菜と潮の隣り合い
小肌マグロ
第1話 朝の通り、二つの声
朝の商店街は、まだ眠たそうな光の中にあった。
港から少し離れたこの通りは、潮と土の匂いが半分ずつ混ざっていて、風の向き次第で、魚屋と八百屋のどちらの香りが勝つかが変わる。
今日も、鐘が鳴るより少し早く、二軒のシャッターがほぼ同時に上がった。
「おっはよー! 今日も元気に営業開始〜!」
「うるさい、朝の静けさ壊すなって毎日言ってる」
声を張り上げたのは、**八百屋『菜の音』の娘、青葉菜々(あおば・なな)。
少し小柄で、頬にえくぼが浮かぶ。白い前掛けの胸元に、緑のペンで描いた“菜”の文字。
そしてそれに即座に突っ込みを入れたのは、隣の魚屋『しお風』**の娘、潮汐(うしお・しお)。
短い髪を耳にかけ、腕まくりした姿がまっすぐで、少年みたいに格好いい。
「うるさいって言うほうがうるさい」
「おまえが先に声出してるんだろ」
「お客さん呼び込む努力だよ!」
「努力ってのは静かにコツコツするもんだ」
いつものやり取り。
通りを歩く人たちはもう慣れていて、笑いながら「今日も元気だねぇ」と声をかけて通り過ぎる。
子どもの頃からずっと、こうやって口喧嘩をしている。
幼稚園の送り迎え、小学校の席替え、中学の部活、高校の帰り道。全部が隣同士。
そして今は、お店も隣同士。
お互いの生活は、ほとんど混ざり合っているくせに、肝心な気持ちだけはいつも噛み合わない。
本人たちだけが、それに気づいていない。
⸻
「菜々、そこのキャベツ、また積みすぎ」
「え? 見栄えいいじゃん」
「上の段、風で落ちるって。前も通りがかりの猫が頭ぶつけてただろ」
「……あれは風じゃなくて、汐がくしゃみしたからだと思うけど」
「なんで私のせいになるんだよ」
言い合いながらも、汐は器用に箱を持ち上げ、菜々の代わりに並べ直していく。
無口で不器用なようでいて、こういうところはちゃんと気が回る。
それが、腹立たしい。――いや、腹立たしいと思いたい。
菜々は腕を組みながら、そっぽを向いた。
(なんでそんなに黙って気を利かせるの。言葉にしないと伝わんないのに)
「……ありがと」
「ん?」
「何でもない!」
返事が聞こえる前に、もう野菜を拭くふりをしてごまかす。
いつもそう。素直になれない。
だけど、汐もそれを追及しない。
“分かってる”のか、“気づかないふり”なのか、どっちなのかは分からない。
⸻
昼前、通りの風が少し変わった。
潮の匂いが強くなって、遠くで汽笛が鳴る。
それを聞いていると、菜々はいつも少しだけ、心が静かになる。
隣から聞こえる包丁の音が、まるで波のリズムみたいに整っていて――ふと耳を澄ませてしまう。
「……汐、今日の魚、なに?」
「カツオ。脂のりがいい」
「へぇ、夏だね」
「おまえの店のトマトも、色いいな」
「ふふん。陽のあたりが違うからね」
「隣なのに?」
「微妙な角度の違いがあるの。人生みたいに」
菜々の小さな冗談に、汐はほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、菜々は胸の奥が不意にちくりとした。
それを感じた瞬間、自分でも照れくさくなって、あわてて話題を変える。
「で、そのカツオ、味見させて」
「だめ。生だし」
「お客さん用だから?」
「……うん。あと、あんまり生魚に慣れてないだろ、おまえ」
「ばかにしてる?」
「心配してる」
その一言が、ずるかった。
菜々は言葉を失って、視線を逸らした。
(“心配してる”って、簡単に言うんだから。ずるい。そんな顔、しないでよ)
⸻
午後になると、商店街は少しだけ賑わう。
買い物帰りの主婦や、放課後の子どもたちが通りを行き交い、猫のトロが魚屋の前で寝転んでいる。
菜々はトマトのかごを持って通りに出た。
汐はその横で、氷を詰め替えている。
「なあ、菜々」
「なに?」
「おまえ、昔から変わらないよな」
「褒めてる? けなしてる?」
「褒めてる」
「……へ、へぇ。どうも」
声が小さくなった自分に、菜々は腹を立てた。
(なんであたし、普通に返せないの)
だけど汐は、何事もなかったように魚を並べ直している。
肩越しに見える横顔が、あまりにもまっすぐで。
その姿が、どうしてか少し遠く見えた。
⸻
夕暮れ。
商店街の灯りがぽつぽつと灯る。
菜々は閉店の支度をしながら、ふと汐の方を見た。
もう店は片付いていて、氷を流す音が聞こえる。
それが終わると、汐は軽く伸びをして、空を見上げた。
まるで潮風の中で溶けるような姿だった。
「……かっこつけちゃってさ」
誰にも聞こえない小声で、菜々はつぶやく。
だけど、その口元はほんの少し、笑っていた。
ふたりの一日は、また同じように終わっていく。
喧嘩して、笑って、また喧嘩して。
でもその繰り返しの中で、少しずつ何かが変わっていくことを、まだふたりは知らない。
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