3話
次の日は授業中もずっとあの少女のことを考えていた。そのせいで集中できていなかったからだろうか。廊下のなんでもないところでつまずいて、さらに運悪くロッカーの角にしたたかに頭をぶつけて、保健室に行く羽目になってしまった。
「失礼します」
そう言ってドアを開けた僕の顔にはまだ血がべっとりとついて、中にいた保険医が目を見開いた。
「どうしたの?!」
若い保険医がすぐさま飛んできて、患部に触らないようにしながら僕の顔を覗き込む。
「転んでロッカーに突っ込みました」
「そうなのね……。とりあえず止血しましょうか。……そこに座って?」
保険医に促されるままパイプ椅子に座り、僕の額にガーゼを当てる保険医の白衣のボタンを眺める。
白衣を押し上げる隆起への興奮を抑えるため、僕は目の前の白衣から目をそらすことにした。
ガーゼが当てられて少し痛む頭を気にして身じろぐと、保険医は無理やり頭を掴んで彼女の正面に持って行く。保険医や医者の意外な無理やりさはどこも一緒なのだろうか。足首を捻挫して整体に行った時も、僕が動くと力ずくで位置を直された記憶がある。
頭を掴まれてしまって、目だけで保健室の中を眺める。保健室はワケアリの生徒を匿う。こともあるからだろうか。柔らかな色のカーテンや、パーテーションがこれでもかと置かれていた。きっと個人のスペースを確保するためだろう。もしかしたら、女子生徒が着替えるために使ったりもするかもしれない。そんなことをつらつらと考えていると、一番奥のベッドの周りのカーテンが、がさりと動いた。奥のベッドだけカーテンが閉められていて、下の隙間から脱がれた上履きも見える。先客が休んでいたらしい。上履きの色からして三年生であることはわかった。
「マヤちゃん、誰か来たの?」
女の声だった。上履きの大きさからしても驚きはなかった。しかし、保険医にため口はおろか――保険はその親しみやすさと若さからため口を使われることも少なくはない――下の名前を気安く呼んでいることから、カーテンの奥の彼女が頻繁にここを訪れていることは容易に想像できた。
「美空ちゃん、起きちゃった? 今ね、けが人の手当て中」
「んー……」
再びガサガサと音がして、カーテンの奥は静かになった。
僕は驚いていた。妙に規模絵がある声に美空という名前、あの少女だまさか同じ。しかし僕は動けずにいた。昨日、名前を聞いただけの関係性で声をかけように躊躇われてしまう。少しでも身動きを取ろうとすると頭の位置を調整してくる保険医の存在も相まって、動く気にもなれなかった。
音のしなくなったカーテンの向こうの彼女は寝てしまったのだろうか。
「はい、おしまい、血も止まったみたいだし、大したこと無さそうね。でも頭の怪我だから念のため病院は行った方がいいわよ。親御さんに連絡しようか?」
僕は天城美空のことが気になってしかたがなかった。保険医が何か言っていても、少しも頭に入ってこない。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、はい。えっと、早退ですか?」
ようやく僕は我に返った。意識が保険の方に戻って、保険医の胸を意識しないようにしていたのを思い出した。それを思い出した瞬間に耳が熱くなるのが分かる。
「頭痛かったりはしない? 違和感があるなら、すぐ病院に行ったほうがいいと思うけど、様子見で休んでく?」
「あ、はい。じゃあそうします」
少しでも彼女のことが知りたくて、僕は気付いたら頷いていた。接触できる可能性を少しでも上げたかった。
僕は保険医に指示されるままベッドにもぐりこんだ。天城美空が居るベッドとは反対側のベッドだった。
消毒臭い毛布をかぶってスマホを開く。検索のタブの下には、僕にサジェストされたネットニュースやウェブページが転がっている。そのうちの一つを適当にタップして眺める。そのページには今日の星空の様子が取り上げられている。そうだ。今日は皆既月食の日だった。昨日のニュースで天気のお姉さんが紹介していたのを思い出した。夜、家に帰ったらベランダから眺めよう。
そんなことを考えながらネットサーフィンをしている間に、だんだんと眠気が来て、僕はそれに抗わずに素直に目を閉じることにした。
どれほど寝ていただろうか。僕は消毒臭いリネンを剥がして身を起こした。カーテンの向こうは静かだった。遠くから人の声がするのは保健室の外からだろうか。
僕は上履きを履いてベッドから立ち上がる。ベッドが軋んで音を上げた。それは静かな保健室によく響いた。
ベッドの脇のカーテンを開けると、向こうの壁に掛けられた時計が目に入る。目の悪い僕は手元にあるはずのスマホを探して枕の下から見つけると時間を確認した。スマホを持ち上げればパッと画面が付いて時間が表示される。もう下校時刻を過ぎていた。外から聞こえて来る人の声にも納得がいった。
部活の声出しを意識の端で聞き流しながら、保健室の外に出て廊下を歩く。授業が終わった学校の廊下も保健室同様に静かだった。窓の外ではテニス部がサーブの練習をしていた。教室に入るとなれない静けさに包まれていて、あかりについていないそこ。は妙に薄暗い黒板と反対側にあるロッカーから荷物を取り出して背中に背負った。
ペラペラの上履きで廊下を歩く。普段からかかとを潰して履いているから、かかと周りがおぼつかない。パカパカと不安定な上履きを昇降口で履き替えてスニーカーを履く。いつもなら誰よりも早く帰路につく僕だったが、帰宅部よりも後、部活がある者よりも早いという中途半端な時間に帰るというのは、変な新鮮味があった。
コンクリートを踏みしめると、体が強い分と軽い感じがした。保健室で良く寝れたのが大きいのだろうか。すっきりした頭で歩く通学路はまた普段とは違うようにも見える。
風は冷たいくらいだった。秋もそろそろ終わりを迎え、長い冬がやってくる。季節ばかりが廻り、自分は置いていかれているようにも感じる。
バス停にバスが来た。学生の帰宅にも社会人の帰宅にも中途半端な時間だからか、車内はいつもより空いていた。
いつも降車するバス停が近づいてきて、バスの運転手の声と車内アナウンスが被って聞こえた。負の加速度とともにバスはとまる。体が前につんのめるその勢いを利用して、席から立ち上がった。運転手に定期券を見せて、その四角いバスから降りた。今は何でもない空を見上げる。この後数時間後には、平然と浮かぶ月が赤く染まると考えると、なんだか不思議な気分になった。月食のことを考えたら、自然と速足になった。
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