第14話 昼の約束

週末の朝。

雨上がりの空は淡く光り、雲の輪郭がやわらかかった。

綾は診療所を閉め、

白衣の代わりに麻のブラウスと藍のスカートを身に着ける。

鏡の中の自分が、どこか別の人みたいに見えた。


「……休日の顔って、こんなだったかしら。」


そんな独り言をこぼしながら外に出ると、

通りの先で瞬が手を振っていた。

白いシャツの袖をまくり、風に髪を揺らしている。

朝日を浴びたその姿は、

屋台の火の前で見ていた時よりもずっと若く見えた。


「綾さん! おはようございます!」

「おはよう。朝から元気ね。」

「市場は朝がいちばん活きてる時間ですから。」

「医者も同じよ。朝は患者が一番多いの。」

「じゃあどっちの朝が忙しいか、今度比べましょうか。」

「ふふ、あなた勝負好きね。」


笑いながら歩き出す。

道沿いの花壇には露をまとった撫子の花が咲き、

風の匂いにすだちのような清涼感が混じっていた。


市場に入ると、

焼き秋刀魚の香りと人々の呼び声が一斉に押し寄せた。

瞬は慣れた足取りで魚屋の間を抜け、

目を輝かせながら立ち止まった。


「見てください、この秋刀魚!」

氷の上で光る銀鱗。

瞬が指先で尾を押さえ、そっと笑う。

「昨日の夜、海から上がったばかりですね。

 身がまだ張ってる。」

「あなた、本当に魚を“診る”のが上手ね。」

「綾さんも人を診るプロじゃないですか。」

「でも、あなたの診察のほうが楽しそう。」

「そりゃあ患者さんがみんな美味しそうですから。」

「……それ、だいぶ危ない発言よ?」

瞬が慌てて手を振り、綾は堪えきれず笑った。


次に訪れた八百屋では、

籠いっぱいの無花果が並んでいた。

「この無花果、熟れすぎる直前がいいんですよ。」

「見ただけでわかるの?」

「ええ。皮の張り方と、

 甘い香りがまだ“我慢してる”感じ。」

「あなた、それ説明になってないわ。」

「でも、そういう感覚で料理するんです。」


綾は少し考えてから、

無花果を一つ手に取った。

「……たしかに、“我慢してる香り”ね。」

「でしょう? 熟れる寸前が一番美味しいんです。」

「人間もそうかもね。」

「え?」

「恋も仕事も。

 手に入る少し前がいちばん綺麗に見えるのよ。」


一瞬、周囲の喧騒が遠のいた。

瞬は返す言葉を探しながら、

頬を赤くして視線を落とした。

「……じゃあ、綾さんは今がいちばん綺麗なんですね。」

「そう言っておけば間違いないって思ってるでしょ。」

「ち、違います! 本気で言ってます!」

「ふふ、冗談よ。」


綾が笑うと、

瞬はほっと息を吐きながら頭をかいた。


市場を抜けたあと、

ふたりは近くの小さな喫茶店に入った。

木の引き戸を開けると、

焙じ茶の香りがふわりと広がる。


窓際の席に腰を下ろすと、

店主が水の入ったグラスを置いた。

中には、輪切りのすだちが一枚。

それを見た瞬が目を細めた。


「料理に似てますね。」

「どういう意味?」

「味を決めるのは、たった一枚の“香り”なんです。」

「あなたの言葉、時々詩人みたいね。」

「それ、褒めてます?」

「半分くらいは。」


二人で笑う。

笑いながら、綾はふと思った。

この人の前では、

仕事の緊張も、孤独も、

なぜかふっと軽くなる。


「ねえ、瞬。」

「はい。」

「料理をしていて、いちばん嬉しい瞬間って?」

「……食べた人が静かになる時です。」

「静かになる?」

「はい。

 “おいしい”って言葉より、

 黙って目を閉じる方がずっと本当の反応だから。」


その言葉を聞いた瞬間、

綾の胸の奥で小さな灯がともった。

自分も、そんな沈黙を何度も見てきた気がする。

痛みが消えたときの、あの安堵の顔。


「……私も似てるかもしれない。」

「え?」

「患者が治って、もう来なくなったときが、いちばん嬉しいの。」

「なるほど。似てますね。」

「癒す人と、あたためる人。どちらも、火を扱ってるのかも。」


店を出ると、

午後の風が少し冷たかった。

瞬が小さくくしゃみをした。


「風邪ひかないでね。」

「医者の前で風邪ひいたら恥ずかしいですね。」

「その時は診てあげるわ。診察料は秋刀魚で。」

「じゃあ、すぐ仕込みます。」


ふたりは顔を見合わせて笑った。

その笑顔が、

日向の光よりもあたたかく感じた。


歩きながら、

綾は空を見上げた。

雲の間からのぞく青が、まるですだちのように澄んでいた。


「ねえ、瞬。」

「はい?」

「次は夕方に会いましょう。」

「夕方?」

「あなたの料理、夕暮れが似合う気がするの。」

「じゃあ、綾さんも似合いますね。」

「どうして?」

「太陽が沈むときって、

 “優しい人”の顔をしてる気がするんです。」


その言葉に、

綾は返事をせず、ただ微笑んだ。

すだちの香りが風に混じり、

どこかで風鈴が鳴った。


ふたりの影が、少しだけ重なりながら伸びていく。

その光の中で、

恋はまだ名前を持たないまま、

確かに息をしていた。

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