E11 —— 席を先に敷き、名は明日

退勤スタンプを押して信号を待っていると、ラミネートカードに触れるより先にスマホが震えた。

〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——今「安全な結末」を提供します。音声入力なしで可。

画面の真ん中を赤い線が細く二度かすめる。予測変換みたいに落ちていく親指を二歩遅らせ、先に一行を座らせた。

今は——いいえ。

送信。無音。無音は席だ。


地下の廊下にはすでにミホ、チュンベ、塩水が集まっていた。机の上には薄いスプールケースと小型再生機、折りたたんだルシア岬の図面がきちんと揃っている。ミホが短く言う。

「順番を替えます。今夜は場所(ルシア——岬)から先に帰還。人(ルシア——見習い)は昼に復権。そのあいだに——Bブロック前の水路で軽微浸食が一本。要約すると、『安全』じゃなくて**『即時』だけを反復する要求文ループ**。」

塩水がうなずく。「ループを切って、まず席を作る必要があります。」

チュンベがチョークを持ち上げて笑う。「線は今日は二重で開始。夜は三重だ。」


水路は水族館とBブロックの間の浅い流れ。風は塩辛い息をし、誰かが捨てた販促パネルが手すりに寄りかかって光った。王冠と水滴のロゴ。昨日の箱でも見たPRINCE SARDINES。パネルの下に付いた安物スピーカーが囁く。

「今——言え——イエス——なら——今——」

音節ごとにリムがのび、隙間ごとに甘い匂いが薄くひろがる。


チュンベが手すり内側の床に赤い線を二重に引いた。「ここからが人の線。」

塩水は再生機ではなく騒音計を当て、指標をなぞる。「反相ノイズ。自然音じゃない、要求が電波のループに乗ってます。」

ミホが私を見る。「一行。」


私は語尾をつかんで長く押さえた。

今は——聴くが、貼らない。そして——人を先に守る。

風がひと息止まり、また吹く。線の外から子どもが二人近づいてくるのが見えた。私は正面を避け、横目だけで靴紐、影、足首の速度を確かめた。引きずられてはいけない。


そのとき、パネル下の水の割れ目から、ごく小さなきらめきが一つ浮かんだ。昨日、防波堤で見た濡れない水跡と同じ薄い艶。私はトングを線の内側から長く伸ばす。最初は空、二度目は岩角、三度目にコツン——軽く引っかかった感触とともに、何かが指先に上がってきた。

透明袋にのせてみると鱗(半)——貝ではなく、ガラスのように薄い半身の鱗。表面の水模様ははっきりしているのに、指先は濡れない。

「呼称:鱗(半)。」ラベルを貼り、二歩下がる。


スピーカーのトーンがすぐ変わった。

「今——今——今——」

一語へと絞られた要求。ミホが手振りする。「席。」

私は線の内側の床に短いチョーク線を引き、その上に袋を置く。もう一行を敷いた。

今は——人を“線”で守る。そして——要求は外に置く。

線が生きた。二人の足が線の前でトンと止まり、大人の手が子の手首をつかみ直して二歩下がる。要求は線を越えられない。席が勝った。


「回収終わり。」塩水がパネルの電源をトンと落とす。「ループ遮断。」

「報告書には『軽微浸食——要求文ループ——線で遮断——鱗(半)回収』。」ミホが手早くまとめる。「よし、アンカーへ。」


夕映えが海を薄く削っていた。防波堤の手すりのゴムパッドが風をトントン受ける。チュンベは赤い線を三重に増やし、私の足を線の内側へコツと押し戻した。

「語尾をつかめ。言葉は長く、文は短く。」

「安全は退屈であって安全。」と受けると、二人とも笑った。


図面を手すりに広げ、塩水がシールド再生機を起動。昨日「雑音」に分類されたスプールから4-4-6の呼吸が先に出る。風がうなじをしょっぱく掻く。私はガラス(半)の袋を図面の灯標の印の上にそっと重ね、一行を貼った。

今は——“歌の欠片”を席へ送り返す。そして——強制しない。

照度が半拍遅れ、曲面の艶が半回転。


波が石をコツ、コツと二度打った。

……ル—シ—

昨夜は付かなかった最後の音節が、今日は水の下から上がって座る。

—ア。

私たちは誰も声に出して呼ばない。呼んだ瞬間に剝がれると学んだから。代わりに私はアンカー印(浅い波線)を図面の余白にトンと押す。

「記録。」ミホが低く言う。「ルシア——岬:本帰還。要求の介入なし。ガラス(半)の艶——消失。」

実際、表面にまとわりついていた濡れない水跡の艶は浅く薄れた。席が戻ったということだ。

「よし、場所は所定。」塩水が図面を畳む。「人は——」

「明日の昼、席で。」ミホが私の語尾を受ける。「今夜は要求が強い。」


階段を下りる途中、風向きが変わった。甘さではなく、塩にも濡れない雨の匂い。階段下の影に、長い濡れない水跡がかすめてS字にしなう。

「正面禁止。」ミホの囁き。

私は横目だけでその艶を見た。そして——人のつま先。白いゴムのスニーカー、濡れていない。足首に触れる勤務服の裾。水滴は転がらず留まる。耳たぶの横へ落ちる髪先に、小さなピンの跡の瘢痕がきらり。ポケットのヘアピンがコトン、コトン——……ア—ラ。

貼らない。

今は——保留。そして——明日、席で問う。

つま先が二歩下がる。水跡の艶が半回転し、影は階段の下へ抜けた。音はなかった。名前を付ければ剝がれる場面だった。


「見たか?」チュンベが肩をトンと叩く。

「ピン跡の瘢痕。」

「それとな、“濡れない雨”。明日の昼、呼ばずに来てもらおう。」

「強制禁止。」

「それ。」


Bブロックへ戻るとすぐ落とし物室へ。作業台のアクリル席は二枚。左が聴く席、右が記録席。さっき回収した鱗(半)は左へ、昨日から待機のピン(半)、ボタン(半)は右に並べて座らせた。各袋の下に赤い点。


「呼称確認。」ラベルをはっきり読む。「鱗(半)、ピン(半)、ボタン(半)。」

「自己呼称の誘導は今日は“鱗(半)”だけ。」ミホが線を引く。「残りは明日の“人の復権”に束ねる。」

私は一行を載せた。

今は——名前を問う。そして——私から先に貼らない。

鱗(半)の袋を聴く席に滑らせると、照明が曲面で波模様に流れた。音はなく、光が三拍遅れた。昨夜の記録と同じ逆行遅延。ただし順番が逆だ。ア—シ—ル。帰還の流れではなく、遡上のリズム。

「記録。鱗(半)——照度遅延(三拍)/波形の逆行——『帰還』ではなく『遡上』の兆し——確定保留。」赤い点。


「“人”が来るには先に水の道が要る。」ミホが言う。「今日の水路ループ遮断で道は正常に戻った。明日の昼なら席に来られる。」

敷居で塩水が手を振る。「レポートの見出しは私が。『アンカー帰還(場所)完了/軽微浸食の遮断/新規アンカー確保』。」


片づけ終盤、廊下に明るいシャツがまた見えた。さっき水路でも見たロゴ——PRINCE SARDINES。今度のパンフはQRの代わりに小型スピーカー付き。男はロビー案内みたいな笑顔で言う。

「UXアドバイザリーです。本日は現場インタビュー形式で簡単に。選択を後悔しないため——」

「協約第9条。」ミホの声がガラスのようになめらかに切る。「外部の要求文は現場提示不可。案内物は照合室へ。」

彼は笑みを崩さず言い換える。「ひと言で、誰でも“即時”に——今がチャンスです。」

その文が終わる前に、スマホがトンと震えた。〈Bブロック利用満足度・簡易アンケート〉——今「はい」と言うだけで——赤い線が三度走る。私は親指を二歩遅らせ、入力欄に一行だけ残した。

今は——いいえ。

送信。無音。その無音が今日いちばんまっすぐな線だった。


男が去ると、ミホは〈名前の復権——帰還/待機案内〉カードの余白に小さくメモした。外部要求——現場介入の試み(遮断)。それから私を見る。

「今夜はここまで。場所は戻った。“人”は明日、席で。さっき階段下で見たつま先は、報告書には“リム”として残す——『ピン跡の瘢痕/濡れない雨/二歩の後退』。」


私はうなずいた。作業台のピン(半)、ボタン(半)、鱗(半)——三つの袋の艶が互いの影を似てきている。ここで合体を誘う感覚を線で断つのが保存の仕事。作業台の縁のチョーク線をもう一本のばした。線は正面では消え、横目にだけ生きる。


ラベルプリンターがタタッと音を立て、今日の行を吐き出す。

〈アンカー——ルシア(岬)本帰還完了〉 / 〈軽微浸食——水路ループ遮断・鱗(半)回収〉 / 〈落とし物——ピン/ボタン 待機〉 / 〈落とし物——鱗(半) 記録(逆行遅延)〉

ミホが各行の端に小さなチェックを置いた。「**明日は“人”。手順は同じ——呼称確認 → 自己呼称の誘導 → 復権(あるなら)。その前にあなたが二つの席を先に敷く。**帰る席/とどまる席。さっき階段下のつま先がした選び方を、強制禁止で呼び戻すやり方で。」


「はい。」

「最後に——一行。」

私は語尾をつかまえた。

今は——記録を閉じる。そして——明日、水辺ではなく“席”の上で“人”の名前を問う。

ドライヤーのハミングが半拍なめらかになる。三つの袋——ピン(半)/ボタン(半)/鱗(半)——の艶が同時にごく浅く揺れた。席が整った合図だ。


ロビーへ上がる途中、自動ドアのガラスに曇りが長くのび、リムみたいに震えた。今日ばかりはそれに名前を貼らない。ただの曇り。 ただの水気。ただの空調。名前を貼れば、剝がれる。


玄関前で最後の一行を選び、今日の言葉を椅子に座らせる。

今は——休む。そして——明日、彼女が選ぶ二つの席(帰還/待機)を先に敷く。

句点が触れた瞬間、とても遠くで波が一度鳴った。ありえない音だが、今日つかまえてきた席々のあいだに自然に座った。ドアは遠くでも、変わらず、静かに息をしていた。

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