『月に一度のカフェ』
るいす
第1話:満月の夜のカフェ
会社を辞めた翌週、佐伯紗耶は目的もなく街を歩いていた。
夜の港町は潮の匂いが濃く、空には丸い満月が浮かんでいる。
いつの間にか、細い路地に迷い込んでいた。
古い倉庫の間を抜けると、ふと、ひとつだけ灯りが見えた。
――「カフェ・ルミナ」。
そう書かれた古い木の看板。
周囲の建物がすべて暗い中、その店だけが、まるで月明かりに呼ばれるように暖かく光っていた。
ドアを押すと、カラン、と鈴が鳴った。
中には柔らかなジャズが流れ、テーブルが三つだけ。
カウンターの奥で、黒いエプロンをした男性が一人、ゆっくりとカップを磨いていた。
「いらっしゃいませ」
静かな声だった。
年齢は三十代半ばくらい。穏やかな笑みと、どこか人間離れした落ち着き。
「ここ、やってるんですね……」
「ええ、今夜は満月ですから」
「満月?」
「この店は、月に一度だけ開くんです」
冗談かと思ったが、彼の表情は真剣だった。
「どうぞ、お好きな席へ。今夜は、あなたのために開いていますから」
意味のわからない言葉だったが、なぜか心が少し温かくなった。
席に座ると、カウンター越しに差し出されたカップから、ほのかな香りが立ちのぼる。
「今夜のおすすめは、“ルミナ・ブレンド”。心を落ち着けたい人向けです」
紗耶は小さく笑った。
「……そんなの、どうしてわかるんですか」
「顔に書いてあります」
口に含むと、少し甘く、深い味だった。
心の中のざわめきが、少しずつ静かになっていく。
カップを見つめていると、久遠(くおん)と名乗ったマスターが、静かに尋ねた。
「今夜は、どんな風に過ごしたいですか?」
「え?」
「この店では、誰も急がなくていいんです。話しても、黙っても」
その優しい声に、抑えていた言葉が溢れそうになった。
「……実は、今日、会社を辞めたんです」
「そうでしたか」
「もう限界で。でも、辞めても何も変わらなくて。
誰も私のことなんて気にしてなかったんじゃないかって……」
紗耶は笑おうとしたが、声が震えた。
久遠はカウンター越しに、静かにうなずいた。
「人は、静けさの中で初めて自分の声を聞くものです」
「……そんな格言みたいなこと、よく言えますね」
「この店に来る人は、みんな似たような夜を歩いてきますから」
紗耶はカップを見つめた。
表面に映った月が、波のように揺れている。
ふと、言葉が漏れた。
「……私、友だちと喧嘩したまま、もう話せなくなっちゃって」
「話せなくなった?」
「事故で、突然。最後に言った言葉が“もう知らない”だったんです」
沈黙が落ちた。
久遠はしばらく紗耶を見つめ、やがて言った。
「後悔は、時間を止めてしまいます。でも、思い出は、あなたの中でまだ息をしています」
その言葉に、胸の奥が小さく疼いた。
気づけば、外の風が止み、店内に満月の光が差し込んでいた。
帰るころには、心の中が少しだけ軽くなっていた。
外に出て振り返ると、カフェの灯りが海風に揺れている。
次に来るとき、この店はまだあるのだろうか――。
そんなことを考えながら、紗耶は夜の港を歩き出した。
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