窓《ウィンドウ》を照らす配信者

ゆっくりアレル

プロローグ:心のデータはゼロ

 オフィスビルの二十三階。

カイは、今日の業務日報に「特記事項なし」と入力し、エンターキーを押した。

秒針の音すら吸い込まれそうな静寂の中、彼の心臓は拍動を続けている。だが、その拍動はただの肉体の機能であり、感情という名の熱を生み出すエンジンではない。

カイは、生まれつき、あるいは幼少期に、心の機能の一部を失った。

彼の世界は常にフラットだ。人の笑顔を見ても、ニュースで悲劇を知っても、目の前のデスクにコーヒーを溢しても、脳はそれらを「ポジティブな情報」「ネガティブな情報」「物理的な事象」として淡々と処理するだけだった。喜びも、悲しみも、怒りも、彼にとっては辞書に記載された定義と使用例でしかない。

人生のあらゆる出来事が、彼という名の高性能なコンピュータを通り過ぎるデータに過ぎなかった。

彼の日常は、「虚無」という名の真空で満たされていた。


 その夜、自室の暗闇の中。

カイは、何気なく起動した動画配信サイトを流していた。膨大なデータの中から、無作為に選ばれたライブ配信。画面の中では、顔を赤くした男が絶叫し、コメント欄は「感動した!」「神回!」という熱狂的な文字で埋め尽くされている。

「感情の過剰発露。データとして非効率的」

彼はそう分析する。しかし、その熱狂の「現象」だけが、カイの「虚無」をわずかに揺らした。理解できないが、そこには何か、自分が持たないエネルギーの塊がある。

彼が唯一、飽きずに続けられるもの。それは、世界的な大人気レースゲーム『アルティメット・レーサー』のタイムアタックモードだった。彼の驚異的な集中力と冷静さは、現実のプロレーサーをも凌駕するタイムを叩き出す。感情という余分な変数が一切介在しないため、彼は常に最適解を導き出せた。

「この技術を、あの熱狂の場に持ち込んだら、どのようなデータが得られるだろうか」

そう考えることに、感情は必要なかった。ただの純粋な好奇心だった。心の穴を埋めるためではなく、その穴の存在を証明するため。彼は最低限の配信機材を注文し、ハンドルネームを「KAI.」と設定した。


 数日後。

彼の自室に、プロ仕様のステアリングコントローラーとマイクが設置された。

電源を入れる。

配信ソフトを起動する。

彼の顔は、画面に映る青白い光の中で、まるで精密機械のように静まり返っていた。

「配信を開始します」

マイクに向かって発した声は、感情という名の振動が一切含まれない、事務的な音波だった。

誰の心にも触れていない。彼の心も虚無のままだ。

大人気ゲーム『アルティメット・レーサー』のスタートグリッド。

数十万人のプレイヤーが熱狂するその世界で、心のデータがゼロの男、KAI.のゴーストカーが、静かにエンジンを始動させた。

彼はまだ知らない。この静かなスタートが、彼という名の「虚無」に、やがて爆発的な「熱」を生み出す、最初の一歩となることを。

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