第26話 秋の始まりと恋の実り
菜々
風が少し冷たくなった。
通りを歩くと、金木犀の香りがふっと鼻をくすぐる。
商店街の看板には「秋の味覚フェア」の文字。
あっという間に季節が変わっていく。
今年の夏は、たぶん人生でいちばん楽しかった。
でも、恋が日常に溶けていくこの感じも悪くない。
朝、魚屋のシャッターが上がる音がした。
私は八百屋の準備をしながら声をかける。
「おはよう、汐!」
「おはよう。今日も秋刀魚、いいの入った」
「おっ! 秋刀魚!」
「脂のりが完璧。焼くだけでごちそう」
「じゃあうちは、秋茄子と一緒に出そうかな」
「八百屋と魚屋のコラボ?」
「うん。“秋刀魚と秋茄子の共演”。どう?」
「……ネーミングは菜々っぽい」
「褒めてる?」
「もちろん」
いつもと変わらない朝。
でも、少しだけ近い距離。
それがうれしい。
⸻
秋のイベントの準備が進んでいる。
通りの中央には、赤と橙ののぼり旗。
屋台の手配や仕入れで、
魚屋も八百屋もてんやわんや。
「汐、こっちのテントもうちょっと右!」
「了解。……これくらい?」
「もう少し!」
「菜々、細かい」
「芸術はバランスが大事なの!」
「これ、芸術なの?」
「食は芸術!」
「……じゃあ認める」
笑いながら、汐がテントの支柱を持ち上げる。
腕の筋がすっと浮かぶ。
魚を扱う人の手。
強いのに、包丁を握るときのように繊細。
私はふと、その手を見つめていた。
「……菜々?」
「えっ!? な、なんでもない!」
「またぼーっとしてた」
「してない!」
「してる顔」
「してないってば!」
わたしたちは結局、
笑いながらその場にしゃがみこんだ。
秋の風が通り抜けて、
金木犀の香りがふたりのあいだをくすぐった。
⸻
夕方。
屋台の試作を兼ねて、ふたりで料理をした。
秋刀魚の香ばしい匂いと、
焼いた茄子の甘い匂いが混ざる。
「腹のほうは脂が多いから、火を強くしてもパサつかない」
「なるほど……じゃあ背のほうは軽く焼くね」
「うん。表だけ焦げ目つけて、中はふわっと」
「さすが魚屋」
「菜々も、茄子の扱い上手くなった」
「褒めて伸びるタイプです!」
「知ってる」
汐の手が、ふいに私の頬の横をかすめた。
髪にくっついた粉を取ってくれたらしい。
その仕草が、あまりに自然で、
あまりに優しくて――心臓が跳ねた。
⸻
外はもう夕焼け。
通りが橙に染まり、
屋台の明かりがぽつぽつと灯り始める。
「ねぇ、汐」
「うん?」
「思うんだけど……」
「うん」
「こうやって、一緒に働いてるとさ」
「うん」
「もう“八百屋と魚屋”っていうより、“ひとつの店”みたいだよね」
「それ、いいね」
「うん。……ね、いつか本当に、並んだままお店出せたらいいね」
汐が少し黙って、それから笑った。
「じゃあ、“八百魚屋(やおうおや)”」
「なにそれ! 響きが変!」
「じゃあ“菜々と汐商店”」
「それもなんか夫婦っぽい!」
「……いいじゃん」
その言葉に、
胸の奥がじんわり熱くなった。
⸻
秋祭りの夜。
通りには金木犀の香りと、出汁の香りが混ざっていた。
人の声、笑い声、拍手の音。
私たちの屋台は、今年も一番端っこ。
けれど、すぐに人だかりができた。
「秋刀魚と茄子のセット、もう一丁!」
「天ぷら追加!」
「はいよ!」
息が合う。
もう何も言わなくても、汐が次の動きを読んでくれる。
鍋の温度、包丁の音、声のトーン。
全部がひとつになっている感覚。
「菜々、ソースあと少し」
「了解!」
「焦げる前に――」
「分かってる!」
目が合って、ふたりで笑った。
夜空の下、
提灯の灯りに照らされる汐の横顔がきれいだった。
夏のときよりも、
ずっとやさしくて、少し色っぽい。
⸻
祭りの片づけが終わったあと、
通りは静かになった。
金木犀の香りが濃くなって、
夜風が少し肌寒い。
「今日もがんばったね」
「うん。菜々、ほんとよく動いた」
「そっちこそ」
「……ありがとう」
汐が小さく笑って、
湯気の残る手で私の指を握った。
何も言わなくても、伝わるあたたかさ。
「ねぇ、汐」
「うん?」
「この秋、すごく好きだな」
「金木犀?」
「それもだけど……隣にいる季節」
風が静かに吹いて、
ふたりの髪が少し絡まった。
そのまま、汐が私の額に軽く口づけを落とした。
「……おやすみ、菜々」
「おやすみ、汐」
通りの灯りが遠のいて、
静かな夜が、ふたりを包んだ。
⸻
そのころ、トロは屋台の下で丸くなっていた。
残りの秋刀魚の香りに包まれながら、
満足そうに喉を鳴らす。
――秋は、恋がいちばん美味しい季節
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