第25話 夏祭りと浴衣と猫のやきもち

――菜々


 風鈴が鳴って、夏の夕暮れがやわらかく揺れた。

 外はまだ明るいのに、蝉の声が遠くで響いている。


 浴衣の帯を締めながら鏡をのぞく。

 少し汗ばんだ首筋に、うっすら光る飾り紐。

 落ち着いた藍色に、白い朝顔の模様――

 わたしらしく、でもほんの少しだけ背伸びした。


 玄関のチャイムが鳴く。


「……は、はいっ!」


 慌てて足袋を整えてドアを開けると、

 そこに立っていたのは、浴衣姿の汐だった。



 白地に墨のような灰色の線が走る、

 控えめなのに目を奪われる柄。

 髪は少しだけ後ろでまとめていて、

 いつものキャップもゴムもない。

 首筋がすこし見えて、

 風がそこを撫でるたびに、思わず目がいってしまう。


「……なに?」

「い、いや……その、似合ってる」

「ありがとう」

 汐が笑う。

 その笑顔は、いつものボーイッシュな明るさとは違って、

 どこか静かで、やわらかい。


 ああ、ずるい。

 “かっこいい”のに“綺麗”でもあるなんて、反則だ。



 夏祭りの通りは人でいっぱいだった。

 提灯の赤が夜の空気をあたためて、

 どの屋台も笑い声で満ちていた。


「久しぶりだね、こういうの」

「うん。……でも、少し照れる」

「なにが?」

「浴衣。動きづらいし、風が通るたびに変な感じ」

「変な感じ?」

「……なんか、肌に風が触れるのがくすぐったい」


 その言葉に、わたしの胸が一瞬止まった。

 顔を見ないようにして、屋台の方を指さす。


「ほ、ほら! 焼きそば!」

「菜々、誤魔化した」

「してない!」


 汐が小さく笑って、

 わたしの肩を軽く押す。

 その指先の温度が、浴衣越しに伝わって、

 胸の奥まで熱くなった。



 金魚すくい、射的、リンゴ飴。

 どれも子どもの頃みたいで楽しい。

 だけど、隣に立つ汐がいるだけで、

 全部が新しく見えた。


「菜々、射的リベンジ?」

「もう去年の話しないで!」

「じゃあ今年は成功させよう」

「……わたしが、ね!」


 菜々、狙う。撃つ。外す。

「……」

「まだリベンジ継続」

「汐っ!」


 汐が笑いながら銃を持つ。

 その横顔にかかる光が、

 いつもの職人気質な鋭さじゃなくて、

 どこかやさしい。


 パンッ――と乾いた音。

 見事に的が落ちた。


「やった」

「すご……!」

「魚屋の反射神経」

「それもう口癖にしてるでしょ」

「うん」


 渡された景品は、白い猫のぬいぐるみ。

 トロそっくりだった。


「これ、トロに」

「ふふ、いいね」



 かき氷を食べながら歩く。

 夜風が熱を冷まして、

 風鈴がどこからか鳴った。


「菜々、いちご味?」

「うん。汐は?」

「ブルーハワイ」

「舌、青くなってるよ」

「菜々も赤」

「みないで!」

「見た」

「ばかっ」


 笑いながら顔をそむけた瞬間、

 汐の指先が、頬についた氷をそっと拭った。

 それは“優しい”だけじゃない。

 すこし、心臓が跳ねるほどの距離。


「……冷たい?」

「……あたたかい」

「どっち」

「わかんない」



 花火が上がる。

 空に広がる色の光が、浴衣の袖を照らす。

 汐の横顔が、光に照らされて艶やかだった。

 風が髪を揺らし、首筋の白い肌が一瞬見える。

 それが火花よりも眩しくて、

 視線を逸らせなかった。


「……菜々?」

「えっ、な、なに?」

「顔、真っ赤」

「花火のせい!」

「うそ」

「うそじゃない!」


 汐が少し笑って、

 そのまま近づいてきた。

 浴衣がかすかに擦れる音。

 香りが混ざる距離。


 夜空にまた光が咲く。

 その瞬間、唇がそっと重なった。


 音も、風も、

 ぜんぶ遠くなって、

 花火の光だけが、世界を照らしていた。



 帰り道。

 浴衣の裾を気にしながら歩くわたしの隣で、

 汐がふっと笑った。


「菜々」

「なに?」

「今日の浴衣、似合ってた」

「ありがとう」

「でも次は……」

「次?」

「もう少し近くで見たい」

「……もう! ばか!」


 笑いながら家に帰ると、

 玄関でトロが尻尾を立てて待っていた。


「トロー!」

「にゃあ」

「汐、トロがにらんでる」

「やきもちかも」

「……仲間外れにされたと思ってるのかも」

「次は三人で行こうか」

「にゃっ!」


 猫の鳴き声と、ふたりの笑い声。

 それが夏の夜の終わりを、

 いちばんやさしく締めくくった。

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