東の森の塔
昼の鐘が鳴り、街の空気が一瞬だけ止まった。
石畳を揺らすように響くその音は、秩序の合図だ。
「上級民のお通りだ――!」
衛兵の声が響く。
人々は一斉に道の端へ下がり、頭を垂れた。
誰もが胸にある数字を確かめるように、
自分の位置を思い出す。
“7”以上の刻印を持つ者たちは、胸を張って石畳の中央を進む。
金の刺繍が入った外套、磨き上げられた靴、
香の匂いが風に流れる。
“神に選ばれた者たち”――人々はそう呼ぶ。
レオンも立ち止まり、壁際に下がった。
だが、その時だった。
「――あっ」
腰の曲がった老人が、足をもつれさせて前に倒れた。
胸の刻印は“2”。
杖が転がり、老人は真ん中の通りに手をついた。
衛兵の顔が歪む。
「数字を見ろ。“2”が真ん中を歩くな!」
鋭い声とともに、鉄の籠手が振り上げられた。
乾いた音。
老人の体が地面に叩きつけられる。
誰も動かない。
それが、この国の“秩序”だった。
止めることも、助けることも、許されていない。
レオンの胸が強く鳴った。
気づけば体が動いていた。
「やめてください!」
衛兵の腕を掴んだ瞬間、視界が揺れた。
頬に焼けるような痛み。
鉄の拳がレオンの顔を打ち抜いたのだ。
「“4”が“8”に触るな!」
地面に崩れたレオンの上を、
衛兵は何事もなかったように通り過ぎていく。
誰も声を出さない。
ただ、石畳の上で老人の息だけが震えていた。
レオンは膝をついたまま、手を差し出した。
老人がその手を握る。
小さく、掠れた声が耳に届いた。
「……ありがとう」
その一言が、胸の奥でずっと響いた。
*
夕方。
街の赤い屋根が光を失い、
紅の塔が影を長く伸ばしていた。
その影の下を歩くとき、
レオンは無意識に胸の“4”を隠したくなる。
数字が、重く感じる。
それはもう、身を守る印ではなく、
自分を縛る鎖のように思えた。
足は自然と丘の方へ向かっていた。
紅の塔とは反対側――東の森。
日が落ちると風が冷え、木々がざわめく。
そこは、街の喧騒も数字の声も届かない場所だった。
レオンはよくここで考えごとをした。
数字って何なんだろう。
人の価値って、誰が決めるんだろう。
答えが出ないまま、風の音だけが耳を過ぎていく。
その日――風の中に、
聞いたことのない“呼び声”を感じた。
言葉ではなかった。
でも確かに、胸の奥で何かが囁いた。
――来い。
頭では否定しているのに、体が前へ動く。
森の方へ、導かれるように。
*
森の入口は、昼でも薄暗い。
木々の枝が絡まり、陽の光を拒んでいた。
湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
風が止まり、代わりに心臓の鼓動が大きく響く。
レオンは慎重に足を進めた。
枝が頬をかすめ、鳥の羽音が遠ざかる。
誰もいないはずなのに、
背後に視線を感じるような、不思議な静けさがあった。
森の奥へ進むにつれて、空気が冷たく変わる。
やがて木々の隙間から、塔が姿を現した。
古びた石の外壁。
蔦が絡まり、根が足元を覆っている。
壁の一部は崩れ、長い年月を物語っていた。
けれど――そこには確かに、何かが“生きていた”。
呼吸のように、空気が揺れていた。
レオンは手を伸ばし、石壁に触れた。
冷たさが指先から心臓まで伝わる。
まるで、塔が彼を試しているようだった。
崩れた壁の裏に、狭い裂け目があった。
人ひとり通れるかどうかの隙間。
「……行ってみよう。」
息をのんで身をかがめ、塔の中へ足を踏み入れた。
空気が変わる。
外よりもずっと冷たく、静かだった。
土の匂いと、わずかに鉄の味が混じっている。
目が慣れると、螺旋階段が見えた。
崩れかけた石段が、上へと続いている。
差し込む光が段をかすめ、
まるで導くように淡く揺れていた。
レオンは息を整え、
一段、また一段と上へ進んだ。
足元の石が軋むたび、
塔の中がかすかに鳴いた。
どれほど登っただろう。
上の方で、かすかな光がちらついた。
「……誰だ。」
低く、乾いた声。
その響きに、レオンの体が固まった。
光の先に、一人の男がいた。
白い仮面。右の片側が割れ、黒い布で覆われている。
灰色の外套に包まれ、机に向かって何かを書いていた。
「ご、ごめんなさい……。誰もいないと思って。」
「帰れ。」
男の声は冷たく響いた。
だが、そこに怒りはなかった。
言葉の裏に沈んだ“孤独”の色があった。
「ここ……誰も来ないんだね。」
「……それがいい。誰も来なければ、世界は壊れない。」
男は紙を丸め、手の中で潰した。
その音が、塔の静けさを裂いた。
「何を……書いてるの?」
「忘れるために書いている。」
「忘れる?」
「そうだ。覚えていれば、人は立てなくなる。」
レオンは黙ったまま、その横顔を見ていた。
何かを言いたくて、でも言葉が見つからない。
沈黙が、息よりも重く感じた。
「お前、名は?」
「レオン。」
「数字は?」
「ハートの4。」
男の手が止まった。
仮面の奥の目が、わずかに揺れた。
「……そうか。」
その一言に、言葉にできないものが詰まっていた。
レオンは胸の奥がざわめいた。
この人は何を抱えているのだろう。
なぜ、こんな場所で一人でいるのだろう。
男がペンを持ち直したその瞬間、
レオンは無意識に薬指で鼻をこすった。
男の動きが止まり、仮面の奥から視線が落ちた。
「……帰れ。夜になる。」
「また来てもいい?」
答えはなかった。
だが、男の肩がほんの少しだけ揺れた。
*
森を抜けるころには、空は藍に沈んでいた。
紅の塔の鐘が遠くで鳴る。
秩序を示すその音が、今日はやけに遠く感じた。
風が冷たく、指先が震える。
けれど、胸の中は不思議と熱かった。
――あの人、誰なんだろう。
その夜、レオンは眠れなかった。
塔で聞いた声が、何度も頭をよぎった。
冷たく、けれどどこか優しい声。
知らなかった。
あの日の一歩が、
自分の世界を変えていく最初の足音だったことを。
夜が明けても、レオンは眠れなかった。
塔で見た仮面の男の姿が、
何度もまぶたの裏で形を変えて現れた。
あの冷たい声。
「忘れるために書いている」――あの言葉。
何を忘れようとしていたのだろう。
数字では測れない“何か”が確かにあの人の中にあった。
それが気になって仕方なかった。
*
翌朝、学校へ向かう道で、ガイルとリリアに会った。
いつもの通学路、煉瓦の壁に朝の光が反射している。
「顔、どうしたんだ?」
ガイルが眉をひそめた。
頬の腫れがまだ残っていたのだ。
「転んだだけ。」
レオンは笑ってみせた。
けれど、ガイルは簡単に信じてくれなかった。
「昨日の広場で噂になってたぞ。“4”が衛兵に手を出したって」
「……そんなつもりじゃなかった。」
「つもりなんて通じねぇよ。あの人たちに逆らえば“秩序違反”だ。
下手すりゃ、働く権利を奪われる。」
その言葉に、リリアが息を呑んだ。
働けないということは、生きられないということ。
数字が生まれつき決まっていても、
その“立場”は、国がいくらでも奪えるのだ。
レオンは拳を握った。
「正しいことって、数字で決まるのかな。」
その一言に、二人が黙った。
ガイルは何かを言いかけて口を閉じた。
リリアは不安そうにレオンを見た。
「……レオン、変わったね。」
リリアの声はかすかに震えていた。
「そうかな。」
レオンは笑おうとしたが、笑えなかった。
*
放課後、ガイルと別れたあと、
レオンの足はまた東の丘へ向かっていた。
紅の塔の影が遠くに伸びている。
秩序の象徴であるその影の外へ出るように、
彼は森の方角へと歩いた。
木々の間を抜ける風が、どこか懐かしく感じた。
昨日と同じ――いや、昨日よりもはっきりと。
あの声が、確かに呼んでいる気がした。
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