第13話 雨上がりの再会

昼過ぎ、空が急に暗くなった。

遠くで雷の音がして、風が湿り気を運んでくる。

綾は窓の外を見上げた。

診療所の屋根を叩く雨音が、心の奥をやさしく揺らす。


「……今日は、早めに閉めようかしら。」


患者の波が引いた待合室で、

小さく独り言をこぼす。

その声がやけに響いた。


いつもより早い夕方、

雨がようやくやんだ頃、

綾は傘を手にして診療所を出た。

濡れたアスファルトに空の色が映っている。


歩道を歩きながら、

風に混じる香りに足が止まった。


――出汁と、柚子。


一瞬で、心が跳ねた。

まさか、と思いながら角を曲がると、

そこには小さな屋台の灯り。

暖簾の端が、風に濡れてひらひらと揺れている。


「……瞬?」


声をかける前に、

屋台の中から、彼女がこちらを振り向いた。


「綾さん!」


弾むような声。

頬には少し雨のしずくが残っている。

その笑顔を見ただけで、

胸の奥に何かがふっとほどけた。


「びっくりした。今日はもう閉めたの?」

「雨がひどくて……でも、綾さんが来る気がしたんです。」

「ふふ、そんな都合のいい予感、あるの?」

「あるんです。だって本当に来てくれた。」


瞬が笑って、

鍋の中を静かにかき混ぜる。

雨上がりの空気の中、湯気が白くのぼっていく。


「……あたたかいの、残ってますよ。」

「じゃあ、少しだけ。」


綾は屋台の端に腰を下ろした。

器に注がれた出汁の香りが、

雨上がりの冷えた体に染みていく。


「今日はね、鱧と走りの松茸の炊き合わせです。」

「季節の味ね。少し秋が近づいてきた。」

「そうですね。

 ……綾さん、夏は好きですか?」


「嫌いじゃないけど、少し切ない季節ね。

 何かを追いかけたくなる。」


「追いかけたいもの、ありますか?」


一瞬、答えられなかった。

箸を止めて、

ゆっくり顔を上げる。


「……あったけど、今はこうして座ってるだけでいい。」

「じゃあ、私も。」

「あなたも?」

「はい。こうして先生……じゃなくて、綾さんと話してるだけで。」


ふたりの間に、

短い沈黙が落ちる。

けれど、それは気まずくも、重くもなかった。


屋根を打つ雨音の残響と、

火のはぜる音だけが、

小さな屋台の空気を満たしていた。


「瞬。」

「はい。」

「あなたが帰ってきてくれて、嬉しかった。」

「……本当ですか?」

「ええ。あなたの味、恋しかったから。」


瞬は照れくさそうに笑って、

小さく頷いた。


「……私も、あの灯りが恋しかった。

 あの白い部屋の中で、

 綾さんが私の料理を食べてくれる姿、

 ずっと覚えてた。」


綾の喉の奥が、

少しだけ熱くなった。


「じゃあ、これからは忘れないように、

 また時々、ここでごはんを食べに来るわ。」

「ほんとに?」

「ほんとに。」


瞬が笑う。

その笑顔は、

雨上がりの空よりもやさしかった。


「じゃあ、次は……

 夜じゃなくて、昼に会いませんか?」

「昼?」

「市場、また一緒に行きたいんです。」


「ええ、行きましょう。」

綾は微笑みながら答えた。

頬に残る風の香りが、

夏の終わりと秋のはじまりを告げていた。


ふたりの手が、

器を受け渡す瞬間に少し触れ合う。

そのぬくもりが、

言葉よりも静かに、

確かな約束になった。

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