4話
僕は今日も寝不足だった。昨日は月食に夢中になってしまって、結局いつも通り寝られなかったのだ。睡眠が足りずにぼーっとする頭で授業を受ける。ノートを取ろうとしても、教師の言うことがうまく頭に入ってこない。内容を掴もうとしても、霧のように実体がないように感じた。
一時間目の授業を終えて、それ以上の疲労感があった。僕は何とはなしに教室の外に出て、深呼吸を一つした。窓の外に視線をやる。ふとテニスコートの前を通り過ぎる人影を見た。あ、と声が出そうになった。天城美空だった。
僕は寝不足だったからだろうか。無意識のうちに彼女のことを追っていた。階段を駆け下りて、テニスコートに向かう。しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。辺りを見渡す。移動教室で使う特別教室棟の方に、女子生徒の後姿があった。あれか。僕は速足で近づいた。決して向こうには悟られないように。それでいて見失わないように。彼女を追って特別教室棟の階段を四階まで登ったところで、ストーカー紛いのことを自分がしているのに気が付いて足を止めた。天城さんは五階へ上がっていく。僕は考えるのをやめて再びその後を追った。この棟は五階建てで、天城さんが向かったのは五階で確定した。五階には何があっただろうか。確か、音楽室と化学実験室。それと化学準備室だったか。音楽を選択していない僕はこの階に頻繁に来ることはほとんどない。化学実験室も授業ではほとんど使われていなかった。
五階に上がると、一番奥の教室に入っていくスカートと生白い脚が見えた。その教室には『天文部』という看板が掛けられていた。僕は納得がいった。事実上の休部となっている天文部の部室であれば、授業時間であっても人が来ることはない。保健室に頻繁に訪れているだろう彼女からしたら、絶好のサボりスポットなわけだ。
僕は天文部の部室を開けた。ずいぶんと久々にここを訪れる。入部して以来だから、一年半ぶりだろうか。そんなことを思って目隠し代わりになっているスチールの棚を避けて奥へ進むと、ばっちりと天城美空と目が合った。
「きゃああああああああ」
耳をつんざく悲鳴。二時間目の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。
悲鳴を上げたあと半狂乱になった彼女を何とか落ち着かせ、僕は弁明することになった。
「……最悪」
そう言われて、僕は申し訳ないことをした、と胸が苦しくなった。自分の興味本位だけで彼女を怖い目に合わせてしまった。
「すみません、驚かせてしまって」
僕は素直に詫びた。
「……」
「授業中なのにこんなところに来てるのが気になって……」
言い訳がましく、僕はそんなことを口走った。
「……君だってそうじゃん」
彼女の指摘に時計を見た。二時間目の授業が始まる時間を十分は過ぎていた。どのみち、集中はできないのだ。僕は二時間目に出ることは諦めた。
「……君は毎回こうだよね。驚かされてばっかり」
そう言われて、僕は一昨日のことを思い出した。その時も暗がりから突然現れた僕が驚かせてしまったのだっけ。
「……礼二くん、だっけ。謝罪が済んだらさっさと出てってよ。わかったでしょ、私はこんなとこで授業をサボる不良ですよう」
天城さんはホコリを被ったソファの上で僕に背を向けた。
「それでいうと僕も不良になっちゃうんですけど……」
「……うるさいなあ! 私も君も不良! それでいいでしょ! 天文部でもない君にとやかく言われる筋合いはない!」
怒声を上げた天城美空はその苛立ちを隠そうともせずに、ソファをぼふんと叩いた。ホコリが舞い上がって天城美空はむせた。こんなに棘のある人だったかと僕は記憶の中の彼女と照らし合わせてみる。記憶の中の彼女はもっとしおらしかったはずだ。
「……あの、僕、天文部なんですけど……」
とやかく言うつもりはないが。と、心の中で付け足す。
「……は?」
「部長です」
形式上は、であるが。
「……はあ?」
天城美空は訝し気な表情でこちらに振り向いた。充血した眼で睨まれて、僕は一瞬たじろいだ。しかし事実なのだ。
「……だったらなんなの。どうせろくな活動もしてないでしょ」
天城美空は開き直った。実際その通りであるから何も言い返せないし、そもそも、天城美空がここでサボっていようが僕は構わないのだ。僕は僕の好奇心を満たしたかっただけだし、僕だってこうして授業をトんでいるのだ。天城美空に説教垂れる資格なんて持ち合わせていない。
「よければ、天城先輩の話を聞かせてもらえませんか」
天城美空が私欲でこの部室を使うように、僕も私欲を満たすことにした。この人への興味は尽きなかった。
「……はあ? きもい。出てって」
再び背中を向けた天城美空は強い口調で拒絶した。
「一昨日、持っていた縄で、何をしようとしてたんですか」
「……」
小さく丸まった背中は無言だった。
「ここに来てること言いつけて施錠してもらいますよ……」
「はあ?! 脅すとかサイテー!」
ソファに寝そべったまま、ぐるりとこちらに向いた天城美空のスカートがめくれ上がり、彼女の白い太ももが覗いた。
「……はぁ……」
彼女はひと際大きなため息をつくと、ソファに座り直しスカートを整えた。
「想像通りよ」投げやりに彼女は言う。
「自殺よ。自殺。死にたいの私は。これで満足?」
予想通りの答えに、僕は拍子抜けだった。
「自殺なんて、しない方がいいですよ」
「はぁ?! るっさいわねぇ!」
関係ないでしょ。と彼女はぽつりと言って窓の方を見た。そりゃあ、死にたくなるほどつらいことだってあるだろうが、それで簡単に命を投げ出してしまうのは、なんと言うか、ひどく勿体ない気がするのだ。
――物憂げに窓の外を眺めるこの少女は、一体何を背負っているのだろうか。
この部屋は五階ということもあって、街並みを一望できた。秋晴れの下に、物静かな街があった。
「なんで死のうと思うんですか?」
僕は天城美空に尋ねた。
「なんでなんでなんでって、君は二歳児かなんかなの? 君には関係のないことでしょ? 普通自殺しようとする人間にそんなこと聞く? デリカシーってもんがなさすぎ。モテないでしょ、君」
矢継ぎ早にそう言われて、僕は何も言い返せなかった。開けられた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
「……生きててよかったなんて思うこと、ないじゃない」
窓の方を見て、そう呟く彼女は瞑目する。
「学校に行けなくなって、たまに教室に入れば腫物扱い。行かなきゃ行かないで世間からは落ちこぼれ扱い。私の居場所なんてどこにもないでしょ。そんなんで生きていきたいって思う人間なんていないわよ」
その独白は秋の風に流されていく。
「なんで――」
そう言いかけたところで、またか、と言う顔で彼女は僕を見た。僕はとっさに口を噤んでしまった。――なんで学校に来れなくなったんですか、そう聞き直そうとしたところで、二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「……はい、帰った帰った」
そのチャイムを聞いた天城美空は、シッシッ、と手で僕を追い払うようなジェスチャーをした。これ以上は僕と会話するつもりはないようだった。僕に三時間目までサボる度胸が備わっていれば、このまま粘ってみるのもありかと思ったが、僕にそんな度胸はないので、すごすごと退散した。
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