第4話 街の貌、森の貌
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その日、納戸にしつらえた棚を前に一人頭をめぐらすニラの姿があった。
冬の訪れと共に、家の食料棚には干し肉や保存食が満たされていったが、どうしても森の中だけでは手に入らないものもある。
塩、鉄製品、そして子供たちの体を厳しい寒さから守るための丈夫な布地。
ある晴れた朝、ニラは戸口に立ち、空の様子を一瞥してから家の中の子供たちに向かって言った。
「街へ行くよ」
その言葉に、ニクリムとロッケは顔を見合わせた。
街。それは、人の匂いのするところ。そして追われた場所を連想させる響きを持っていた。
森の静寂とは違う、活力の吹き上がる未知の世界。その好奇心が、幼い胸をかすかにときめかせた。
ニラは棚から、油を染み込ませた防水の革マントを三つ取り出した。
一つは自分用、残りの小さな二つは、この日のために彼女が縫い上げておいたものだ。
「さぁ着るんだ。森の夜は、家のベッドとは違うからね」
彼女は二人に、動きやすく暖かいウールの下着の上からそれを羽織らせた。
そして、自分の荷物――干し肉、水袋、火口箱、そして商材となる上質な乾燥薬草が詰まった大きな鹿革の背負子――を背負うと、子供たちにも小さな麻袋を背負わせた。その中には小さな干し肉の束と水筒が入っている。「自分の荷物は自分で持つんだよ」という無言の教えだった。
子供の足での旅路は、森の奥深くを縫うようにゆっくりと進んだ。
見慣れた森も、家から遠く離れるにつれて、どこかよそよそしい顔を見せ始める。
ニラは時折立ち止まり、苔の生え方で方角を確かめ、風の匂いで天候を読む。その姿は、家で見せる顔とは違った、森を知り尽くした冷徹な「賢者」の顔だった。
陽が西の梢に沈みかけ、森が急速に熱を失い始めた頃、ロッケの小さな足取りが重くなり始めた。
ニクリムも気丈に振る舞ってはいるが、その動きに出発したときの様な溌溂さはない。
ニラは足を止めた。いい潮時だった。
彼女は周囲を素早く見回し、巨大な岩が風を遮るように突き出し、その根元が浅い洞窟のようになっている場所を選び出した。
「今夜はここで明かそう」
ニラは荷物を下ろすと、手際よく枯れ枝を集めた。
ただ積み上げるのではない。岩壁を背に、石を並べて熱を反射させる竈(かまど)を組み、その中で火を熾した。
またたく間に揺らめきだした炎が、迫りくる夜の冷気と闇を押し返し、そこに温かな光の円環を作り出す。
ニラは背負子から小さな素焼きの壺を取り出した。
蓋を開けると、中には琥珀色に固まった脂のようなものが詰まっている。
彼女はナイフでそれを一掬いし、小鍋で沸かした湯の中に落とした。
途端に、ジュワリと脂が溶け出す。タイムやローズマリーに似た森の香草と、香ばしい木の実の匂いが、湯気と共に立ち上った。
それは彼女が冬の旅のために調合しておいた『香味脂』だった。厳しい寒さを凌ぐための純度の高い動物の脂に岩塩、砕いたクルミ、そして彩りと微かな甘みを添える乾燥した
ただの湯が、一瞬にして黄金色の豊かなスープへと変わる。
ニラはそこに、ナイフで薄くスライスした干し肉と、硬い黒パンを割り入れた。
カチカチだったパンと肉が、脂のコクを含んだスープを吸い込み、とろとろの粥状に煮崩れていく。
「お食べ。体を中から温めるんだ」
差し出された木椀からは、森の豊かさを凝縮したような、食欲をそそる濃厚な湯気が立っていた。
ロッケがおずおずと口をつける。
「……っ、おいしい!」
塩気と脂の旨味、そして時折口の中で弾けるベリーの甘酸っぱさ。冷え切って縮こまっていた胃袋に、熱い命が直接流れ込んでくるようだ。ニクリムも夢中で椀をあおり、最後の一滴までパンで拭って平らげた。
空になった器をニラは丁寧に拭き上げ鹿革の背負子に戻す。子供たちは精気を取り戻して明るく笑う。それを見つめる彼女の目元は少しだけ細まり、満足げな色を湛えていた。
夜が更け、完全な闇が訪れると、気温はさらに下がった。吐く息が白く凍る。
焚き火の前に敷いた毛皮の上で身を寄せ合い、うつらうつらと船を漕ぎ始める幼い二人。ニラはその小さな身体を見守る様に見つめる。彼らが纏う革のマントだけでも、この冷気は防げるはずだ。
彼女の中で、冷徹な計算が働く。
(このままでも大丈夫、この子達の熱はこの寒さに散逸したりはしない。……でも)
幼子たちの体力を奪う冷気を少しでも減らしてやるべきではないか? 短い旅でも風邪を引けば大事になり得る。少しでも熱を守るべきでは? 彼女の頭は目まぐるしく巡った。
方法ならわかっている、私の熱をくべれば良い。でも、この子らには私の魂は重過ぎる。あまり近づけてはいけないのだ。私の衝動に任せれば、やがてはこの子らをすべて飲み込む。わかっている。わかっているはずだ……。
ニラの心が冷めていく。その思考と共に、1600年を超える長い長い生命の虚空へと彼女の魂が散逸していく、その時だった。
くしゅんッ!
ロッケが小さくくしゃみをした。その刹那、ニラはもう動いていた。
幼子たちの背後に膝を落とすと、自身の大きな毛皮の外套を広げる。それはふわりと二人に覆いかぶさり、繭のように優しく包み込む。ニラはそっと、外套の前を合わせた。
彼女の身体に、二つの小さな熱が密着した。
ドクン、ドクン、と、早鐘のように打つ小さな心臓の振動が、彼女の体に直接伝わってくる。彼らの髪からは、太陽と土の匂いがした。
ニラの身体が一瞬、強張った。近い。それこそが彼女の恐怖そのものだった。
しかし、その温かさは、凍てつく夜気の中で、散逸する彼女の魂をじんわりと引き戻していった。
その時、夢うつつのロッケが、むにゃむにゃと何かを呟きながら、甘えるようにニラの胸元に頬をすり寄せた。つられてニクリムも、安心しきった様子で彼女の腕を枕に、小さな寝息を立て始めた。自らの腕の中で、頬を寄せ合う二人の幼子の寝顔が焚き火の炎に晒され浮かび上がる。
その、あまりに無邪気で、無防備で、安寧に満ちた重み。
それが今、私の腕の中に「在る」。
彼女の張り詰めていた「賢者」としての鎧に、ピシリと亀裂が入った。
「……ああ、この子たちは」
彼女の口から、深い吐息とともに、敗北の言葉がこぼれ落ちた。
なんて……かわいいのだろう。
ニラは自身の顔を幼子たちの髪の中に埋め、愛を注ぐかのようにゆっくり、ゆっくりと、頬ずりした。
抗いがたい愛おしさが、胸の奥からせり上がってくる。彼女は、自分が彼らに熱を与えるのではなく、彼らの熱によって自分の中の冷たい孤独が溶かされていくのを感じた。永劫を生きる魂の重みが、この小さな体温によって、まるで羽のように軽くなる。
ニラは、その甘やかな微睡みに身を任せながら、焚き火に薪を一本くべた。パチリ、と爆ぜる火の粉が、静かな夜空に舞い上がった。
翌朝。
ニクリムとロッケが目を覚ました時、森は深い霧に包まれ、まつ毛が凍るほどの冷気に満ちていた。
けれど、彼らの世界は、とてつもなく温かかった。
二人は、ニラの深い毛皮の外套の中で、彼女の柔らかな胸に顔を埋めるようにして眠っていたのだ。
そこは、世界で一番おだやかで、安らかな場所だった。
冷たい森の空気とは隔絶された、ミルクと、日向と、そしてニラ自身の持つ静謐な香りに満ちた宇宙。
ロッケは、まだ夢うつつの中で、その温かい「壁」に頬をすり寄せた。トクン、トクンと、ゆっくりだが力強い音が聞こえる。
その音を聞いていると、自分という存在の境目が溶けて、この温かい海の中にゆったりと広がり、一体になってしまいそうな、そんな、抗いがたい安らぎだった。
ここから出たくない。ずうっと、すべてが終わってしまうその時まで、この温かさの中で眠っていたい。
ふと、ニクリムが顔を上げ、息を呑んだ。
ロッケもつられて見上げる。
そこには、ニラの寝顔があった。
いつもなら誰よりも早く起き、澄ました顔で作業をしているはずの彼女が。
彫像のように整ったその顔にいつもある、威厳も、神秘も、今は見当たらない。長い銀髪は少し乱れ、口元はわずかに緩み、規則正しい寝息を立てている。その顔は、得体のしれない賢者などではなく、ただの疲れた一人の少女のように、あどけなく見えた。
二人は、見たこともない「母」の無防備な寝顔に、言葉もなく見とれていた。完璧だった世界の天井に、小さな、愛すべき穴が開いているのを見つけたかのように。
その時、森の鳥が鋭い声で鳴いた。
ビクン、とニラの肩が跳ねた。
彼女はゆっくりと目を開け、呆然と虚空を見つめ、それから自分の腕の中の子供たちと目が合った。
一瞬の空白。
「……っ!」
彼女はバッと身を起こし、慌てて子供たちを外套から解放した。
「しまった! 日が昇っているじゃないか! ぐずぐずしている時間はないよ!」
その声は裏返り、手つきは明らかに動揺していた。いつもの優雅な所作はどこへやら、彼女は逃げるように背を向け、残り火を片付け始めた。その耳の先が赤くなっているのを、兄弟は見逃さなかった。
ニクリムとロッケは顔を見合わせ、くすくすと笑った。
賢者様も、寝坊をするのだ。
その秘密の発見は、どんな魔法よりも彼らの心を温かくした。
霧が晴れ、陽が高くなるにつれて、あたりの空気が変わっていく。
踏み固められた街道に出て、荷を積んだ馬車や旅人の姿が見え始めた頃、ニラはようやくいつもの落ち着きを取り戻していた。
森の中での静謐さが消え、代わりに、人間らしい柔らかな気配がその身を包んだ。
ただ、その唇の端が、ほんのわずかに拗ねたように結ばれていたのを、子供たちは知っていた。
丘を一つ越えた先に、石壁に囲まれた賑やかな街が見えてきた。
遠くからでも聞こえる喧騒に、ロッケは思わずニラのローブの裾を掴み、ニクリムは警戒するように全身を強張らせる。
街の門には、退屈そうにあくびをする衛兵が立っていた。ニラは小さく笑みを浮かべると、臆することなくその前へと進み出る。
「こんにちは。一日お疲れ様」
その声は、森でのそれとは比べ物にならないほど明るく、快活に響いた。
衛兵は、森から来たにしてはあまりに丁寧な挨拶に少し驚いた顔をしたが、軽く頷いて一行を通した。
ニクリムとロッケは、初めて聞くニラのその声色に、ただ呆然と顔を見合わせた。
門をくぐった先は、子供たちのまだ知らない世界だった。
石畳の道を埋め尽くす人の波。パンの焼ける香ばしい匂い、家畜の匂い、そして汗の匂い。
鍛冶屋が鉄を打つ甲高い音、商人たちの威勢のいい呼び声、走り回る子供たちのはしゃぐ声。
あらゆる音と匂いが渦を巻き、二人を圧倒する。
しかしニラは、その混沌の中を、確かな目的を持った流れのように進んでいく。
彼女の視線は絶えず動き、世界をつぶさに観察している。だが、時折、その動きがふと止まる。
バターをたっぷり使った、甘く柔らかいブリオッシュを売る屋台の前で、彼女は足を止めた。
彼女は、温かいブリオッシュを一つ買うと、三つに分け、まず兄弟に分け与えた。
子供らがそれを口にするのを見届けてから、自分もそれを一口かじると、ニラはその甘さに満足げに、かすかに頷いた。
そして 「さあ、行こう」と二人をうながす。その声は来た時よりも少しだけ弾んでいるように聞こえた。
ニラは、まるで森の小道を散策するかのように、その喧騒の中を優雅に進んでいく。
彼女はいくつかの通りを抜け、騒がしい酒場を一瞥して通り過ぎると、清潔そうな佇まいの「山猫亭」という名の宿屋の前で足を止めた。
中では、旅人たちで賑わう食堂の奥に、恰幅のいい女主人が帳面をつけていた。ニラが
「ご主人、こんにちは。今晩、部屋は空いていますか? 大人一人と、この静かな子ら二人ですが」
ニラは、相手の警戒心を解くような、穏やかな笑みを浮かべた。
「森から薬草を売りに来たんです。長い道のりだったので、ごらんの通り子供たちもくたくたで」
その屈託のない物腰に、女主人の表情が和らぐ。
「そうかい。それなら、ちょうど屋根裏の部屋が空いてるよ。少し狭いが、窓からの眺めはいいさね」
ニラは提示された宿代に心得たと頷き、古びた銅の鍵を受け取った。
軽やかに軋む階段を上り、部屋の扉を開ける。窓からは、家々の屋根と、沈みゆく夕日に染まる空が見えた。扉が閉まり、街の喧騒が遠のくと、部屋の中には静寂が戻った。
子供たちは、荷物を解き始めたニラの背中を、言葉もなくただ見つめていた。
衛兵と、宿の主人と、あれほど自然に、楽しそうに話していたこの女は、一体誰なのだろう。自分たちが知る、森の静かなニラとは、まるで違う誰かに見えてならなかった。
日が落ちると、街は昼間の石の色から、揺らめく炎の橙色へと姿を変えた。
家々の軒先には松明が掲げられ、広場にはいくつもの焚き火が焚かれて、その周囲を人々が行き交い、長い影を踊らせていた。
「さあ、晩ごはんを食べに行くよ」
ニラは、部屋の窓から物珍しそうに街を眺めていた兄弟に声をかけた。
そして、夜の街のざわめきの中に、二人の手を引いてとびこんだ。
広場の一角にはいくつもの屋台が並び、香ばしい煙を夜空へと立ち上らせている。
ニラはいつもよりほんの少しだけ軽やかな足取りで夜の街をかき分け、それらの屋台をきょろきょろ見渡す。そして微かに鼻をひくつかせると、串に刺した肉や野菜を焼いて売る店で、こんがりと焼けた鶏肉と、湯気の立つ温かいスープ、そして黒パンをいくつか買った。
広場の中央には、食事をする者たちのために、簡素な長テーブルと長椅子がいくつも並べられていた。
三人はその一つに腰を下ろし、静かに食事を始める。
森の食事とは違う、香辛料の効いた肉の味に、子供たちは夢中になった。
「おいしいかい?」
ニラが尋ねると、二人はこくこくと何度も頷いた。その様子を見て、彼女も満足げに微笑む。
その時、すぐ近くのテーブルで酒を飲んでいた男たちの一人が、下品な笑い声をあげてニラに絡んできた。
「よう、お嬢ちゃん! なかなかいい女じゃねえか。若いのに、もう子供が二人もいるのかい? 大変だろう、俺たちがまとめて養ってやろうか!」
男たちの野卑な視線が、ニラと、そのそばで身体を固くする子供たちに向けられる。
しかしニラは、顔色一つ変えなかった。
彼女はゆっくりと男たちの方を向くと、困ったように、しかしどこか悪戯っぽく微笑んでみせた。
「まあ、お優しいのね。でも、あなた方みたいに立派な方々に養ってもらうには、うちの子たちはまだ行儀が悪すぎるわ。それに、この子たちの父親が、酷く嫉妬深い人でね。あなた方に何かあったら、私、悲しくて眠れなくなってしまうわ」
その口ぶりはあまりに堂に入っていて、からかっているのか本気なのか、男たちには判断がつかなかった。
色っぽくもあり、しかし決して隙を見せないその態度に、男たちは毒気を抜かれ、「ちぇっ、つまらねえ」と悪態をつきながらも、それ以上絡んでくることはなかった。
ニラは何事もなかったかのように食事を再開すると、声を潜めて子供たちに言った。
「これが、街のやりかた。言葉で値踏みする者もいれば、言葉でいなすこともできる」
彼女は、今起きた事にこわばった顔をしている二人に気づくと、その小さな肩を優しく外套の中へ抱き寄せた。
「…大丈夫。何も心配することはないよ」
その温かい言葉に、子供たちの表情がようやく和らぐ。
少し肌寒かった空気がニラの体温と彼女の外套にくるまれ、なんとも心地よい。
彼らは、いつもよりずっと饒舌なニラの横顔を、ただ不思議そうに見つめていた。その視線に気づいたのか、ニラは二人の頭にそっと手を置くと、優しく微笑んだ。
「人の世界は、言葉でまわるのさ。さぁ、もう少し街を楽しもう」
食事を終えた後、ニラは砂糖で煮詰めた木の実を売る屋台へ二人を連れて行った。
彼女は甘い木の実を三つ買うと、二人に分け与える。そして残りの一つを自分の口に放り込むと、その香ばしい甘さに、ほんのわずかに目を細めた。
宿屋へ戻る道すがら、彼らは、いつもよりずっと饒舌なニラの横顔を、再び不思議そうに見つめる。森のニラよりもずっと多くの
8
翌朝、街は夜の喧騒を引き継ぐかのように、朝市の活気で満ち溢れていた。
ニラは子供たちの手を引き、人混みを巧みにかき分けて進む。
彼女の「街の顔」は、昨日よりもさらに生き生きとしていた。子供たちは、その背中がいつもよりなんとなく楽しげに見えるのを、頼もしい思いで眺めていた。
最初に訪れたのは、猛々しい炎と金床の音が響く鍛冶屋だった。
「親方、斧の刃を一つ。それと、この子らが使う小刀を二本見繕ってくださいな」
ニラは親しげな口調で穏やかに用件を告げる。
しかし品定めをする彼女の目は鋭く、刃の鋼を指で弾き、その音で質を確かめる様は、まるで熟練の職人のようだった。
ニクリムは、その無駄のないやり取りの全てを目に焼き付け、ロッケは飛び散る火花の方に心を奪われていた。
次に立ち寄った布地屋では、彼女は女主人の世間話に巧みに相槌を打ちながら、冬を越すための分厚い羊毛の生地を選んだ。
子供たちの体に布を当て、流れるように手慣れた手つきで寸法を確かめる。
言葉は素っ気なくても、その選択には紛れもない配慮が滲んでいる。子供たちはただただ彼女に促されるまま身を任せれば何の問題もなかった。
支払いを済ませようとした、その時だった。
彼女の視線が、店の隅に積まれた色とりどりの布地へと、ふと引き寄せられた。
異国から来たのだろうか、鮮やかな赤や黄色に染められた織物がいくつもまとめられている。
ニラはその一点をじっと見つめたまま一言つぶやいた。
「お前たち、朝日を浴びた山吹の色は好きかい?」
ニクリムとロッケは何事かと、きょとんとニラの顔を見上げる。
ニラは視線を落とし二人の全身をくまなく見まわしたのち、再び棚に目をやった。
そして少し考えたあと、残念そうに笑って小さく首を振った。
「何でもないよ。…おかみさん、それだけくださいな」
最後に、干した薬草や毛皮を塩や油、小麦粉と交換する大きな商店に寄った。
ニラは店主と丁々発止の交渉を繰り広げ、驚くほど有利な条件で取引をまとめてみせる。
その交渉の傍ら、彼女は子供たちの手に、甘い焼き菓子を一つずつ握らせた。予期せぬ贈り物に、二人の緊張は僅かに解け、戸惑いながらもその甘さを味わった。
必要なものを全て手に入れ、革袋がずっしりと重くなる頃には、陽は天頂から下ろうとしていた。
「さぁ、うちへ帰ろうか」
街の熱気に充てられたのかニラが珍しく上気した顔で二人を促す。
頷く子供たちの手には、ニラが買い与えた木彫りの玩具が握られていた。
三人が街の門を出て、森へと続く近道と、迂回する広い街道の分岐点に差し掛かった頃、空は鉛色の雲に覆われ始めた。
ニクリムとロッケは迷わず森の方へ足を向けようとした。美味しいスープとニラと一緒に眠った野宿の楽しい記憶がよみがえる。
しかし、ニラの足は、舗装された街道の方へと向いていた。
「ニラ? そっちじゃないよ?」
ロッケが不思議そうに声をかける。
ニラは振り返らず、淡々と告げた。
「帰りは街道を行こう。雲行きが怪しい。雪になるかもしれないからね」
「でも……」ニクリムが食い下がる。「僕たちなら大丈夫だよ。ニラのマントがあれば寒くないし、焚き火だって今度は自分でやりたい」
その言葉にニラは振り返り、まっすぐ二人に向いた。
「次の宿場町まで歩く。今夜は屋根の下で寝るんだ」
有無を言わさぬ物言いだった。子供たちは顔を見合わせ、あからさまに肩を落としたが、ニラはもう歩き出していた。仕方なさそうに子供たちも続く。
子供たちに背を向けニラは、しかし自分でも気づかぬうちに森へと進む道へ視線を向けていた。
子供らをこの胸に抱いて越えたあの夜。
その森の方へと二頭立ての馬車が向かっているのが見えた。
ニラはその遠くの馬車を見やると片手で自分の腕を抱き、微かに身震いした。
帰路は、平坦で、安全だった。
その夜、宿場町の宿屋で、ニラは子供たちに一つのベッドを与え、自分は部屋の隅の長椅子で、背を向けて眠った。
清潔なシーツは快適だったが、どこか寒々しかった。
ロッケは隣で眠る兄の背中に身を寄せながら、暗闇の中で小さくため息をついた。一昨晩の、あの溶けるような温もりに想いを寄せながら。
翌日も兄弟にとって平坦で退屈な旅となった。ニラの背を眺め、ただひたすらに歩き続ける。やがて街道を逸れ、周囲は木々に覆われ、やがて勝手の知った森へとたどり着く。
木々の梢が夕日を遮り、あたりが薄暗くなるにつれて、ニラの纏う空気は再び元の静けさを取り戻していった。
饒舌だった唇は固く結ばれ、朗らかだった表情は、いつもの感情の読めない静謐なものへと帰っていく。
その夜、燃え盛る暖炉の炎に温められた家の中で、ニラは買ってきたものを確認するようにテーブルの上に広げた。ニクリムとロッケも興味深くその様子をうかがう。
大きな革袋がすっかりしぼんだころ、ニラはその中から最後にブリオッシュを一つ取り出した。
いつの間に買ったのだろう。ニラは少しだけ表情を緩めるとそれを丁寧に三つに分け、ニクリムとロッケ、そして自分の口に放り込んだ。
甘い香りが、静かな森の家に、ほんの少しだけ、遠い街の賑わいの記憶を運び込んでいた。
夜が更け、子供たちは寝台へと促され、ニラはまた本を読み始める。
ニクリムとロッケは暖炉とランプの灯に温かく浮かび上がるニラの姿をうつらうつらと眺めていた。
短い旅路での彼女は、まるで美しい夢のようだった。
そして今、目の前にいるのは、紛れもなく自分たちが知る、森のニラだった。
子供たちは、彼女の本当の姿にまた一歩近づけたような気がして、それでいて、その深さはやはり計り知れないことを悟り、手の中の木彫りの玩具を、ぎゅっと握りしめた。
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