E24
引き出しの内側の空気は、海のように古かった。木の息と塩気が重なり、鼻先で重たく落ち着く。手を深く差し入れはしない。ここは私たちが作った場ではなく、借りて使う座だから。先に使い、あとで記す——こちらのやり方はいつもそうだ。
少女が引き出しの縁へ身を傾けた。痛みは相変わらず戸口の外に立っている。王子は一歩うしろで背を伸ばし、指先で椅子の背の木目をゆっくり撫でていた。今日は言葉を減らし、そのぶん多くを「読んで」いる。ミホが書類挟みの代わりに、厚手の模造紙を私の前へ押しやり、鉛筆を二本と細い黒鉛スティックを並べた。
「まず座を写そう。」ミホが低く言う。「文をそのままではなく、押し痕の順番だけを持ち出す。」
私は引き出しの底を手の甲で一度撫でた。見えない波紋が破片めいて散り、また集まる。手の甲を模造紙に置き、黒鉛を寝かせて擦る。目に見えなかった溝が、少しずつ姿を現した。曲線ではなく、速度の変化。濡れない水跡が残すS字の軌道が、紙の上にゆっくり浮かび上がる。
少女の眉がほんの少しだけ上がった。彼女は紙のいちばん浅い縁を指で二度、コツコツと叩く。〈ここから〉の合図だった。言葉の代わりに、その二度で足りた。
「これを昼の文字に変えなきゃ。」私は言った。「夜の文のまま持ち出すと、優しい言葉が張り付く。」
王子が頷く。「優しさが刃になるって、さっき腑に落ちました。」
戸の外で、誰かが乾いた咳をした。柱越しに春配が顔をのぞかせる。「お茶を二つ持ってきましょうか。」彼は、正面から見ない癖を忘れない。
「ありがとう。でも——」ミホが手を上げた。「今日は水で。ぬるいの。」
春配は消えて、戻ってきた。縁までこぼれないよう、きわめて慎重に。彼はコースターを本棚の空きに置きながら、低く投げるように言った。「中に長くいた匂いは、外に長く置いても消えませんよ。」
その一言で、私はしばし鉛筆を止めた。少女はカップを両手で包む。思ったより温かい手だった。水面にほのかな湯気が立ち、すぐにやむ。
「続けて。」ミホが私の鉛筆を指す。「速度を、言葉に。」
私は黒鉛の面をさらに寝かせ、S字の一つひとつのうねりに、短く端正な語を添えた。〈止〉〈滑〉〈石〉〈軽〉〈深〉。語という殻を被せるのではなく、足の感覚を紙に立てるように。少女はその隣に、自分だけの印を加える。小さな点。点と点の間合いが、彼女にとっての距離だった。間が狭くなるほど、痛みは横目へ退く。
王子が手で鉛筆を求めた。渡しながら尋ねる。「あなたは何で書きます。」
「息。」彼は答え、自分の行にごく浅い線を一筋、もう一筋引いた。吸う道、吐く道。その上に小さな印を二つ残す。「ここで一緒に休もう。」
ふっと可笑しさがこみ上げた。引き出しの前で息を合わせる——聞けば滑稽だが、今日に限っては的確な提案だ。少女がゆっくり頷く。フードの縁が、その頷きのぶんだけ揺れた。
戸がまた開いた。今度は春配ではない。港湾局の徽章を付けていない「帽子」——昨夜の彼が、軽い咳とともに敷居で止まった。今日は手に何も持っていない。空の手は、ときに多くを隠す。
「図書館まで付いてくるとは思わなかった。」ミホが椅子の向きを少し変える。
「付いてきたんじゃない。」帽子が言う。「ここが、私のほうが好きなだけ。」
彼の視線は相変わらず正面を避けて流れる。その一点だけは認めた。礼を守るほうが、危険が少ない。彼が一歩、内へ入る。王子がわずかに身を乗り出し、道を塞いだ。言葉は発さずとも、〈ここ〉が厚くなる。
帽子は足を止め、笑った。「昨夜言ってた『引き出しの引き出し』が、これか。」
「ここは引き出しじゃなく、座です。」私が言う。「それに今は——誰かの喉が休む時間。」
「その誰かの名は、まだ知らない。」帽子が半ば囁く。
「知らないから書けるの。」ミホが受ける。「名を上げると、座を奪われやすくなるから。」
帽子が首を仰ぐ。「いいでしょう。今日は印は持ってこなかった。空手で来た理由は一つ。昼の値。」
その一語が空気を押した。王子がごくゆっくり息を吐く。少女がコップを置いた。コースターが本棚に軽く触れる音。春配が外で身じろぎを止める。
「値は、もう決めたはず。」私が言う。「優しさを横へ流すこと。今日一日。」
帽子が頷く。「それを、あなたたちがやれるか見に来た。」
言い終えるより早く、戸の外から最初の優しさが滑り込んだ。「あの、大丈夫ですか?」まだ若い声。春配の事務的な防風をすり抜けた、自習室を見に来た中学生くらいの調子。
王子が先に動いた。敷居へ半歩。「大丈夫です。資料の整頓中です。」
「お手伝いしましょうか?」二つ目の優しさ。今度は若い女性の声。親切で、速い。
「今日は静かにする日です。」ミホが笑みを口にのせる。目は笑わない。「手伝いたい気持ちだけ、ここに置いていって。」
「まあ、顔色が白いから……」三つ目。机にウェットティッシュを置く音まで添えて入ってくる。中年の女性。掌の小さな温情が近づく。
私は席を立ち、戸口へ二歩。ごく低く、しかし明瞭に言った。「ありがとうございます。この部屋は湿りを嫌うんです。お気持ちだけいただきます。」
優しさの波が、背中の本棚と引き出しを一度撫でて離れていく。戸口で帽子が、その流れを黙って見ていた。優しさが刃に変わらぬよう、私たちが角度を変える過程を、彼は理解していた——少なくとも、理解してみせた。
「悪くない。」帽子が言う。「でも昼は長い。午後も同じ調子でいけますか。」
「長いのはこちらでしょう。」王子が淡々と返す。「短くなるのは、優しさのほうです。」
帽子が小さく笑った。「夜にはない自信だ。」
「夜は確かめ、昼は確かめさせる。」ミホが語尾を切る。「見物以外に、用件は。」
帽子はしばし口を閉ざし、腰から細いガラス棒を取り出した。首に欠片を下げたあの女のものに似ていて、もっと細く冷たい。彼は棒を私の机の端に立てかけ、一歩さがる。
「案内。」彼が言う。「今夕、西の防波堤の三つ目の目盛り。日が落ちきる直前。『階段』が現れる。あなたたちが処理しないなら、誰かがその階段を人に売る。海へ降りる階段は、昼がいちばん高い。」
それ以上、説明はなかった。それが脅しか、警告か、浅い好意か、判じがたい。彼はガラス棒を立てたまま帽子を押さえ、背を向ける。去るときも私たちを正面から見ない。戸が閉じると、春配が長く息を吐いた。
「どうしてあいつは、手ぶらのふりして、こういうものを置いてくんだ。」彼がぼやく。「ガラスはこっちの味方だ、今日は。」
私は棒を掲げ、光に透かす。中は空洞だ。薄い空気の層が揺れる。海の匂いはしない。代わりに道路の熱、電柱の埃、昼の雑音が閉じ込められているようだった。
少女が私の手から棒を受け取る。自分のほうへわずかに傾ける。彼女の息が棒の内側へかすかに染みた。表面が一度だけ震える。彼女は棒を立て直し、私に返した。言葉の代わりに、その震えで足りた。——〈夕方、行こう〉。
私たちは紙を畳んだ。点と線、息と止めを記した模造紙が、四つに折られて小さな長方形になる。私はそれを引き出しの内壁にそっと差し込み、半分だけ引き戻した。〈ここ〉の写しは、〈ここ〉に半分かかっていなければならない。そうでないと、昼と夜のどちらかに丸呑みされる。
春配が帳面を持ってくる。「変換記録。」簡単な枠だけの古い書式を開いた。今朝の私たちは、夜の文を昼の文字に変えた。ならば変換者の名と時刻、場所の略号、そして一行。一行は〈契約〉だった。飾り立てた文は書かない。長い句を添えると、昼がその句をポスターにしてしまう。
私は短く記した。「ここで生まれた言葉は、ここへ戻る。」日付、B-2、西の縁、S。署名ではなく、今日の座の名だ。ミホも同じ調子で書く。王子は空欄に小さな点を一つ。少女は何も書かなかった。代わりに紙の縁に指先を一度当て、離す。春配が頷く。それが署名より正確だと、彼は知っている。
外に出ると、廊下の床がごく薄く濡れていた。濡れていると言い切れるか迷うほど薄く。陽が斜めに差し、その薄さを浮かび上がらせる。床にS字の軌道があった。紙に写したそれに似て、同じではない。ここの〈ここ〉が、一度、こちらへ話しかけたのだ。
「ゆっくり行こう。」ミホが言う。「優しさを流したぶん、脚が少し重くなってる。」
私たちは図書館を出た。昼は長い。だからといって、私たちの速度まで長くする必要はない。干物屋の銀粉は、いっそう明るい。電柱の紙は日向で乾き、少しずつ白へ戻っていた。その紙の隅が、人の横顔に見えて、すぐ紙へ返る。
角で、アイスを持った子が見上げてくる。「おいで。」母親が手を振る。子が私たちの脇を通るとき、少女はごく小さな会釈で、その子の濡れた靴を避けて歩いた。その会釈に、私は安堵のようなものを覚える。座を読む者は、いつも「他人の足」も一緒に読む。
正午を少し過ぎ、港の風がかすかに向きを変えた。私たちはその馴染みを聞き分ける。「夕方に階段が開く」という言葉は、昼から準備を始めるという意味だ。王子が側溝の蓋に半歩をのせる。鉄は鳴らない。彼は蓋の脇の小石を、その場でわずかに回した。その下に、ごく薄い刻みがあった。昔、誰かが残した〈ここ〉。その人がどんな名で呼ばれたかにかかわらず、私たちはそのやり方に感謝すべきだ。
「日が落ちるまでに。」私が言う。「優しさの角度を保ち、足を休ませ、言葉を節約。」
「それから。」ミホが添える。「誰かが値札を付けに来たら、先に座の皺を見せて。海は札を嫌う。」
王子が笑う。「僕も嫌いです。」
私たちは散らばらない。V字のまま、中央の余白を広げた。昼の言葉がぶつかってくると、順番に前へ出た。軽く会釈し、短く頭を下げ、正面を避ける。優しさは刃になる機会を失い、そのまま空気の中へ消えた。
陽が西へ伸びるほど、灯台の鐘の響きが少しずつ違って聞こえる。同じ鐘でも、光の長さが変われば、鳴りが変わる。西の防波堤の三つ目の目盛り——帽子の残した言葉が、耳の内側で寝返りを打つ。私たちは図書館の前で一度止まった。春配が戸口に立ち、こちらを見ない目つきで見た。
「夕方に。」彼が短く言う。
「夕方に。」私が受ける。
少女がフードをひと握り深くかぶる。つま先が一度、床を読む。〈ここ〉から〈そこ〉へ行く道は、いつも同じではない。だが今日に限っては、同じでなければならない。私たちはゆっくり、しかしためらわず、港へ向けて足を返した。
夏の抜けきらない風が、午後の匂いを載せて吹く。笑い声、長靴の水気、釣り竿の金属音が薄く混じる空気。優しさはまだ残っているが、その角度はもう知っている。日が傾き、水の言葉がまた長くなれば——そのときは海が先に話す。私たちは水を聴き、足で書き、あとでようやく記す。
今は——歩いた。それが今日、私たちが支払う値であり、受け取る契約の一行目でもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます