第20話 枯れかけた庭

あの昼休みの一件以来、胸の奥に薄い氷が貼りついているみたいだった。


薄暮市秩序友の会。あの冷たい視線と、陰に潜る言葉。

気にしない、と言い聞かせた。

わたしたちの幸せは、誰にも邪魔させない、と。


けれど、一度意識してしまった悪意は、想像以上に速く、静かに染み込んでくる。

キャンパスを歩けば、ふと向けられる視線が全部、あのときの目に見える。

すれ違う囁きが、全部、わたしたちの噂に聞こえてしまう。


学内ネットやインターネットの匿名掲示板にすら、あの噂話を思わせる書き込みをいくつか見つけてしまった。以前から存在したのかも知れないけれど、あの囁き以前には気にとめていなかった(気付いていなかった)ものだ。


(だめだ。わたし、弱ってる)


心の匂いは元気をなくし、甘くてあたたかな香りは影に潜った。

湿った落ち葉がくすぶるみたいな、細く不安げな匂いだけが漂う。


六人はすぐに気づいた。

コヨリちゃんは腕にじゃれつく回数を増やし、明るい声で空気を押し上げようとしてくれる。

ルージュさんは研究時間を削って、ハーブティーを淹れに来てくれた。

ミラちゃんは「ストレスパラメータ上昇中、原因の排除を提案」と淡々と告げ、学内ネットワークの監視レベルを上げたらしい。

ツバキちゃんは言葉にせず、わたしがひとりにならないよう数メートル後方を静かに歩く。

サラサちゃんは、ラムネ味のキャンディを毎日こっそりカバンへ。


(みんな、ごめん。心配かけてる)


優しさが胸に刺さり、息が苦しくなる。

わたしがしっかりしなきゃ。笑わなきゃ――そう思うほど、匂いはさらにくすぶった。


木曜日。リラさんの担当日。

温室へ向かう。

あのおっとりした癒しのオーラに触れれば、心の煤も薄まるはず――そう信じて。


(あれ?)


扉をくぐった瞬間、異変に気づいた。

湿った土と花蜜の甘さがしない。

空気がひどく乾いている。


「リラさん?」


不安に駆られて中央の菩提樹のベンチへ急ぐ。


「リラさん!」

「……あ……いつき、さん……?」


そこにいた。けれど、その姿はいつもの彼女とは違っていた。


「どうしたの。その髪……」


自慢の若葉色のウェーブは水分を失い、かさついて、くすんだ茶色に沈んでいた。

花冠はしおれて項垂れ、唇まで乾いている。


「ふ、ふふ……ごめん、なさい。なんだか、元気が出なくて……」


(まさか)


背筋に冷えが走る。

ドリアードは、光と水と、まわりの良い“気”で満ちる精霊。

そして――


(わたしの、せいだ)


六人の中で、いちばん心の匂いに敏感なのはリラさんだ。

わたしの匂いを“おひさま”と呼び、浴びるように元気を取り戻した人。


その“おひさま”が、この数日、湿って冷えた煙の匂いしか流していなかったのなら。


(わたし、リラさんの“おひさま”じゃなくなってた)


わたしが、彼女の源を奪っていた。

優しい精霊を、枯らしかけている。


「リラさん、ごめん……ごめんね……」


かさついた手を握りしめる。膝に涙が落ちて、指の甲を濡らした。


「……あ」

「……あったかい。いつきさんの、お水」

「リラさん……」

「泣かないで。いつきさんの心が寒いと、わたしも寒い、の」


枯れかけた身体で、彼女は懸命にわたしの頭を撫でようとする。

その優しさが、さらに胸をえぐった。


泣けば泣くほど、責めれば責めるほど、心の匂いは冷たく重く沈む。

リラさんの髪が、さらにぱさぱさと生気を失っていくのが分かる。


(だめ。悪循環だ)


涙を拭って笑おうとする。

(笑わなきゃ。元気を出さなきゃ。リラさんのために)

けれど、一度冷え切った心は、思いどおりに温まらない。


そのとき、温室の扉が勢いよく開いた。


「イツキ! こんなところにいた!」

「白羽! 貴様の心の匂いが異常だ!」


コヨリちゃんとツバキちゃんが駆け込む。

辿って来たのは、わたしの、そしてここに満ちる絶望的な湿りの匂い。

二人はベンチのわたしたちを見て、息を呑んだ。


「……リラ?」

「これは、どういうことだ、白羽!」


言葉が出ない。喉が固まる。

ごめんなさい――それしか出てこない。


コヨリちゃんが走り寄り、わたしとリラさんの手を包んだ。

掌から、ぬくい体温がじわりと流れ込んでくる。


「イツキ、深呼吸。はい、いっしょに」

コヨリちゃんはわたしの背を撫で、静かにリズムを刻む。

吸って、吐いて。吸って、吐いて。


ツバキちゃんは無言で温室の窓を半分開け、冷たすぎない風を通した。

腰の小瓶から霧吹きを取り出し、観葉の葉面と花冠に極薄く霧を散らす。


「水をかけすぎるな。根が驚く」

「わ、分かってるし」


呼吸が一つ整うたび、胸の奥の氷が粒になって崩れる。

まだ冷たい。でも、動き出す。


(わたしの匂いを、戻す)


わたしは指をほどき、リラさんの両手を包み直す。

意識して、心の奥に小さな火を灯す。

あの温泉の夜。満月、竹の影、みんなの笑い声。

集合ハグの重み。おそろいのリボン。

肩に掛けられたジャケットの温度。

スライムのぷにぷに。狐の毛並み。紅茶の香り。

そして、リラさんの膝枕の、静かな昼寝の色。


一つずつ、胸の炉にくべる。

小さく燃える火が、ゆっくり息を吸い込む。


「……リラさん。わたし、ここにいるよ」


心の匂いが、かすかに、甘くなる。

まだ弱い。けれど確かに、冷えた空気の中で揺れている。


「……あ」

リラさんの髪が、一本だけ、光を帯びた。

くすんだ茶から、若葉色の線が戻る。

花冠の一片が、わずかに起き上がる。


「もう一呼吸だ」

ツバキちゃんの声。

「もう一息。イツキ、ウチも手伝うし」

コヨリちゃんが額をこつりと合わせ、笑う。

「イツキの匂い、好きだよ。だから、戻っておいで」


わたしは目を閉じ、胸の火をもう少しだけ大きくする。

自分を責めるかわりに、ひとつだけ願う。


(どうか、また“おひさま”になれますように)


吸って、吐いて。吸って――

湧き上がる香りが、春の色へ転じる。

雨上がりの柔らかい日差し。洗い立てのリネン。ミルクティーの湯気。


「……あったかい」

リラさんの声が、ほんの少しだけ強くなる。

乾いた髪に、しっとりした手触りが戻る。

花冠の端が、ふくらむように色を吸った。


わたしの頬にも、ちゃんと血が戻ってきた。

「……ごめんね。遅くなって」

「ううん。来て、くれた。だから、もう、だいじょうぶ」


コヨリちゃんが大きく息を吐いて、へなりと肩を落とす。

ツバキちゃんは少しだけ目を細め、霧吹きを下ろした。


「白羽。秩序は、心を鎖で縛ることではない。心を守るための骨組みだ。貴様の“匂い”を折るためにあるものではない」

「……うん」


温室を撫でる風が、少し湿りを取り戻す。

ガラスの向こう、雲の切れ間から光が差す。

それに合わせて、リラさんの髪がさらりと揺れ、若草の色がもう一筋、増えた。


(わたしたちの秩序は、外から貼られる紙札じゃない。わたしたちで織る、やわらかな布だ)


震えはまだ奥に残っている。

けれど、その上から、薄手の毛布をそっとかぶせるみたいに、あたたかさが広がる。


「……イツキさん」

「うん」

「ひなた、いっしょに、すわる」


ベンチに肩を並べる。

コヨリちゃんが片側に座り、ツバキちゃんは少し離れて立つ。

温室の色が、少しずついつもの調子を取り戻していく。


小さな火は、まだ頼りない。

でも、もう消えない。

わたしは両手を胸に当て、息を合わせた。


(わたしは、みんなのもの。みんなは、わたしのもの。

だから、もう一度、あたたかくなる)

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