第2話 ちいさな町の、いちばん近い隣



 この町の朝は、いつだって少し早い。

 港の汽笛と一緒にカモメが鳴いて、商店街のシャッターが一枚ずつ上がる。

 その音の中で、いちばん元気な声が響くのは、昔から決まっていた。


「おはよー! きょうもピーマンきれいー!」


 小さな体で、段ボール箱の上に立っている少女がいた。

 髪は肩のあたりで結んで、頬にちょっと土がついている。

 八百屋の娘、青葉菜々(あおば・なな)。

 このころからもう、「声がでかい」と町中で有名だった。


 隣の魚屋から、水のはねる音と一緒に別の声が返ってくる。


「おまえの声で魚が逃げる!」

「逃げないもん! 魚はもう死んでるでしょ!」

「……そういう問題じゃない!」


 そう怒っていたのは、魚屋の娘、潮汐(うしお・しお)。

 まだ髪を短く切る前の、丸顔の小学生。

 けれど口調だけは、その頃からもう“男前”だった。



 ふたりの家は、まさに壁一枚の隣。

 小さい頃はその壁越しに「おやすみー」「おはよー」を言い合うのが日課だった。

 壁に耳をくっつけると、相手の布団がきゅっと動く音がする。

 それを聞くと、なぜだか安心して眠れた。



 幼稚園の運動会の日。

 菜々はリレーで転んで泣いた。

 砂まみれの手を見て、うわーんと声を上げると、真っ先に駆け寄ってきたのが汐だった。


「立て、菜々」

「いたい……」

「ほら、手貸せ」


 汐の手は、魚を触るからか、少しひんやりしていて気持ちよかった。

 手を引かれて立ち上がった瞬間、涙が止まった。

 なのに、ありがとうと言えなくて、代わりに――


「……汐の顔、砂ついてる」

「え、どこ!」

「ほらここー!」

 と、わざと指で押した。


「おまえなあ!」

「ふふっ」


 泣いたことなんて、すぐに忘れていた。

 けれど汐の手の温度だけは、ちゃんと覚えている。



 小学校にあがると、席はいつも隣。

 教師が変えても、なぜか名簿順でいつも並んでしまう。

 クラスの誰かが「夫婦席」ってからかって、菜々は真っ赤になって叫んだ。


「ちがう! こんなのただの隣!」

 すると汐がぼそっと言った。

「“ただの”って言うなよ」


 その言葉の意味を、菜々はまだ分からなかった。

 でも、胸がぽっと熱くなった。



 放課後の帰り道。

 道端に咲くタンポポを摘みながら、菜々はいつものように汐に話しかける。


「ねぇ汐、将来なにになりたい?」

「魚屋」

「お父さんと一緒?」

「うん。魚、かっこいいから」

「へぇ……じゃあ、私は八百屋かな」

「真似?」

「ちがうよ! 八百屋のほうが可愛いし!」

「魚屋のが強い」

「八百屋のが優しい!」

「強い!」

「優しい!」

 口げんかは、もうこのころから習慣だった。


 けれど、どんなに言い合っても、帰り道はいつも一緒。

 ランドセルを並べて歩く姿を、近所の人たちは笑って見ていた。



 ある年の夏休み、祭りの夜。

 町の神社の境内で、屋台の明かりが並ぶ。

 菜々はりんご飴を持って、金魚すくいの前で夢中になっていた。

 その横で汐は、焼きイカをかじりながら待っている。


「菜々、金魚すくい下手すぎ」

「うるさい、見てなさいよ!」

「もう三匹逃げた」

「うぅ……!」


 すくうたびに紙が破れ、金魚がするりと逃げる。

 とうとう菜々が泣きそうになったとき、汐が横からしゃがみこんだ。


「貸せ」

「え?」

「代わりにやる」

「いや、いいよ……」

「ほら」


 すくった瞬間、金魚が一匹、汐の手の中に光った。

 それを、当たり前みたいに菜々のカップへ入れる。


「……あげる」

「なんで」

「おまえ、泣くと面倒だから」

「むっ……!」


 言葉は乱暴だったけど、菜々はわかっていた。

 汐は照れてるだけだって。



 夏休みの終わり、金魚は小さな瓶の中で元気に泳いでいた。

 菜々はそれを見ながら、ふとつぶやく。

「……汐の金魚、きれい」


 その言葉を、誰にも聞かれないように、口の中で小さく溶かした。

 そして、その“きれい”という感情が、これから何になるのかを、

 まだこのときの彼女は知らない。

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