第11話 手のひらのぬくもり

――菜々


 翌朝、通りがやけに静かだった。

 いつもなら、氷を砕く音と汐の「おはよう」が聞こえる時間。

 けれど今日は――聞こえない。


「……あれ?」


 気になって魚屋の方をのぞくと、シャッターが半分しか開いていない。

 奥から聞こえてきたのは、かすれた声。


「……あー、菜々か」

「汐!? ちょっと! 顔真っ赤じゃない!」

「大丈夫。ちょっと熱っぽいだけ」

「それを“大丈夫”って言う人が一番大丈夫じゃないの!」


 私はそのままズカズカと魚屋に入っていった。

 汐は作業台の横で座り込んで、氷の袋を頭に乗せていた。


「昨日の雨、あんた傘もささずに動き回ってたでしょ!」

「八百屋の屋根直してたんだよ」

「そんなの後でいいのに!」

「おまえ、トマト守るのに必死だったろ」

「うっ……」


 言い返せなかった。

 そうだった。

 あの時、私のことを助けてくれてた。



 仕方なく、私は汐の代わりに店の掃除と氷の補充をした。

 慣れない作業で汗びっしょりになりながら、

 汐のほうを振り返ると、彼女は少し寝息を立てていた。


 頬が赤くて、息が浅くて、

 額に貼られた氷袋がずれている。


「まったく……ほんと、バカ」


 そう言いながら、私はタオルを濡らして絞り、そっと額に乗せた。

 指先に、少し熱が伝わる。

 それだけで胸がぎゅっとなった。


「いつもは元気なくせに、こういう時だけ弱いんだから……」


 言葉が自然と零れる。

 汐の寝顔を見ていると、

 あの強さの奥にある“女の子”の部分が見える気がした。

 やっぱりこの人、ちゃんと私と同じなんだ。



 夕方。

 汐が目を覚ました。

 窓の外では商店街の灯りがつき始めていて、

 オレンジ色の光が店の中をほんのり照らしている。


「……菜々?」

「起きた?」

「なんでいるの」

「店閉めてきた」

「サボりか」

「看病」

「うるさいマネージャーだな」

「うるさいくらいがちょうどいいでしょ」


 汐は苦笑して、少しだけ起き上がる。

 その瞬間、バランスを崩してよろけた。


「わっ――!」

 思わず腕を伸ばして、私は汐の体を支える。

 手のひらに、熱い。

 心臓が跳ねる。


「……ごめん」

「いいよ」


 それだけの言葉なのに、

 空気が止まったみたいに静かだった。



――汐


 目を開けたら、菜々がいた。

 頬にかかった髪を耳にかけながら、

 台所でおかゆを混ぜてる。


「……なんか、夢みたいだな」

「寝ぼけてる?」

「いや。八百屋に世話されてる魚屋の図がさ」

「そんな図いらない!」

「絵になるよ」

「ならない!」


 菜々がスプーンを突き出してくる。

「ほら、あーん」

「いらねぇ」

「いーから」

「……あーん」

「素直でよろしい」


 口の中に広がるおかゆの味。

 少し塩気が強いけど、なんか安心する。


「うまい」

「ほんと?」

「菜々のくせに」

「病人なんだから悪態つかないで!」


 また笑って、咳が出た。

 菜々があわてて背中をさする。

 その手の温かさが、背中から心臓まで届く。


「……ありがとな」

「え?」

「トマト守ったお礼だろ?」

「そんなの当たり前じゃん」

「おまえがいると、なんか落ち着く」

「な、なにそれ」

「うるさい声、毎朝聞かないと調子狂う」

「もう、それ褒めてるの? けなしてるの?」

「たぶん、褒めてる」


 菜々が笑って、少し目を伏せた。

 その横顔が、夕方の灯りに照らされて、

 やけに綺麗に見えた。



 店の外では、風鈴が鳴った。

 その音を聞きながら、私は小さく呟いた。


「菜々」

「ん?」

「明日も、ちゃんと声出して起こせよ」

「……うん」

「約束な」


 菜々が笑って、頷く。

 指先がふと、私の手の甲に触れた。

 それだけで、熱がまた上がった気がした。

 風邪のせいか、菜々のせいか――たぶん、後者。

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