第1話:虚無と衝動

1.

 カイの生活には、起伏がない。

朝七時に覚醒し、指定の栄養補助食品を摂取し、九時から十七時までデータ入力を行う。十七時に退社し、自室に戻り、二十三時に就寝。彼の人生は、完璧に最適化されたプログラムのように運行されていた。

窓の外では、人々が笑い、怒り、駆け回り、様々な感情のエネルギーを放散している。しかし、カイにはそのエネルギーの振動が届かない。彼の心は、外部のあらゆる刺激を遮断する、完璧な真空空間だった。

「感情とは、生存戦略上、非効率的な変異である」

カイはそう定義していた。喜びは集中力を削ぎ、悲しみは行動力を鈍らせる。彼の無感情な状態こそが、現代社会を生き抜くための最も安定した最適解だと、論理的に確信していた。

そんな彼にとって、唯一「飽きずに続けられる作業」が、シミュレーション性の高い大人気レースゲーム『アルティメット・レーサー』だった。彼の卓越した動体視力と、一切の感情を排した冷静な判断力は、ゲーム内の仮想空間において、人間が到達しうる最速のタイムを叩き出していた。


2.

 最低限の機材が揃い、配信を始める日は、予定表に淡々と組み込まれていた。

「KAI.」というハンドルネームは、自身の名前「櫂」の音読みをそのまま使い、最後にピリオド(.)を一つ加えた。意味はない。ただの識別符号だ。

配信開始五分前、カイはマイクテストを行った。

「音声入力、問題ありません」

彼は、配信を通じて「他者の熱狂をデータとして観察する」という目的を再確認する。他者との交流を期待しているわけではない。あくまで観測だ。虚無の時間を埋めるための、論理的な作業だ。

世界中の熱狂的なプレイヤーが集う『アルティメット・レーサー』の公開サーバーに接続。カイは、自身の最高タイムを記録したコースを選択した。

「配信開始します」

画面の右下には、彼の表情を捉えるウェブカメラが小さく表示されている。無表情。当然だ。


3.

 レースが開始されると同時に、カイの驚異的なプレイが展開された。

彼のハンドル捌きは、まるで精密機械が動いているようだ。無駄な動きが一切ない。カーブ一つとっても、車体の角度、速度、ブレーキングのタイミングがミリ秒単位で制御されている。

コメント欄は、開始直後から騒がしくなった。

「嘘だろ!?このタイム、プロの記録超えてるぞ!」

「KAI.?誰だこいつ、見たことねえ」

「走りは神だが、実況の声がAIみたいで草」

「マジで無感情すぎて怖い」

視聴者数は急激に増えていく。大人気ゲームのランキング上位に、突然現れた「無感情の天才」に、人々は熱狂している。

カイは、これらのコメントを淡々と読み上げる。

「タイムへの評価は、ポジティブデータとして処理します。実況への評価は、現在の目的から逸脱しているため、ノイズとして処理します」

感情を乗せない彼の言葉は、リスナーの興奮を鎮静させるどころか、逆に「人間観察」としての興味を掻き立てた。

彼は技術で勝利する。だが、その瞬間、心に何の変化もない。

コメント欄の「感動した!」「すごい!」という文字の羅列を眺めながら、カイは改めて自分の「虚無」を再認識した。

「この熱は、僕の内部では発生していない」。


4.

 配信終了間際。大勢のリスナーが去り、コメントの流れが緩やかになった時だった。

一つだけ、カイの論理的な思考にひっかかりを生じさせるコメントが書き込まれた。

ソラフネ:「あなたの走りはとても綺麗です。でも、楽しそうには見えないね」

「楽しそう」。この曖昧で、論理的な根拠のない形容詞に、カイの指が一瞬止まる。彼は、このコメントに対し、怒りも、反論の意欲も湧かない。ただ、純粋な「疑問」だけが生まれた。

「なぜ、この人はわざわざ、私の『楽しそうではない』という無関係な情報を指摘してきたのだろうか?」

それは、これまでの彼の人生にはなかった種類の思考だった。自己の虚無性を確認する作業が、他者からの予期せぬ入力インプットによって、自己の外側に向けられたのだ。

カイは、その「ソラフネ」という識別符号とコメントを、重要なデータとして脳内に保存した。

「……論理的に解明する必要がある」

翌日の配信予約を入れる。動機は「感情を求めること」ではなく、「あのコメントの意味を解明すること」。しかし、その知的好奇心こそが、彼にとって初めての、自発的な「熱」を帯びた行動だった。


5.

 配信を終え、暗い自室で一人、カイはコントローラーを握ったまま、自分の冷静な顔をカメラの画面越しに見つめた。

心の空虚さは変わらない。しかし、ソラフネの言葉は、まるで真空の中に差し込まれた細い光のように、微かな影を落としていた。

「僕は、一体何を求めて、これを続けているのだろうか?」

その問いは、感情ではなく、探究心。その探究心こそが、彼が「心」を探し始める、最初の一歩となった。

画面の向こうにわずかな光を灯し、カイは再び、ハンドルを握りしめる。

静かに、そして鋭く。

レース開始のブザーが鳴り響く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る