E25

西へ傾いた光が港の金属を薄く掠めた。私たちは口数を減らし、歩幅だけを揃えた。昼の優しさは、陽が傾くほど色を変える。今日のような日は、すぐに値札へと固まりやすい。防波堤の先、三つ目の目盛り――帽子が言っていた座。そこは風目が一度変わり、人々が首を二度、余計に振り返る地点だ。


防波堤へ折れる手前で、ベビーカーの車輪が石の隙間に取られた。子どもが泣き出し、数人が同時に手を伸ばす。ミホが半拍早い笑みで掌を上げる。「ここは風が強いです。影の側へ回ってください。」手助けは向きを変えて返した。優しさが刃になるのは、いつだって「善意」が貼り付く瞬間だから。


王子は振り返らずに歩いた。顔を上げれば、水面のきらめきが視界を覆ってしまう。彼は歩道ブロックの微かな滑りを足裏で読むほうを選んだ。少女はフードを深くかぶり、私のそばを歩く。彼女の歩幅は昨日よりわずかに伸びていた。痛みが横目へ追いやられたせいか、あるいは海の匂いが近づいたせいか。彼女はしばしば立ち止まらず、代わりに速度を落として〈停止〉を作った。そのたびフードの縁がひらりと揺れ、ごく小さな合図を送る。〈ここ〉。


三つ目の目盛りが見えてくるころ、すでに人だかりができていた。折りたたみ椅子、三脚、レンズを拭く手。緑のベストを着た男が細いロープを張り、ラベル紙の札をぶら下げている。「シークレット・ステップ――本日限り2,000円」。ラベルの角が風に鳴るたび、あのラベル印刷所の冬の鱗が舌先をかすめた。私たちはあそこを訪ねたことがある。あのとき嗅いだ油の匂いが薄く巡る。


「写真は撮っていいですよ!」緑のベストが叫ぶ。「ただ、下りるなら安全ガイド同伴が必須でーす。料金がかかりまーす!」


彼の言う「安全」は、いつも価格の別名だ。私は帽子が残した細いガラス棒を手の中で転がす。中が空洞だという触感は指が覚えている。昼の雑音と埃と熱が封じられ、正しく傾ければ〈開き〉が現れる――春配に耳打ちされた手順だ。まず息、次に傾き、最後に言葉。


ミホがロープの前で立ち止まる。「そのラベル、粘着の製造元はどこですか。」


緑のベストが首を傾げる。「え?」


「風で剥がれる粘着か、水で余計に付く粘着か。安全を語るなら、そのくらいは。」ミホの笑みに刃先はない。あるのは鞘だ。人は鞘を見ると刃を想像する。想像はしばしば段取りより速い。ベストの視線が粘着面へ落ち、周囲の目が札をなめ、ロープの張りが一音下がる。その隙に、王子が手の甲でロープをそっと押し、〈道〉を一手幅ひらいた。


私たちが開けた道に、海風が漏れ入る。少女が肩を一度震わせ、フードの内側からガラスのペンダントを撫で出した。昼はガラス、夜は光。私はその前にガラス棒をそっと差し入れる。棒の表面が無言でひやりと震え、風の位相が半拍落ち、海の匂いが厚くなる。交替が始まったのだ。昼の言葉から、水の言葉へ。


「階段が出るんだって?」シャツの袖をまくった男が自撮り棒を高く掲げる。画面には陽と海と自分の顔。「今からライブで――」


王子がごく短く言った。「まず、目で見てください。足を先に動かさないで。」


「ガイドさん?」男が笑う。


「いいえ。今日は〈保存〉に来ました。」王子が「保存」という語を口にすると、声は高まらず、重みだけが浅く移動した。


緑のベストがロープを引く。「ここは当方の区画です。通行は――」


言葉が波に呑まれた。波ではないのに、波のような音が人々の足首をコツリと叩く。誰かが吸い、同時に誰かが吐く。吸うと吐くが噛み合い、防波堤の薄い水気が割れた。濡れない線が現れる。水が水を押し退けて作る道。階段の縁だ。


前のめりに人波が寄る。私たちは背筋を伸ばして立ちはしない。角度を変え、横に構える。正面を塞げば、優しさは反発へ変わる。横に立てば、優しさは停止へ変わる。ミホがごく短く、しかし明瞭に言う。「足は後ろ。目は下。」


階段の一段目は陸の階段より低い。〈下りる〉というより〈沈む〉に近い。私はガラス棒をもう少し傾ける。棒の中に閉じ込めていた昼の雑音が薄く流れ出し、段の表面を舐める。昼は水の名を知らない。だから混ざれず、表を走る。その流れを見ながら、私たちは〈ここ〉の深さを読む。


「こんなの、売れるのか?」自撮り棒の男が低く呟く。「下り道を。」


「売れるけれど、長持ちはしません。」私は言う。「事故のせいじゃなく、値が先に腐るから。」


緑のベストがジッパーを上げ下げする。緊張の癖だ。「さ、では――ご希望の方?」


そのとき、少女が私の袖を軽く引いた。指先が二度、そしてもう一度。〈いま―じゃなきゃ―下りない〉。彼女は前を指さず、横の海を指した。〈人ではなく、水が先〉。私は頷く。


「今は海が先に下ります。」私はベストに静かに告げる。「人はその次。」


「誰が決めた?」緑のベストが歯を見せる。「あんた?」


「水。」王子が代わって答えた。一音の名詞で足りた。


階段は二段目まで露わになった。陽が水平線の上で細く震える。誰かが息を止め、誰かが糸を巻く。少女がペンダントを掌に開いた。長く澱んでいた光が軽く動く。夕映えではない。夕映えを通り抜けた水の光だ。


私はガラス棒をペンダントの上にそっと触れさせる。棒とペンダントが互いの薄さを確かめるように一度震え、少女はその震えを頭頂へ上げた。肩が落ち、焦点が水面からつま先へ移る。その瞬間、最初の足をどこに置けばいいかが、彼女の身体の内側で〈知られた〉。言葉で教わらずに済む類の座。私たちはそれを「アンカー」と呼ぶ。今日は、そのアンカーが〈帰還〉しようとしていた。


「お待ちください。」ミホが群衆へ柔らかく手を伸ばす。「私たちは場面を惜しむ派でして。」


「場面を惜しむ?」自撮り棒の男がクスリと笑う。「面白いね。」


「そうしないと、終わってから残らない。」ミホが片目をつむる。「でないと、今日上がった動画が明日の階段を食べますよ。」


緑のベストが半歩踏み出す。ロープが揺れ、同時に階段の縁が消えた。いや、消えたのではない。薄いガラス膜のように斜めへいなした。彼は空を踏み、空は彼を落とさなかった。ただ足首を元へ返しただけ。彼は尻もちをつく。


笑いが漏れた。私たちは笑わない。笑いが混ざると、海は悪戯をする。悪戯はたいてい高くつく。王子が身を屈め、ベストの肘を軽く支える。「後ろを見ないで。地面を見て。」


ベストが悪態を飲み込む。「ち…」


「口から先に下りると、足が道を失います。」王子の言葉は昨日より短い。短いほど、遠くへ届く。


陽がもう一手、沈む。三段目まで姿を見せる。流れではなく、水の文。少女が一歩前へ出る。足首が震える。痛みが左へ少し寄り、右へ少し退く。彼女は左手を折って胸の前に置き、右手でペンダントの紐を握る。動作が終わると同時に、彼女の足は一段目に〈上がった〉――〈下りた〉のではなく。


海がごく薄く息を吐いた。その息が彼女の足の甲を一度撫でる。私はガラス棒をさらに緩やかに傾ける。棒の中の昼の雑音が抜け切ると、棒はもう震えない。代わりにペンダントが細く鳴った。ガラスの啼きは水とも金属とも異なり、人の喉の奥をくすぐる。少女の唇が、ごくわずかに開いた。


「――ここ。」息のような声。音符というより〈座〉に近い。彼女は言葉より先に座を語る法を学んだ。いや、思い出した。アンカーが〈名〉を取り戻すのは、いつでも音より座に近い。


その一音が階段を変える。縁は鮮明になり、濡れない水跡がふくらんでは沈む。緑のベストが思わず息を呑む。自撮り棒の男が画面を下げる。〈今は撮るときではない〉という理解は、説明より速い。


帽子がいた。いつからかはわからない。帽子を目深にし、ロープの外の影に立って、正面を避ける眼差しでこちらを見ている。彼はポケットから何も出さない。今日の彼は、本当に手ぶらだった。ときにそれ自体が「印」になる。


少女は二歩目を載せる。目に涙が浮かぶ。痛みの涙ではない。〈得たもの〉が〈失ったもの〉をそっと抱くときに出る類い。彼女は振り返らない。〈振り返り禁止〉の規則を知るからではなく、今日に限っては前を先に見たいから。それが今日、私たちが結んだ契約だ。契約書を広げはしないが、皆が知っている。


私はガラス棒を下ろし、帽子の足元に立てかけた。彼は訝しげに、ほんのわずか首を傾ける。


「下りられない人が多い。」私は言った。「今日は、下りるべき人が先に下りられるほうへ契約を取ります。金ではなく、記録で支払う。」


帽子は口角だけ動かした。「記録は高い。」


「高いから、保つ。」ミホが応じる。「束の間の金より。」


王子がロープをもう少し広げる。手の甲が軽く揺れ、人々の足がゆっくり止まる。「下りるのは一人。案内はしません。〈下りた〉という事実だけが、今日のすべてです。」


自撮り棒の男が頷く。緑のベストは唇を噛む。指がラベルの角をいじる。風がもう一度ラベルを揺らし、札はロープから外れて足元へ落ちた。裏の粘着が日差しに鈍く光る。彼は拾い上げなかった。


少女は三歩目を載せる。海はその足を押さない。少し身をずらし、座を明け渡す。肩がもう一度落ちる。落ちることがそのまま〈上がる〉だと、今は少女だけが知っている。私たちは、その感覚を借りて読むだけ。


――そして、彼女は止まった。四段目の前で、彼女はごくゆっくり横を向く。〈一緒に〉の合図だ。王子が前、私が横、ミホが後。私たちは段に足を載せない。けれど、載せる人の影に足を合わせる。影に重さはないが、方向はある。方向が崩れると、階段は水へ還る。


少女は最後の一段を下りた。確かに下りたのに、私たちの鼓動は一度、上がってから落ちた。彼女が足を海の〈最初の底〉へ置いた瞬間、金属片のような微振が防波堤全体を薄く撫でる。ガラスのペンダントがきらりとした。きらめきは〈ひらめき〉と違う。ひらめきは注目を集め、きらめきは座をつくる。


少女が浅い水の中でこちらを仰ぐ。唇がもう一度開く。さっきより少し長い。風はその言葉を食いちぎれなかった。


「……待ってて。」彼女の声。声と呼んでよければ。水に濡らしていない音は初めてで、私たちは互いの顔を一瞬だけ確かめ合う。言葉ではなく座から生まれた音だった。


誰かが拍手しかけて、止めた。ミホが親指をほんの少し立てて、その停止を誉める。拍手は場面を食う。食わせるべきは、今日の場面ではなく、今日の値だ。


少女が身をかがめ、底を一掴みすくった。水ではない。濡れない砂だ。彼女は砂をペンダントの内側へそっと触れさせる。ガラスは砂を受け取らないが、砂の〈重さ〉を覚える。アンカーは、そうやって固定される。


帽子がつばを押さえる。正面を向かない。それが彼の礼だ。「今日は、あなたたちの勝ちですね。」


「誰かが負けたら、海が負ける。」王子が言う。


帽子が小さく笑う。「文の値で払いましょう。今日は。」


人々は少しずつ散っていく。写真を撮る者、棒を畳む者。緑のベストはラベルのロールを出したり仕舞ったりし、結局丸めたまま手に持って突っ立った。こちらを見ない。代わりに海を見た。それが今日、彼に許されたすべてであり、それで足りた。


陽が水平線に似た線の上へ最後の一本指を残し、ついに沈む。階段は水へ還る。濡れない線は夜の文へ裏返る。少女が戻ってきた。水から上がった足が、床の埃ではなく、まず空気を踏む。足首がおとなしく震えた。痛みは今日一日ぶん、後ろへ退いた。


「さて、」ミホが低く言う。「保管しよう。」


私たちは半拍遅れて踵を返す。帰り道は来た道と同じではない。行き来が違えば違うほど、元の座へ戻るやり方は正確になる。ガラス棒は帽子の足元に置いていった。彼は拾わなかった。風が一度だけ棒の表面を舐める。中にはもう何もない。昼の雑音は抜けきり、その空白は夕べの息で満たされた。


図書館へ戻る道すがら、人々は声を掛けかけて、やめた。ミホは言葉の代わりに頷きで道を明け、王子は手の甲で速度を変える。少女は話さない。代わりに、ゆっくりと息を吐く。その息は、今日の記録よりも正確だった。


戸口に春配がいた。私たちを見ない目で、見る。そういう目のほうが、よく見る。彼が言う。「生きたまま戻ってきたね。」


「今日は――そうでした。」私は答える。帳面が開く。枠は相変わらず簡素だ。日付、座の略号、そして一行。長い文は避けた。今日の一行は、少女が選んだ。彼女は鉛筆を握り、しばらく宙を探ってから、紙にごく短く記した。


「待ってて。」


その一行は、驚くほど、もはや頼みではなかった。契約に近かった。誰かを待たせること、あるいは誰かのために待ってやること――支払う側はいつだって互いで、だから長く保つ。


外では風が一度だけ向きを変えた。昼は完全に畳まれた。私たちは息を合わせて腰を下ろす。水面はもう湯気を立てず、ガラスのペンダントは静かに光をしまった。少女が掌でガラスを覆う。温かい手だった。その温かさは、長持ちしそうに思えた。今日のようにだけ、値を払い続けられるなら。そして――私たちは、そのつもりだった。

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