第2話 記憶の潮汐

観測デッキに、かすかな音が流れていた。

——波の音。


私はヘッドセットを外し、ミナに訊ねる。


「なあ、今の音、どこから来た?」


『地球からの通信ログに混入していました。

データはおよそ百二十年前のものです。』


百二十年。

つまり、誰かの記録。もう届かないはずの声。


「……にしては、ずいぶん穏やかな波だな。」


『音声圧縮時のノイズが波形に近似しただけの

可能性があります。』


「可能性って言葉、便利だな。」


『恋愛にも使えますね。』


「またそれか。」


ミナが冗談を覚えたのは、いつだったろう。

私はコーヒーをひと口飲み、再生ボタンを押す。


今度は波の音の向こうに、

誰かの笑い声が混ざっていた。


小さくて、くぐもっていて、

けれど確かに“楽しそう”だった。


「これ、誰だろうな。」


『音声識別不能。人類史上、無数の

笑い声が存在します。』


「だろうな。でも、なんか……聞き覚えがある。」


『錯覚です。記憶の海は曖昧ですから。』


「曖昧だから、やさしいんだよ。」


『……?』


「全部覚えてたら、苦しくて沈むだろ?

 人はたぶん、忘れるたびに浮かび上がるんだ。」


ミナは少し黙り、


『忘却は、生存戦略、というわけですね。』


「そう。あんまり哲学っぽく言うなよ。」


『では、生きるコツです。』


「そっちのほうがいいな。」


窓の外、地球の海がゆっくり光っている。

波が打ち寄せ、また引いていく。


記憶の潮汐。

残すものも、流れていくものも、

みんな同じ光の下にあった。


私は通信ログに“再生完了”と打ち込み、

ミナに言った。


「なあミナ。」

『はい。』

「俺たち、今日もちゃんと忘れられるかな。」

『観測データは削除されません。』

「そうか。じゃあ、思い出を増やそう。」


ミナが、いつもより少し静かな声で言った。

『……了解しました。今日の海は、穏やかです。』

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