第14話 言えない気持ち、八月の空

――菜々


 八月の空は、昼過ぎになると少し白っぽく霞む。

 風鈴は相変わらず鳴っているけど、音の輪郭が丸くなって、耳の奥でやさしくほどけていく。

 私は、店の前にすだれを下ろして、棚から出しっぱなしの段ボールをひとつずつ畳んでいた。


「ふぅ……」


 腕を伸ばすと、肩がぱきんと鳴った。

 背伸びをやめて、すだれの隙間から隣をのぞく。

 汐は無駄のない動きで、魚の骨を抜いていた。

 その手つきは見慣れているのに、今日は妙に静かで、目が冷たい氷みたいに澄んでいる。


「……やっぱ変だよ」


 思わず口に出して、私は自分で自分に苦笑いした。


 風邪の夜は、あんなに近かったのに。

 朝焼けの光の中で笑った顔を、私は忘れられないのに。

 ここ数日は、汐が半歩だけ遠い。

 手を伸ばせば届く距離にいるのに、指先がためらってしまう。


「おーい、菜々!」


 呼び声に振り返ると、汐が小さな発泡の箱を持って立っていた。


「余った氷、いるか?」

「いる! 今日のトマト、冷やしたらもっと可愛い」

「可愛いって……トマトの人格どうなってんだよ」

「いいじゃん、うちの子たち」


 箱を受け取りながら、指が少し触れた。

 ほんの一瞬。なのに、心臓だけが妙に丁寧に跳ねる。


「助かった、ありが――」

「ついで」

「またそれ」


 思わず笑ったら、汐も口角だけ、ほんの少し上げた。

 その笑いが、以前より短い気がして、私は言葉を飲み込む。


「ね、夕方さ、屋上いかない?」

「屋上?」

「市場の上。ほら、夏の終わりの空、綺麗だから。スイカ持ってく」

「……おまえ、スイカ好きすぎだろ」

「季節の恋人」

「人間に謝れ」

「じゃあ、汐が人間枠で一緒に」

「意味わかんねぇ」


 わざとふざける。笑わせたい。

 笑ってほしい。

 言葉でごまかすたび、胸の奥のもやが少し軽くなる。


「で、行くの? 行かないの?」

「……行く」


 その返事に、私はようやく息をついた。



 夕方。

 市場の屋上は、鉄の手すりが少し熱を残していて、風がそれを奪っていく。

 見下ろすと、商店街の看板がミニチュアに見えて、すだれがあちこちで揺れている。

 私は薄いまな板と包丁、そして半分に切っておいたスイカを持ってきた。

 汐は麦茶の入った水筒を持っている。なんだかんだで準備がいい。


「ナイフ貸せ」

「だーめ。今日は私が切る」


 張り切って一刀。ぽとり、と三角の赤が生まれて、甘い匂いが風に乗る。

 汐は私の横に腰を下ろして、肘を膝に当てて空を見上げた。


「……雲、薄いな」

「ね。秋がすぐそこまで来てる感じ」

「夏、短かったな」

「長かったよ。いろいろ」


 自分で言って、心のどこかがちくりとした。

 いろいろ、の中身を、今の私はまだ名前で呼べない。


「はい、汐の分」

「サンキュ」


 かぷ、と音を立てて汐がスイカを齧る。

 頬がほんの少し動いて、目尻が柔らかくなる。

 私はその横顔を見ながら、同じように齧った。冷たさが舌を痺れさせる。


「種、飛ばすなよ」

「飛ばさないよ」

「幼稚園のとき、祭壇に向けて飛ばして怒られた」

「それ言うな!」


 笑い合う。

 風が背中を撫でていく。

 屋上の隅で、古い旗がばさばさと鳴った。


「汐」

「ん」

「最近、ちょっとだけ遠い」

「……そうか」

「うん」


 うなずいた瞬間、私の喉が勝手に乾いた。

 風が吹いて、髪が頬に触れる。

 汐は視線を空から外して、私を見た。まっすぐで、少し困った目。


「遠いっていうか……」

「いうか?」

「近いと、うるさいから」

「は?」

「心が」


 言葉が落ちるまで、二秒くらいかかった。

 落ちたあとで、胸の奥で水が跳ねたみたいにざわついた。


「……それ、褒めてる?」

「たぶん」


 目が合う。

 スイカの赤よりも、夕焼けよりも、顔が熱い。

 私は慌ててまな板の上のスイカを指差した。


「種、いっぱい」

「話そらすな」

「そらしてない。種、いっぱい」

「……おまえのそういうとこ、ずるい」


 汐は笑って、視線をまた空に戻した。

 それ以上言わなかったことに、私は同時に救われ、少しだけ寂しくなる。


「ね、来年もさ」

「ん」

「ここでスイカ食べようよ」

「約束しただろ。花火も」

「両方」

「ああ。両方」


 約束、という言葉が、手すりの鉄みたいにひんやりと確かな重みを持って、心に触れた。



――汐


 屋上の風は、いい。

 余計な匂いがなくて、季節だけが鼻に届く。

 菜々が切ったスイカは、形が不揃いで、でも不思議と食べやすい。

 器用じゃないのに、気が利いてる。

 昔から変わらない、菜々の手の仕事だ。


「近いと、うるさい」なんて、なんで言ったんだろう。

 言葉にしてから、胸が少し軽くなった反面、ずきっと痛んだ。

 当たり前だ。半分だけしか渡してない。

 本当は「近いと、好きがうるさくなるから」なのに。


「汐」

「ん」

「アゴにスイカの汁ついてる」

「うるさい」

「拭いてあげようか?」

「子ども扱いすんな」

「もー」


 タオルが、不器用に私のアゴに触れた。

 その一瞬のぬくもりで、心臓が勝手に跳ね上がる。

 菜々はすぐ顔を逸らして、タオルをくるくる丸めた。耳が赤い。


「……ありがと」

「どういたしまして」


 言葉が軽く転がる。

 ちゃんと言えばいいのに。

 本当に言いたいことは、喉の奥で固まって動かない。


 私は水筒の麦茶を飲んで、わざと少し大きく息を吐いた。


「なぁ、菜々」

「なに?」

「もし、だよ。仮の話」

「うん」

「“隣”って、永遠じゃないとしたら、どうする」

「……やだ」

「即答か」

「やだよ。だって、この通りの匂い、汐の声、風鈴の音、うちのトマトの葉っぱ、全部“隣”でひとつなんだもん」


 菜々は、言葉を選ばない。

 私よりずっと正直で、まっすぐだ。

 胸がほどける。怖くもなる。


「でもさ」

「うん」

「“隣”の意味、変えていくのは、ありなのかなって」

「……どういう」

「言葉にするの、まだ無理」

「じゃあ、仮のままでいいよ」


 夕陽が少し落ちて、影が長くなる。

 菜々の手が、まな板の端をいじっていた。

 指が小さい。爪が短い。

 その手で、私は何度も起こされて、何度も救われた。


「汐」

「ん」

「私、たぶん……ね。弱い」

「どこが」

「すぐ泣きそうになるし、背も小さいし、重い箱も持てないし」

「弱くねぇよ」

「言い切るね」

「見てるから」


 言い過ぎた、と一瞬思った。

 でも、菜々は笑っただけだった。

 もう少し言えるかもしれない、と思った次の瞬間、屋上のドアが開いて、市場の人が顔を出した。


「おーい、おふたりさーん! 屋上の鍵、閉めるからそろそろ降りてねー!」

「はーい!」

「今行く!」


 会話はそこでぷつりと切れた。

 私は立ち上がり、スイカの皮を袋にまとめる。

 菜々がまな板を拭いて、包丁を布でくるむ。

 並んで階段へ向かうとき、手すりの影が互いの足元で重なった。


 ――言えなかった。

 でも、さっきの「仮」の中には、確かに一歩があった。

 それで今は、十分に思えた。



――菜々


 階段は、ぎしぎし鳴って、すれ違う風が冷たかった。

 踊り場で足を止めると、窓から見える空が群青に変わり、最初の星がひとつだけ点っていた。


「ねぇ、汐」

「ん」

「仮の話、もうひとつ」

「なんだよ」

「“隣”が“前”になったら、どうする?」

「……前?」

「うん。隣って、横並びでしょ。前は――歩く方向が同じってこと」


 口から出た言葉に、自分が一番驚いた。

 でも、言ってしまったものは戻せない。


 汐は、少しの間、黙って私の顔を見ていた。

 薄い灯りの下で、その瞳の色が深くなる。


「それ、仮にしては大胆だな」

「スイカ糖でテンション上がってるだけ」

「責任取れよ」

「なんの?」


 やり取りの形を借りて、鼓動を誤魔化す。

 汐が、ふっと笑って、階段を降り始めた。


「前の話は、また今度。市場の鍵、マジで閉まる」

「うん」


 短い返事が、やけに長く胸に残った。



 通りに戻ると、風鈴の音がまた鳴った。

 店じまいをする人の声、猫のトロの伸び、氷を流す音――全部が、いつもの終わり方で、今日だけ少しだけ違う。


「おつかれ」

「おつかれ」


 隣り合う声が重なる。

 私はシャッターを下ろす前に、汐を見た。

 言えない言葉が、喉の奥で小さく光っている。


「じゃあ、明日」

「ああ。明日」


 明日、必ず来るはずの合図。

 それがどうして、こんなにも頼もしく、愛おしいのだろう。


 シャッターを半分まで下ろして、私は手を止めた。

 すだれの隙間から見える空は、深い青のまま、星が二つに増えていた。


「……汐」


 小さく呼んだ声は、金属の響きに紛れて、自分にだけ届いた。

 それでも、言ったことが大事だった。

 言葉にしない代わりに、心のなかで何度も口にする。


 隣、から。

 前へ――。



――汐


 夜の通りは温度が下がって、魚の匂いも野菜の匂いも薄まる。

 でも、菜々の声は耳に、とどまる。


 「前」か。

 あいつは、たまに本質をいきなり言う。

 仮の皮を着せながら、ど真ん中を撃ち抜いてくる。


 私は、店の灯りを落としてから、いつもの癖で空を見上げた。

 群青に、星がいくつか。

 風鈴が、最後にひと鳴き。


「……前、か」


 隣にいるのは、心地いい。

 でも、前に並ぶには、もう少しだけ勇気がいる。

 “好き”に名前がつく、その少し手前で、息を合わせる必要がある。


 ポケットの中で、指先がスイカの種をひとつ見つけた。

 屋上でうっかりこぼれたやつだ。

 種を掌にのせる。黒い点は、光を飲み込んで静かだ。


「来年、また屋上で食うか」

 独り言は、風に溶ける。

 私は種をポケットに戻した。

 意味なんてない。ただ、持っていたかった。


 シャッターを下ろす。

 金属の音が、今日という一日に幕を引く。

 でも、終わった気はしない。

 むしろ、始まったばかりだ。


「明日」


 声に出す。

 “隣”の合図を、今日もきちんと口にする。


 明日も、空は少し白っぽく霞んで、風鈴が丸い音を鳴らすだろう。

 そして私は、八百屋の最初の声を合図に、いつもの魚を並べる。

 言えない気持ちを胸の奥にしまって――いや、しまいきれないまま、たぶん笑ってしまう。


 それでいい。

 今は、それでいい

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