第13話 夏の終わり、最初の嘘
――汐
八月の終わり。
通りを吹く風の匂いが少し変わった。
湿気が減って、風鈴の音がどこか遠くで響く。
この町の空も、いつの間にか夏の青から、
ほんの少しだけ白っぽい空へと変わっていた。
八百屋の店先から、いつもの声が聞こえる。
「おはようございまーす! 今日のおすすめはトマトとナスー!」
菜々の声。
通りの朝は、あの声がないと始まらない。
私は魚を並べながら、知らずに口の端が上がっていた。
だけど、
笑いながらも、胸の奥が少し重い。
――気づいてしまったからだ。
あの夜。
熱でぼんやりする中で、
菜々が額のタオルを替えてくれて、
手を握ってくれた。
その手の温かさが、まだ指の奥に残っている。
それが“好き”なんだと気づくのに、
時間はかからなかった。
でも、口に出したら、きっと壊れる。
この日常が。
この“隣にいる”関係が。
だから私は、笑って誤魔化す。
それが、今の私の精一杯の防御。
⸻
「おーい、汐ー!」
「ん?」
「氷、また貸して!」
「またか」
「トマト冷やす!」
「昨日も冷やしてたろ」
「今日のは昨日より冷やすの!」
「理屈になってねぇよ」
「いーの、雰囲気!」
「雰囲気で商売すんな」
「汐も魚、雰囲気で売ってるじゃん」
「どんな魚屋だよ!」
相変わらず、声がよく通る。
商店街中に響いてるんじゃないか。
氷袋を渡すとき、
菜々の指先が、私の手に少しだけ触れた。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で呼吸が止まる。
「……ありがと」
「あ、ああ」
慌てて目を逸らす。
菜々の方を見たら、顔が真っ赤になる気がした。
“好き”がバレる気がした。
⸻
――菜々
汐の様子が、なんだか変だ。
風邪が治ってから、
少し距離をとってる気がする。
前はもっと近くに来て、
気づいたら手を伸ばしてきたり、
軽口で頭をぽんと叩いたりしてたのに。
今の汐は、どこか静かだ。
目を合わせる時間も短くて、
何か考え事をしているような顔をしてる。
「ねぇ、汐」
「なに」
「なんか変だよ」
「どこが」
「……全部」
「雑すぎだろ」
「だって!」
笑いながら言い返すけど、
本当はちょっと寂しい。
この数年、
私の毎日は汐とセットでできている。
朝の声も、昼の喧嘩も、
夕方の片づけのときの他愛ない会話も。
そのどれかひとつでも欠けたら、
なんか呼吸のリズムが狂う気がする。
⸻
昼下がり。
陽が少し傾き始めるころ、
風が吹いて、風鈴が鳴った。
「汐ー、これ聞こえる?」
「聞こえるよ」
「いい音だねぇ」
「菜々の声より静かでいい」
「ちょっと!」
「ははは」
笑いながら、氷を削る音が続く。
その音の向こうで、汐の横顔がちらりと見えた。
目の下に少しだけ影がある。
やっぱり、何か隠してる。
⸻
――汐
午後、店の前で子どもたちがラムネを飲んでいた。
カラン、と瓶の音が響く。
ああ、夏の終わりの音だ。
菜々は風鈴の下で、段ボールを片づけている。
指先に汗が光って、
腕を伸ばすたびに、袖がふわっと揺れる。
目が離せなかった。
でも、見続けたら、バレる。
だから私は、
わざと少しそっけなくする。
「おまえ、さっきから動きすぎ」
「だって店じまいしないと!」
「焦らなくてもいいだろ」
「汐が手伝ってくれたら早いのに」
「疲れてんの」
「また嘘」
「嘘じゃねぇ」
「してる!」
あぁ、また見透かされた。
こいつはほんとに、私の心を読むのがうまい。
⸻
――菜々
汐の“嘘”はわかりやすい。
ほんとは優しいのに、
わざとぶっきらぼうにする時がある。
ほんとは気にしてるのに、
「どうでもいい」って言う。
たぶん今も、何か隠してる。
でも、聞けない。
“何を隠してるの?”なんて聞いたら、
きっと今の空気が壊れる。
それが怖くて、
ただ隣で同じ風を感じてる。
⸻
夕方。
風が少し涼しくなって、
空の色が群青に変わっていく。
汐がぽつりと呟いた。
「……夏、終わっちゃうな」
「うん」
「早いな」
「今年、いろんなことあったね」
「……そうだな」
沈黙。
遠くで蝉が、最後の声を張り上げている。
風鈴が一度鳴って、止んだ。
私は、どうしても聞きたくなった。
「ねぇ、汐」
「ん?」
「最近、なんか元気ないよ」
「そんなことない」
「嘘」
「嘘じゃねぇ」
「嘘つくとき、目そらすもん」
「……うるさい」
「ねぇ、なに隠してるの」
「隠してねぇ」
「嘘」
「うるさいって」
その声が、ほんの少しだけ震えていた。
私はそれ以上、追いかけられなかった。
⸻
――汐
“好きだ”なんて言えない。
言葉にしたら、
この通りの風景が全部、違って見えてしまう気がする。
八百屋の緑と赤、魚の青と銀、風鈴の音。
その全部が“特別な思い出”に変わって、
もう戻れなくなる気がして怖い。
菜々を好きになってしまった。
けど、それを伝えたら、
菜々は困るだろう。
笑ってごまかすだろう。
そのあと、どう顔を見ればいいか、わからない。
だから――黙ってる。
それが私の最初の嘘。
⸻
――菜々
夜、八百屋を閉めて、シャッターを下ろす。
風が少し冷たくて、
空には星がいくつか光っていた。
「……汐、風邪ひいた時のほうが素直だったのにな」
ぽつりと呟いて笑う。
でも、笑いながら胸の奥が少し痛んだ。
汐が隠している“なにか”が、
どうしても気になって仕方ない。
もしそれが私のせいなら――
って考えると、怖くなる。
風鈴が、最後にちりん、と鳴った。
それがまるで、
“夏の終わり”と“心の区切り”を告げる音みたいだった。
⸻
――汐
夜風にあたりながら、店の前に立つ。
八百屋の灯りが消えて、
通りが少し暗くなる。
でも、まだ、菜々の声が耳の奥に残っていた。
“ねぇ、なに隠してるの?”
隠してる。
でも、言えない。
言ったら最後、
菜々を“隣”に置けなくなる気がする。
私は、自分の胸の奥に手を当てて、
小さく息を吐いた。
「……ごめん」
その言葉は、夜の風に消えた。
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