プロローグ 姉とキスをする

 再婚した親の連れ子は、法律上、他人に当たる。


 だから、私とはるは言ってしまえば、たまたま同じ家に住んでいて、苗字が同じなだけの関係でしかない。


 血の繋がりもない。クソ親父はもう随分前に家を出て行ったから、本来は家族としての繋がりすらありはしない。


 見捨てられて当然だった。手放されて普通だった。


 それでも、はるは一度、繋いだ手を振り解かなかった。


 それどころか、ぎゅっと握って、独りぼっちだった私を守ってくれた。


 今も私が無理に絡めた指を、それでも離そうとはしてくれない。


 冬の風で凍える手は、そのおかげで少し温かい。


 その手に宿るぬくもりが、ほんの少しだけ、私の胸の強張りを緩めていく。


 きっと、理由は、ただそれだけ。


 このあやまちの始まりは、ただそれだけだった。





 ※





 「くろえ、机、拭いといてもらっていい?」


 キッチンから飛んでくるはるの声に、私はそっと頷いた。


 「大丈夫、もう拭いてる。スープ先によそっちゃうね」


 そうやって返事を返すと、キッチンではるがうぐっと唸る声がする。


 「相変わらず、くろえはしごできだねえ……」


 いつも通りのことをしているだけだけど、はるは都度呆れているのか褒めているのか分からない言葉をくれる。私は軽く笑って、キッチンに入って、スープをよそい出す。


 今日は野菜たっぷりのコンソメスープと、お肉ごろごろふわふわオムライス。


 エプロン姿のはるはどことなく難しい顔で、フライ返しと一緒にフライパンの上の卵と対峙していた。


 「ここは強火で一気に……えいや!」


 声と同時に丸まったオムレツ風の卵が、フライパンの上からお皿にぽとんと落ちる。チキンライスの上のそれは、湯気を上げていい感じにふわふわしてる。


 ナイフですっと切れば、リクエスト通りのとろとろオムライスの完成だ。


 「おおー、さすが、はる」


 小さく拍手をすると、はるはふふんと胸を張って微笑んだ。


 「ふふふ、私が出来る数少ない、まっとうな料理だからね……」


 そういうはるの笑みは、自信と自虐が織り交ざった、なんとも言えない色合いをしている。素直に褒められとけばいいのにと想いながら、私も少し苦笑を浮かべる。


 ちなみに、はるは薄焼きのオムライスが好きなんだけど、そっちはあえなく失敗した。ぺりぺりの三つくらいに分裂した卵の薄皮が、私の綺麗なとろとろオムライスの隣にそっと乗せられる。


 「ねえ、はる。なんで、厚焼きわたしのは上手なのに、薄焼きはるのは上手くならないの?」


 「…………うーん、誰かに食べてもらうか、どうかの違いかな」


 同じ人が作ったとは思えない、アンバランスな出来のオムライスを眺めながら、私たちはいそいそと食卓に向かう。


 「じゃ」


 「「いただきます」」


 そうして、二人で手を合わせて、隣に並んで、夕ご飯を食べ始めた。


 私がこの家に来てから10年近く、すっかり見慣れたいつもの光景だ。


 「はる、そういえば、お義母かあさん、次帰ってくるの来月だって」


 「ああ……、また個展入ったのかな。年末だしね、忙しいよね……」


 「クリスマスも顔出せないって、嘆いてた。プレゼントだけでもおくろっか」


 「そうだね、うん、お母さん、きっと喜ぶよ」


 女子高生が二人で暮らすには、大きすぎるのマンション中、小さな食卓の上で私達は食事をしながら、そんな会話をぽつぽつ続ける。


 はるが作ってくれたオムライスは温かくて、とろとろで注文通りの出来栄えだった。何度食べても、結局これが一番私の舌に合っていふ。


 満足しながら、黙々と口を動かしていたら、少し色素の抜けた腰までの髪を揺らして、じっとこちらを見るはると目が合った。


 「どうかした?」


 そうやって、問うとはるは一瞬慌てて、ぶんぶんと首を横に振る。


 「いや、そんなに美味しそうに食べてもらえると、作った甲斐があるなって」


 そう言いながら、はるはどことなく嬉しそうにてへへと笑った。私はふむと、スプーンを口に入れたまま、少し思考する。


 それから、スプーンをはるに見えないように軽く舐めた。


 「だって、美味しいからね」


 事実を告げる。


 「で、でへへ」


 はるは照れる。眼に見えて分かるほど。


 「一口あげようか?」


 だから、そういって、スプーンをすっと差し出す。何気なく。


 「え?」


 はるは一瞬、目が点になったように固まって、少しだけ呆然とする。


 当たり前だけど、卵の焼き方が違っても、結局同じオムライスだ。


 味は同じ、変わらない。そんなことはわかってる。


 でもあえて、そんな事実は無視して、オムライスをよそったスプーンをはるの前に差し出してみる。数秒前まで、私の口に入っていたから、当然唾液はついたまま。


 はるはしばらく固まったあと、ようやく状況を理解して顔を赤らめだした。


 「どうしたの?」


 姉妹だもの、変なことじゃないでしょう?


 違う味のアイスを買ってきた時とかのシェアなら、私たちは幾度となくやってきた。


 だって、家族の間で間接キスなんて、気にする方がどうかしている。実際、今まではるが気にしたことなんて一度もない。


 でも、多分、今の私達じゃあ、意味合いが少し変わってる。


 呆けたはるをあえて無視したまま、私はゆっくりとはるの口元にスプーンを近寄らせていく。


 私が、もう2回奪った、その唇へ。


 「………………く、くろえ」


 「はい、あーん」


 まるで、それが当たり前かのように、スプーンでそっと口を開くよう催促をする。


 はるはしばらく迷っていたけど、結局、眼を閉じながら、その口元をゆっくり開けた。


 …………なんで、そこで眼を閉じちゃうかな。無防備にもほどがある。


 はあと、はるに聞こえないように、一つため息を吐く。


 それからスプーンに乗せていた、オムライスを口に軽く含んで。



 そうして、また。



 その唇を奪い取った。



 口に含んだオムライスを、その口の中に流し入れながら。



 逃げられないように手で抑えつけたはるの首元は、一瞬だけ動揺にびくっと震えて。


 最初は少し抵抗してたけど、しばらくすると諦めたように私の舌が受け容れられた。


 そうして私は、微かな水音と、唇と舌がゆっくりと、はるをなぞる感触を感じたまま。


 ケチャップと卵に、少し甘くてしょっぱい何かが混ざったような感覚を味わっていた。







 どれくらい、そうしていただろうか。


 数秒のような気もするし、数分していたような気もする。


 ただ分かるのは、閉じていた目を開けて、唇を離した瞬間に感じた、胸を締め付けるような名残惜しさと。


 何かを溶かすような水音と、口の中にかすかに残るケチャップに混ざった、何かの感触。


 そして、泣きそうな瞳で、顔を真っ赤にした、はるの表情。


 「くろえ…………」


 指でぎゅっと口元を拭った。濡れてて、紅い跡が指に残ってる。私がはるを犯した、その証明だ。


 「どうしたの? もう3回目でしょ、口移しくらいで驚かないでよ」


 さも当たり前のように、そう口にする。


 私の言葉にはるは、何か言おうとしたけど、どうにも言葉は出てこないみたいだった。


 『最低』と言ってくれたら、きっと諦めがつく。


 『姉妹だよ』と諭してくれたら、きっと謝れる。


 そうすれば、こんなくだらないやり取りも、今日で終わりにしてしまえる。


 だけど―――。



 「……………………」



 はるは、何も言わない。


 最初にキスをした時も、『どうして』とは聞いたけど、責めることも否定することもしてはくれなかった。


 そんなだから、結局、私はこの下らない情欲を捨てきれないままでいる。


 「それとも、気持ちよかった? はるって意外と、こういうので興奮する感じ? 別にいいよ、私もこういう『遊び』嫌いじゃないし―――」


 口から漏れる言葉は、渇いて、濁ってみっともない。


 なにが、そんなだからだ、どう取り繕おうがこれは純度100%私の過ちじゃないか。ただはるの優しさに漬け込んで、言いたい放題言ってるだけだ。


 はるは少し俯いて、そっと口元を手で覆った。まるで私が口づけをした場所をなぞるみたいに。


 胸の奥に孔が開いたような欠落感が、じわりじわりと広がっていく。声が震えるのを悟られないように、目線逸らしながらどうにか抑える。


 こぼれそうな何かが、漏れていかないよう、ぎゅっと手のひらを握りしめた。


 もし、私たちが本当に他人だったなら、こんな気持ちを抱かずに済んだだろうか。


 もし、姉妹として育たなければ、ちゃんと想いを伝えられただろうか。


 わからない、私あまり素直じゃないから、結局ダメだったような気さえする。


 わからない、わかんないよ。


 私、どうすればよかったんだろう。


 震えかけた言葉を、どうにか飲み込んで俯いた。


 ああ、何やってんだか、折角、二人きりの夕食の時間のはずなのに。


 私は―――。




 「こら」




 ぽんっと。


 不意に、頭に何か乗せられるような感覚がした。


 「…………何?」


 声が濁ってる、我ながら、動揺しているのがバレバレだ。


 「想ってもないこと、言わないの」


 そう言われた後、頭にのせられた手はゆっくりと私の髪を撫でていく。


 まるで、いつものように、妹をあやすみたいに。


 「……何が? 私、いつも通りなんだけど」


 零れる音はぐちゃぐちゃで、顔の一つも上げられない。


 自分からキスしといて、なんだこれ、みっともない。


 「私がどれだけ、くろえのお姉ちゃんしてると思ってるの。くろえが悪ぶったり、我慢してたらすぐわかるんだから」


 髪を撫でる音がする。さらさらと、私の耳元で、ゆっくりと暖かい感触がその音をなぞっていく。


 「……悪ぶってなんかないけど、全部本音だし」


 口から漏れる声は、まるで拗ねた子どもみたいだ。


 「どの口が言ってるの。日野さん撃退したときと、おんなじ声してるよ。そういえば、あの時のくろえも、悪い子のふり下手だったね」


 そういうはるの声は、優しくて、静かで、暖かくて。


 さっきまで私が翻弄していたはずなのに、気付けばはるの手のひらの上で全部包まれているみたいだった。


 「振りじゃないし、私最低だし」


 「本当に悪い子は、そんなこと言いません」


 「じゃあ、本当に悪い子になっても、自分が悪いって言ってればいいの? それで許されるの?」


 「くろえは、そんなことしないでしょって話だよ」


 そう言い合いをしている間に、はるの手はぎゅっと私の頭を抱き寄せて、その胸に優しく抱き留められる。


 ああ、くそ、全部バレてる。


 甘えも、強がりも、当てつけも。全部、バレたうえで受け止められてる。


 「鈍感姉のくせに……」


 「ぐ……ぐぬ」


 ただぼそって漏らした言葉は、どうやら効いたようで、頭の上から苦汁の声が降ってきた。


 そんな声を聴いていたら、なんだか独りでぐちゃぐちゃ考えていた自分が馬鹿らしくなってきた。


 胸の奥で張り裂けそうだった何かも、気付けばすっかりなりを潜めてる。


 私はふぅっと軽く息を吐くと、そっとはるの胸から顔を上げた。


 そのままふるふると首を横に振って、零れかけた何かを振り払う。


 「…………くろえ、落ち着いた?」


 ふっと見たはるの顔は、まだ少し紅いけど、優しく微笑んでいる。いつも通りの私のお姉ちゃんの顔だった。


 はあ、と一つため息を吐く。


 とんだ手強い相手に、想いを抱いてしまった気がする。


 「まあ、ちょっとは」


 そう嘯きながら、私は改めて食卓に向き直る。


 ごたごたしていたから、少し冷めてしまったけれど、それでも相変わらず、安心する味だ。


 どこか心配そうなはるを横目に見ながら、私はなんとはなしに、視線を窓の外に逸らした。


 黒い窓ガラスの向こうでは冬風がごうごうと吹いていて、その窓ガラスに映る私たちは、まるで全然似ていない。


 髪色も、顔つきも、雰囲気も、何もかも。


 もし本当にただの他人だったら、こんな想いをせずに済んだだろうか。


 もし本当にただの他人だったら、この人に恋をしていただろうか。


 わからない、結局、もしものことは何一つ。


 そうして、何も言えないまま、私はあなたに優しく見守られていた。


 窓の外は、寒くて冷たくて、凍えそうな風が吹いているはずだけど。


 この部屋は、この人の隣は、それを忘れそうなほどに暖かった。


 相変わらず、いつも通りに。

 

 






 ※



 『ねえ、くろえ心配しないで』


 『私が絶対、くろえのこと守るからね』


 『だってね、私はくろえのお姉ちゃんなんだから!』


 いつかの頃、独りぼっちだった私の手を、ぎゅっと握ってくれたあなたの言葉を。


 私はまだ、忘れられないままでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る