き り ひ と
板倉恭司
始まり
悲惨な光景だった。
ここは崖沿いの道路であり、片側にはガードレールが設置されている。もう片方には、森林が広がっていた。交通量が少ないせいか、外灯が少なく視界は悪い。
そして崖下には、車がひっくり返っている。その横には、ガードレールの一部が転がっていた。車がガードレールを突き破り、共に落下したのだろう。道路から崖下までは二十メートルはあり、車の破損もひどい。
空からは大粒の雨が降っており、道路は濡れている。この事故を生んだ要因のひとつであった。
車の中には、ふたりの大人とひとりの幼子が乗っていた。
幼子の
前の席には、両親の姿があった。父は運転席で無防備に横たわり、母は助手席で口を開けていた。どちらも、ピクリとも動かない。
霧人の視線は、両親の体に何匹もの虫がいるのを捉えた。追い払いたい。しかし、体が言うことを聞いてくれなかった。
泣きたかった。だが、涙は出ない。声も出ない。体は動かず、父と母の体には虫がたかっていく──
神さま、お願いです。
パパとママを助けてください。
そしたら、もう悪いことはしません。
何でも言うことを聞きます。
霧人は、必死で祈り続けた。もう、頼れるものは神さましかいない。
だが、助けは来なかった。その時、神さまは忙しくて仕方なかったのだろう。霧人の祈りに、応えてくれる気配はなかった。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
霧人の意識も、徐々に薄れていく。このままだと、自分は死ぬのだろう……漠然と、そう感じていた。
それなら仕方ない。たぶん、両親と一緒に天国に行けるはずだ。何も悪いことをしていないのに、こんな死に方をした……あまりにも理不尽だ。
だったら、必ず天国に行ける。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは白い壁と白衣を着た男女だった。彼らは、笑顔で霧人に語りかける。
「安心しなさい。君は助かったんだよ」
霧人は、虚ろな表情で頷いた。
安心などできなかった。できるはずがない。全ての感情が消え失せ、呆然となっていた。
目の前で両親が死んだ。なのに、自分は生きている。ただ、目の前でパパとママの死を見ていることしかできなかった。
助けたかった。だが、何もできなかった。たかっている虫すら、払うことができなかった。
もっと強ければ、動くことができれば、両親を助けられたはずだ。
なのに、自分は何もできなかった──
僕のせいだ。
僕のせいで、パパとママが死んだ。
僕は、何もできなかった。
僕ひとりだけ、生き延びてしまった。
◆◆◆
同じ頃、繁華街の路地裏には小さな影が動いていた。
薄暗いゴミ箱の前で、ひとりの幼子がしゃがみ込んでいた。小さな手で紙くずやプラスチックケースなどをかき分け、鋭い目で欲しいものを探す。
冷たい雨と空気が容赦なく体を襲うが、幼子はそれを無視して作業を続けている。その様は、餌を漁る獣そのものであった。
この幼子は女の子である。だが、一目でそうとわかる者はいないであろう。髪と顔には、様々な種類の汚れが付着しており、それは雨でも洗い落とせない。汚らしい服を着ており、可愛げなど微塵も感じられなかった。匂いもひどく、慈悲を説く僧侶や神父ですら顔をしかめるだろう。
彼女に両親はなく、名前すらない。幼くして、街の片隅に捨てられた。それから今まで、必死で生き抜いてきたのだ。
誰も助けてくれない──
そう、彼女にご飯を食べさせてくれる者などいない。褒めてくれる者も、悲しみを癒やしてくれる者もいない。飢えも乾きも悲しみも恐怖も、全て自分の力で処理するしかないことを、幼くして理解していた。
「ないか」
小さな声が漏れる。しかし、同年代の子供のように、癇癪を起こしたり泣いたりはしない。そんな時間があったら、別のゴミ箱を探す。
指先は、泥やゴミで真っ黒になっていた。しかし、彼女はお構いなしに次のゴミ箱へと移る。その目に、子供らしさなどなかった。あるのは、冷静な観察力と、生き抜くための計算だけだった。
たまに通りかかる者は、最初はギョッとする。次に、嫌悪の視線を向けてくる。しかし、彼女はそれを無視した。そんなものに反応したところで、腹は膨れない。
もっとも、注意は怠らなかった。周囲の世界に対する、精密なサバイバルのセンサーを働かせつつゴミ箱を漁っていた。
日付けが変わる頃、少女は戦利品の入った袋を背負い、路地の奥へと姿を消す。住んでいるのは工場の跡地だ。持ち主が夜逃げしたのか、機械や机などが放置されている。
中は暗く、暖かい場所ではない。それでも、壁と屋根があり雨をしのげる。さらに、隠れる場所も多い。少女にとって、他人は敵だ。力のない少女が敵から逃れるには、格好の隠れ家である。
倉庫の事務室で、少女は戦利品をチェックしていた。匂いを嗅ぎつつ、慎重に食べていく。病院に行けない彼女にとって、腐ったものを食べるのは命取りだ。
室内には、机や棚などが置かれている。さらに、壁にはポスターが貼られていた。モデルらしき女性が優しく微笑んでおり、「支援を必要としている子供がいます。あなたの優しさを分けてあげてください」と書かれていた。ボランティア団体のものだろう。
皮肉な光景であった。ここにいる少女は、何も与えられていない。名前すら付けてもらえなかった。他人から笑顔を向けられた記憶はないし、明日など考えたこともない。ただ、今この瞬間を必死で生きるだけだ。
そう、この少女は「支援が必要」という言葉が陳腐に思える環境で生きてきた。彼女にとって、生きることは戦いなのだ。
◆◆◆
それから十年後──
「ほら、お食べ。お腹いっぱい食べな」
その声の主は阿部霧人だ。優しい表情を浮かべて、床にしゃがみこんでいる。高校の制服姿で、横にはカバンが置かれていた。
視線の先にいるのは、一匹の野良猫だ。痩せた三毛猫で、霧人の手の届かない場所でパンくずを食べていた。
両親を亡くした霧人は、児童養護施設に預けられた。
小学校から中学校そして高校へと進学したものの、彼のまとう空気は暗く異様なものだった。いつもひとりで行動しており、友だちなどという者は存在しなかった。かつては、イジメられていた期間もあった。
そんな霧人にも、心休まる時間はあった。それが、この廃墟にて野良猫に餌をあげている時だ。
霧人が今いるのは、病院の跡地である。
かつては国内でも有数の大病院であった。しかし医療ミス、その隠蔽、さらに経営者の贈収賄というスキャンダルが相次ぎ……病院は閉鎖された。その後、病院再開の話もあったのだが頓挫した。取り壊すにも莫大な費用がかかる。そのため、現在に至るまで建物自体は残されていた。
この廃墟は、野良猫たちの溜まり場でもあった。中に入れば、必ず一匹は出会える。そのため、ここは霧人のお気に入りの場所であった。
今も、霧人はパンをあげている。彼の通う高校には給食がある。そこで出たパンやおかずの一部を食べずにとっておき、猫にあげていた。夜の八時、猫にパンをあげるため、わざわざここまで来たのだ。
そんな平和な時間を過ごしていた霧人だったが、彼の人生を根こそぎ狂わせる事件が、すぐそばまで迫っていた。
突然、猫の耳がピンと立った。直後、脱兎のような勢いで物陰に隠れてしまう。
「おい、どうしたんだよ?」
尋ねた霧人だったが、直後に何が起きたのか理解する。
まず車の入ってくる音がした。直後、ドアが開く音。そして、恐ろしい罵声──
「おいガキ! さっさと出ろやゴラァ!」
いったい何が起きているのか。霧人は、足音を立てずに進み、窓から外を覗いてみた。
そこには車が止まっていた。ライトはつけっぱなしであり、起きている出来事を照らし出していた。
車のすぐ近くでは、ひとりの少年が倒れている。ここからでは、顔はよく見えない。ただ、手錠をかけられているようだ。
その少年を囲んでいるのは、三人のスーツ姿の男である。うちふたりは二十代くらいか。片方は背が高く、いかつい体つきである。もう片方はヘラヘラした態度だ。
残るひとりは三十代から四十代に見え、ひときわ凶悪そうな面構えをしていた。他のふたりとは、明らかに格が違う雰囲気だ。
その三十代の男が、まず口を開く。
「俺はな、
言いながら、浜本と名乗った男はしゃがみこんだ。少年の髪をつかみ、顔を上げさせる。
「兄ちゃん、凄い有名らしいな。名前は、
そう言うと、浜本は笑った。後ろにいるふたりも、つられて笑う。
そんな光景を、霧人は震えながら見ていた。これから、何が始まるのか……ただただ、嫌な予感しかしない。
そんな霧人の存在に気づかず、浜本は話を続ける。
「まあ、俺たちゃヤクザだ。ガキの喧嘩に、いちいち首つっこむ気はなかったんだよ。兄ちゃんもな、ガキの喧嘩で済ませときゃ良かったんだ」
そこで、浜本は上条の髪をつかんでいた手を離した。上条は、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。
「ところが、だ。兄ちゃんは一昨日、ウチの売人をやってくれたそうだな。なあ
浜本に話を振られ、頷いたのは背の高い方だ。
「はい、そうです。シャブ捌かせてた
すると、浜本は大袈裟に顔をしかめた。
「これはな、非常にマズいんだよ。岡野はな、ウチの構成員なんだわ。その構成員が、兄ちゃんみたいな素人にやられたとなると……ウチの面子は丸潰れなんだよ」
言った直後、浜本の拳が飛ぶ。肉を打つ音、さらに呻き声が聞こえてきた。
霧人は、思わず顔をしかめる。もう、やめて欲しかった。人の傷つく姿は見たくない。
しかし、その思いは叶わないようだった。浜本は、なおも語り続ける。
「しかも、兄ちゃんは岡野の持ってたバッグを池に放り投げたそうだな。あん中には、シャブが入ってたんだよ。そうだろ
その問いに答えたのは、軽薄そうな男だ。
「はい。岡野の話だと、百グラム近くのシャブが入っていたそうです」
「そうなんだよ。百グラムのシャブが、兄ちゃんのおかげでパーになった。高橋、いくらの損害だ?」
「そうですね……シャブに混ぜ物して、かさ増しすれば、グラム五万くらいで捌けたと思います。つまり五百万ですね」
そこで、浜本は立ち上がる。しかし、視線は依然として上条に向けられたままだ。
「兄ちゃんよぉ、五百万どうしてくれんだよ。なあ、どうしてくれんだ?」
言った直後、浜本は蹴りを入れる。ウグゥ、という呻き声が聞こえてきた。
霧人は、思わず顔を目を逸らせた。だが、浜本の話はまだ続く。
「それだけじゃねえ。俺らはヤクザなんだよ。ヤクザはな、ナメられちゃ商売にならねえんだわ。お前みたいなのに、構成員が病院送りにされた挙げ句に百グラムのシャブをパーにされた。俺たちの業界じゃ、こんなことされて黙ってたら商売に差し支える。可愛そうだけどよ、兄ちゃんには消えてもらわなきゃならねえ」
消える……つまり、殺すということだ。このままでは、あの上条という少年は死んでしまう。
また、目の前で人が死ぬのか?
僕は、何もできないのか?
霧人の中に、得体のしれない感情が湧き上がっていく。だが、状況はさらに悪化していくようだった。
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