第28話 戦術の盾と時空の実験

王国の北境、『死灰の峰』。冷たい風が吹き荒れる灰色の荒野に、数十万にも及ぶ魔王軍の隊列が、秩序だった行軍を見せていた。


ゼノス・ブレイドは、岩肌の陰で完全に呼吸を殺し、アレスから支給された観測器のレンズ越しに、その光景を静かに見つめていた。彼の全身は、最新の【強化コーティング剤】によって環境の干渉から守られている。


「隊列は計算通り、この尾根沿いの隘路を通過する。法則性は安定している」


ゼノスは思考を整理し、アレスの指令を反芻した。殲滅ではない。観測。


彼は腰に下げたポーチから、手のひらサイズの金属球体を取り出した。試作第一号【時空振動性:環境適応型トラップ(テレイン・シンク)】。その表面からは、わずかに周辺の空間を歪ませる、不可視の魔力の脈動が感じられた。


『ゼノス。君の任務は、トラップが発動した際の、空間と時間の干渉が、奴らの戦術体系に与える影響を観測することだ。設置座標、誤差零点で頼む』


数時間前の中枢室からのアレスの冷徹な声が脳内で響く。


「理解している。俺は、道具だ」


ゼノスは感情を排した声で、観測器に独り言のように記録した。


彼は素早く岩陰から飛び出し、高速移動で魔王軍の進軍路の法則性の中心点へ向かう。規格外の【強化コーティング剤】を施された彼は、魔物たちの観測網に触れることなく、三つの設置箇所へ正確に球体を埋め込んだ。まるで影が動いているかのような、完璧な戦術機動だった。


「設置完了。指令に基づき、作戦領域から五〇〇メートル離脱」


最後のトラップを設置して一秒後、彼は再び岩陰へと戻った。


その直後、ゼノスが設置した三つの球体が、同時に青白い光を放った。それは爆発とは異なり、光は中心点を起点に、進軍路の地面を飲み込むように、三次元的に空間を歪ませ始めた。


進軍していた魔王軍の先鋒部隊が、一瞬で混乱に陥る。


「グアアァァ!?」


先頭の巨大な魔物は、前進しようとした瞬間、足元の地面が突如として垂直の壁に変貌したように感じたのか、勢いを殺せずに転倒した。その真後ろにいた騎馬型の魔物は、進軍路の空間そのものがわずかに『捩れた』ために、方向感覚を失い、隣の味方と激突する。


【テレイン・シンク】は、物理的な破壊ではなく、空間の理を操作していた。魔王軍が頼りにしていた「進軍路の法則性」が、根本から破壊されたのだ。数十万の隊列の動きが、僅か一〇秒足らずで完全に麻痺した。


ゼノスは即座に観測データを収集し、アレスの中枢へと転送を開始する。


『空間干渉の影響を確認。進軍速度〇。隊列の秩序は一時的に崩壊。個体ごとのパニック度合いは、種族ごとに異なる』


彼は冷静に、目の前で起こっている現象を事実として記録した。湧き上がる武力による衝動は、もはや彼の心には存在しない。彼の命は、アレスの戦略を遂行するための『戦術の盾』に捧げられている。


---


自由都市ギルド総本部地下、『空間整備(ファクトリー・ゲート)』の中枢室。


膨大な観測データが、一瞬でアレスの端末に流れ込んだ。青白い魔力光の中で、リーナ・バローネは目の前の立体映像に映し出された北境の混乱を見て、驚愕に声を上げる。


「データ転送完了! やったよ、アレス! これは……空間が歪んでいる!? 魔物たちが完全にパニックになってるじゃないか!」


リーナは興奮を隠せない様子で叫んだ。殲滅は起こっていないが、魔王軍の隊列は立ち往生し、その秩序は完全に崩壊していた。


アレスは端末を操作し、ゼノスが記録したデータを分析する。


「論理的な結果だ、リーナ」アレスは冷静に断定した。「【テレイン・シンク】は、単なる爆薬ではない。空間そのものの硬直を一時的に解除し、進軍路の地形構造を三次元的に再構築する。魔物にとって、前進しているはずの地面が突如として『壁』になるか、『虚空』になるか、進軍ルートの法則性を破壊する」


「奴らの戦術体系は、硬直した空間と時間を前提としている。それを破壊すれば、論理的な混乱が生じるのは必然だ」


リーナは息を飲んだ。「殲滅目的じゃなくて、この混乱のパターンを分析するためってことかい? あんたの言う『世界の澱み』を揺さぶるために」


「そうだ、リーナ。僕が求めるのは、敵の戦術と、世界全体の環境データの収集だ。最初の空間整備は成功だ。このデータがあれば、奴らが空間的な干渉に対して持つ脆弱性が明確になる」


アレスは、別の情報端末に、より複雑な魔法陣を展開し始めた。


「しかし、空間への干渉だけでは、深淵のコアを撃破することはできない。『世界の澱み』は、時間と空間の硬直を利用している。僕の『世界整備』は、その両方を標的とする」


アレスは、新たな試作アイテムの設計図をリーナに見せた。


「戦略は次のフェーズへ。空間的な混乱に、時間的な停滞を組み込む」


彼の冷徹な瞳には、数百万の魔王軍を、盤上の駒として操作し尽くすという、絶対的な戦略家の確信が宿っていた。

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