E12

「踏み越えないで。」

声より先に手が出た。子どものつま先が赤い線の手前でピタリと止まる。線を踏んだのは子ではなく、私のスマホだった。

〈今すぐ「はい」と言えば——〉

ポップアップが画面を覆った瞬間、耳朶に濡れない息がかすめた。

「あなたの声を…借りてもいい?」

床の水跡が私の影の上でS字を描く。ルシアだった。


私は親指を画面から外し、息を長くひとつ抱えた。

今は——いいえ。

短い無音が線のように床に敷かれる。子のつま先も、私の心臓も、その上で止まった。



水族館ではユナが冷蔵庫の上のキャンディ袋をトントン叩き、ひと粒を私の手にのせた。

「人の名前を取り戻す日、半分は禁止。」

「そんな規定、どこにあるの。」

「今できた。」

ユナは私の顔色を横目で盗み見て笑う。

「緊張してる?」

「半々。」

「じゃあ語尾に六つのコンマ。二歩は基本。」

私たちはいつもどおり、冗談みたいに原則を確認した。身体がリズムを覚えていれば、足はそう簡単にすべらない。


退勤スタンプを押して道を渡りながら、ラミネートカードの角を親指で押した。

二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。

ガラスのロビーを薄い曇りがかすめた。正面から見ればただの曇り。それが今日は救いだった。


地下へ降りて落とし物室の前に立つと、ミホとチュンベ、塩水がもう来ていた。机の上には薄いスプールケース、小型再生機、折りたたまれたルシア岬の図面がきちんと揃っている。

「まず手順の確認です。」とミホ。「呼称確認 → 自己呼称の誘導 → 復権(あれば)。原則は三つ。強制禁止/質問優先/結論は昼。」

「線は今日は三重。」とチュンベがチョークを持ち上げる。「人の名は、風にもっと強く出入りする。」

塩水が騒音計を軽く振って付け足す。「昼は外部の要求が親切なふりをします。入れてしまうと——」

「今は——いいえ。」私は先に割って入った。

「いいね。」塩水が笑う。「トーンが決まってる。」


扉を開けると、ドライヤーの低いハミングがうなじをくすぐった。作業台にアクリルの席を二枚、平行に置く。左に帰る席(アンカー)、右にとどまる席(待機)と小さく貼り札。二つの席のあいだの床に赤い線を細く引いた。正面では埃に見え、横目にだけ艶が立つ線だ。


昨日から待機の封筒を席の前に立てる。ピン(半)/ボタン(半)/鱗(半)。それぞれの下に赤い点。ミホが〈名前の復権——帰還/待機案内〉カードを差し出した。表には四行の約束——名の返還への招待/選ぶのはあなた/中止・確認はいつでも/私たちは強制しない。


私はまず一行を座らせる。

今は——“人”の名を席へ招く。そして——私たちから先に呼ばない。

ハミングが半拍なめらかになる。ピン(半)の封筒がごく細くコトンと鳴った。


「呼称確認。」私はラベルをはっきり読む。「ピン(半)。ボタン(半)。鱗(半)。」

ミホの視線が「進め」を示す。

「ピンから。」

ポケットのヘアピンがコトン——コトン。舌根に母音が一つ貼りつく。……ル—

「ボタン。」

穴の影がひと呼吸するように変わる。—シ—

「鱗。」

音はなく、そのかわり光が波のように遅れた。語尾のように薄い**—アが照度の縁で揺れる。三つの向きが同じ一点を指している。——それでも合わせない**。合わせるのは署名とともにやって来る。


廊下でトンと音。風向きが変わり、濡れない雨の匂いが薄く押し込まれる。ミホが低く囁く。

「正面禁止。横から迎える。」

扉の隙間がほんの少し開き、先に水跡が入ってきた。濡れないのに確かな艶。S字に一度しなって壁をなで、赤い線の前で止まる。つづいて靴——白いゴムの運動靴。濡れていない。足首には勤務服の裾がきちんと落ち、裾のボタン穴がひとつ空いていた。髪は耳朶をかすり落ち、わきに小さなピン跡の瘢痕がきらり。最後に手——小さな指先に鱗の半片の光が稲妻のようにかすめ、薄れた。


私は正面を避け、横目で彼女の艶を確かめながら一行を貼る。

今は——あなたを席へ招きます。そして——私たちから先に呼びません。

彼女の息が半拍遅れて入った。4-4-6。鍛えられた呼吸だ。扉の外で塩水が静かにサムズアップし、チュンベは私のつま先が線に触れないよう顎で角度を合図する。


「手順は簡単です。」ミホが現場のトーンで説明する。

「呼称を確かめ、あなたが先に自己呼称を見せ、そのうえで望むなら名前を取り戻す席に署名します。いつでも中止できますし、今日はとどまる席を選んでもいい。」


彼女の指先が〈名前の復権——帰還/待機案内〉カードの角をそっと撫でた。表面に濡れない水跡がごく薄く立って消える。読了のサインとして十分だった。


私はピン(半)の封筒をとどまる席へ、ボタン(半)の封筒を帰る席へ、鱗(半)の封筒を赤い線の上へ——それぞれとてもゆっくり押しやった。私が動かしたようでいて、実のところは席のほうから静かに引き寄せたかたち。三つの封筒の艶が互いの影を似ていく。


先に動いたのは彼女だ。髪を耳の後ろへ払ってピン(半)の封筒に手を置く。中で小さなコトン。ハミングに混ざって言葉の形に聞こえた。ほんのわずかに頷く。ここは——とどまる席。

つぎにボタン。彼女は勤務服の裾の空いた穴を一度なでる。封筒の半片の影が図面の階段記号に重なり、丸く揺れた。ここは——帰る席。

最後に鱗。線上の封筒を掌でそっと押すと、帰る席のほうへ半歩すべって止まった。昨日、水路のループを断っていなければ不可能だった流れだ。


「いいですね。」ミホが小さく息を吐く。「では今度はあなたのやり方で自己呼称を。」

彼女は言葉の代わりに、作業台の埃の木目の上に三つの点を置いた。……ル—/—シ—/—ア。 点と点のあいだの艶が、見えるか見えないかの細さでつながる。——それでも合わせない。合わせるのは署名とともに来る。


ミホがカードの裏面を開く。

「今日の選択を記し、望むなら名前を取り戻します。今日は取り戻さなくても構いません。」

彼女はペンをとった。ペン先が紙に触れてコツと軽い音。まずとどまる席の欄に丸。小さな字が添う。待機——ピンの席。 ついで帰る席の欄に三角。予備帰還——ボタン/鱗。 そして「名前」の横にごく小さな点をひとつ。彼女がこちらを見る。その点は**「今は——保留」**だった。


私は証人署名欄にハルと小さく書いた。ミホも隣に名を置く。インクが乾かぬうちに、私はそっと尋ねた。

「私たち、あなたを**『ルシア』と呼称しても大丈夫? それとも今日は別の呼び名のほうが……」

彼女はカードの「呼称」の横に小さく書いた。呼称:ルシア。 その隣にもう一つ点**。確定保留(名前は明日)。

「よかった。」私はうなずく。「呼称はルシア。名前は——明日。」


彼女が長く息を吐いた。最後の拍で、ごくかすかな**……アが耳ではなく舌根に先に触れた。ラもウ**も来ない。正確だった。


そのとき、廊下の奥からきちんとしたシャツの男が影のように現れた。PRINCE SARDINESのロゴ入りパンフ、手のひらサイズの小型スピーカー付き。

「UXアドバイザリーです。現場インタビューを少しだけ。選択を後悔しないため——」

「協約第9条。」ミホの声がガラスみたいに切れる。「外部の要求文は現場提示不可。案内物は照合室へ。」

男は笑みを崩さぬまま私をなぞる。

「ひと言で“即時”を差し上げます。今がチャンス。」

私のスマホがその語尾に合わせてトンと震えた。〈今「はい」と言いさえすれば——〉

私は親指を遅らせ、入力欄に一行だけ。

今は——いいえ。

無音が戻る。その無音が線を固めた。


ルシアは顔を上げず、ヘアピンの跡を指先でそっと押した。ごく低く、しかしはっきりした文がついてくる。

「言葉を……貸してはくれないの。」

男の笑みがようやく揺れた。彼はパンフをテーブルに置いて退く。塩水が機材を撫でながら短くまとめた。

「侵入試行——遮断。」


静けさが戻ると、ミホはカード下部に波線の小さな印を押した。

「今日の決定。とどまる席=待機。帰る席=予備。名前=保留。呼称=ルシア。」

葉書ほどの図面の上で、ボタンと鱗の封筒が「帰る席」の縁に並び、ピンの封筒は「とどまる席」の真ん中に静かに腰を下ろした。


戸を閉める前に、私はもう一度、言葉をつかんだ。

「ここ、“とどまる席”……残っていてもいいよ。」

ルシアはごく小さく首を振り、カードの余白に点をひとつ。今は——いいえ。 そして敷居でほとんど聞こえない息で一行を残した。

「明日——問おう。」

私は同じ文を内側で最後までつかんだ。

「明日——問おう。」


明かりを落として片づけていると、テーブルのパンフに付いた小型スピーカーが、ごく微かに点滅して点いた。誰も触れていないのに、部屋の空気がひと寸沈む。

……

最初の一文は私の声だった。 たった今、私が送ったあの文——呼吸の長さまでそのままに。

今は——いいえ。

そしてすぐ、二つ目が続いた。今度はもっと短く、もっと深い。

「……ハル。」


スピーカーが、私の本名を呼んだ。

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