。
信吉はひどく喉が渇いた。
儀式のあと、弥生と真央を部屋へ戻し、扉を閉じる。
「弥生……真央の沈黙が独り歩きする。もう、お前の手から離れつつある」
弥生は、ただ筆を取って一文字記した。
(恐れず)
その筆圧は驚くほど強かった。
「……誰が恐れず、なんだ……真央か、お前か、それとも……俺か?」
弥生は答えない。ただ真央の頭を撫でるだけだった。
真央はその指を握り返し、静かに微笑んだ。
慈悲にも見えるが、信吉にはどこか底の見えない深さを感じさせた。
扉の外に、美沙が立っていた。
彼女は真央を一目見て、低く呟いた。
「器は選ばれへん。けど、何を入れられるかは……周りの都合や」
信吉は目を閉じた。
黄金の祝祭の中心で笑うこの子は、祝福か。呪いか。まだ誰にも分からない。
ただ、静寂だけが揺らがなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます