第21話 守護者たちの実務

ツバキちゃんとミラちゃんが温室を出ていったあと、空気はぴんと張りつめたまま動かなかった。

サラサちゃんが、わたしの頬をぷにぷにと挟んで、ゆっくり左右に揺らす。

「イツキちゃん、深呼吸。はい、すって、はいて」

「……うん」


コヨリちゃんはリラさんの背に薄いブランケットを掛け、わたしの手とリラさんの手をそっと包む。

「イツキ、ウチがここにいるし。だいじょうぶ」

「……ありがとう」


ルージュさんは温室の換気を調整し、ミントの香りの小瓶を開いて、ほんの一滴だけ指先に乗せた。

「吸い込みなさい。過度な刺激は不要ですわ。今は呼吸と体温の安定が最優先」


わたしは頷き、胸の奥に残った氷片を少しずつ溶かすみたいに、息を合わせた。

リラさんの指先に、かすかな潤いが戻る。


---


それから一時間も経たないうちに、ツバキちゃんから短いメッセージが届いた。

〈学生生活課と面談。二十分後、学務棟〉

続けて、ミラちゃんから。

〈資料一式共有済。証拠の一次性と可用性は確保。違法領域には踏み込まない〉


(実務、ってこういうことなんだ)


わたしは温室に残り、リラさんの髪を指先で解きながら、二人の背中を思い浮かべた。


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学務棟の小会議室。

ツバキちゃんは背筋を伸ばし、事務局の職員と向かい合っていた。

そこにミラちゃんが静かにファイルを並べる。印刷された掲示板ログ、学内SNSのスクリーンショット、日時と場所のメモ、目撃者として協力を申し出た学生の聞き取りメモ。

「これは攻撃ではありません。事実の整理と、危険の早期検知です」

ミラちゃんの声は平板だが、語尾は揺れない。

「当事者名は伏します。グループ名で特定可能ですが、まずは対応プロトコルに基づく注意喚起を要請」

「加えて」とツバキちゃん。

「当該グループが学園の公式団体ではないこと、かつ誹謗を意図する集団行動の兆候があること。これらを踏まえ、学内の安全配慮義務に基づく保護措置を求める」


職員は目を通し、息をついた。

「差別や脅迫につながる言動は、学生行動規範に抵触します。まずは関係者へのヒアリングと、全学向けの再周知を行います。該当者には警告書を、場合によっては指導面談を」

「警備導線の見直しと、同伴帰宅の申請受付もお願いする」

「手配します」


それだけ伝えると、ツバキちゃんは深く礼をした。

職員は首を振った。

「礼は不要です。秩序を守るのが私たちの職責です。あなた方は、私が動ける根拠を示してくれた」


二人は会議室を出て、廊下で短く視線を交わす。

「法的対処、一次完了」

「実務的対処、継続」

それだけ言って、別々の方向へ歩き出した。


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午後。

コヨリちゃんは学生ラウンジで、私たちに関する噂を耳にした。

「それ、誰から聞いたの」

「え、あの、掲示板のまとめで……」

「そのまとめ、ソース貼ってあった?」

「……ない、かも」

「じゃ、ウチからこれ置いとく。『当事者不在での憶測拡散はやめよう』って、学生会のやつ。読んでみて」


ルージュさんは図書館の掲示板に、学生行動規範と相談窓口の案内を美しく組んだ一枚を貼る。


「感じの悪い説教は逆効果。けれど、視線の高さに『ルール』が静かにあると、人は足を止めるものですわ」


サラサちゃんは温室で、霧吹きと保湿ジェルを抱えて奔走していた。

「リラちゃん、お水すこし。ぷしゅ。はい、ここも。よし、つやつや」

「……ありがと、なの」


ミラちゃんはネットワーク管理室で、担当職員の許可をとりながら設定を更新する。

「誹謗中傷キーワードのアラート閾値を引き上げ。自動非表示はしない。監視は可視化し、通報導線を短縮」


ツバキちゃんは学務課と連名で、全学向けの短い通達文を作っていた。

「多様な背景を持つ学生同士の尊重は学院の根幹。特定個人や集団を不当に貶める言動は規範違反です。困ったら相談を」

余計な煽りは書かない。けれど、十分に届く言葉で。


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夕方。

温室の光が柔らかく傾くころ、わたしの携帯が震えた。

〈一次対応完了。直接の接触はしばらく起きない見込み〉

続けてもう一件。

〈面談希望の連絡あり。強制せず、必要なら同席可〉


わたしは息を吐き、膝の上で手を合わせた。

リラさんの髪は、さっきよりはっきりと色を取り戻している。

「……ミルクティーの匂い。戻ってきたの」

「うん。みんなが、動いてくれたから」


コヨリちゃんが鼻先をくすぐって、にへらと笑う。

「戻ってきたね、イツキの匂い。もうちょい、甘さ盛っていこ!」

「盛りすぎは虫が寄りますわ」とルージュさんが笑って、蜂蜜を一匙だけ落とすみたいに、わたしの肩に手を置いた。

「ちょうどいい甘さ、が一番よ」


そのとき、温室の扉がこんと鳴って、小柄な女子学生が顔を出した。

「失礼します。学生相談室の者です。お約束のお時間に」

ミラちゃんから事前に共有されていた支援メニューの一つ。

わたしは立ち上がり、深く頭を下げる。

「よろしくお願いします」


面談は短く、実務的だった。

心の匂いという言葉は使わない。けれど、呼吸法や日々の負荷の調整、頼れる人の配置、学内での避難スポット。

「大切なのは、ひとりで抱え込まないことです」

「……はい」


扉が閉まると、ツバキちゃんからの通知が届いた。

〈該当グループに対し指導面談と警告。今後の行動に問題があれば処分〉

〈それと〉

〈白羽。必要なら、説明は私が引き受ける。貴様は、笑っていればいい〉


(……笑って、いられるように、してくれたのは、あなたたちだよ)


わたしは画面に指を滑らせ、短く返す。

〈ありがとう。みんなの分も、ミルクティーを淹れる〉


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夜。

七人で集まった小さなテーブルの上に、湯気が輪を描く。

ミラちゃんが資料の束を閉じ、ツバキちゃんが簡潔に報告を終えた。

「一件落着、ではない。これからも見張る。だが、今夜はここまで」

「お疲れさま」とわたしが言うと、六人の視線がやわらかく揃う。


「提案」とミラちゃん。

「定例のきもちのメモに、『対外ノイズへの対処ログ』を付録として追加。感情の共有と、事実の記録を分ける」

「賛成。情緒と実務は別腹だし」とコヨリちゃん。

「わたくしは、学術サロンでの公開トークを企画してみますわ。多様性をテーマに。噂話より、きちんと語られた言葉は強いですから」

「サラサは、保湿担当。全員の」

「頼もしすぎ」と笑うと、リラさんがわたしの腕にそっと顎をのせる。

「ひなた、いっしょ」


わたしは湯呑を置き、息を吸った。

心の匂いが、ゆっくりと部屋に満ちていく。

甘いけれど、くどくない。温かいけれど、熱すぎない。

今夜のためだけに調合した、七人のためのブレンド。


「……ありがとう。みんな」


わたしがそう言うと、コヨリちゃんが両手を広げた。

「はいはい、集合ハグの時間」

「わたくしのカップが倒れますわ」

「倒れたら、拭けばいいの!」

「拭くのは誰ですの?」

「ウチ」


わあっと笑いが弾け、やわらかな重みが重なってくる。

胸の奥の小さな火は、もう不安定じゃない。

それは焚き火よりもずっと静かで、灯台みたいに淡く、でも確かに、わたしたちの真ん中で燃えていた。


(守護者は二人だけじゃない。ここにいる全員が、わたしの守護者で、わたしも、みんなの守護者だ)


ハグがほどけたとき、ルージュさんが扇子を鳴らす。

「さて。明日からも日常ですわ」

「うん。わたしたちの、日常」


わたしは手首の白いリボンを見下ろし、そっと結び目を整える。

そして、小さく決めた。

(次の担当日は、みんなの好きな味を、もう一度ぜんぶ作ろう)


ミルクティーの湯気が、薄く伸びて、灯りに溶けた。

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