第二話:最後のチャンス
第三会議室のドアを開けると、そこには腕を組んで仁王立ちする、営業部のトップ、武田部長がいた。
彼は、典型的な中間管理職だった。上にはへこへこと頭を下げ、下には徹底的に威圧する。その顔には、既に不機嫌そうな表情が張り付いている。俺と高梨が入室した時には既に、テーブルの向こう側で待ち構えていた。
武田部長が、テーブルに置かれた俺の営業レポートを、人差し指でトントンと叩く。その乾いた音が、静かな室内に不気味に響いた。
「佐々木」
低い声で、俺の名が呼ばれる。
「今月の営業ノルマ、達成率はどうなっている。改めて、お前の口から報告しろ」
「……はい。達成率は、12パーセント、です」
その数字を口にした瞬間、部屋の温度が、さらに数度下がったように感じた。俺は、何か言わなければという焦りから、慌てて言葉を続けた。
「先日ご提出したレポートにも記載しましたが、高ランク素材の取引先からは、俺がFランクであることを理由に契約を渋られておりまして……低層で獲得できる素材での細かな契約を積み重ねてはいるのですが、どうしても金額が伸びず……」
俺の言葉を遮るように、武田部長が低い声で言い放った。
「――で、佐々木。言い訳はそれだけか?」
その目は、まるで道端の汚物でも見るかのような、冷たい軽蔑に満ちている。床に落とした視線を上げることなど、到底できそうになかった。
「いえ、言い訳では……ただ、事実としてご報告を……」
「口答えをするなと言っているんだ!」
ドン! とテーブルが叩かれる。安物の長机がみしりと悲鳴を上げた。肩が勝手に跳ね上がる。腹の底で、冷たい塊がごとりと音を立てたような気がした。
「第一、お前のその目はなんだ。反省している人間の目じゃないぞ。どうせ心の中では、上司がうるさいとでも思っているんだろうが」
「そ、そんなことは、決して……」
「じゃあどうなんだ。ああ?言ってみろ。俺に分かるように説明してみろ!」
言えるはずがない。口を開けば、次の罵声が飛んでくるだけだ。正解の選択肢など、ここには最初から用意されていないのだ。俺はただ、固く唇を結び、床の木目の一点をみつめることしかできなかった。沈黙が、まるで有罪判決のように重くのしかかる。
「部長、まあまあ落ち着いてください。こいつに何を言っても無駄ですよ」
横から、ねっとりとした声が割り込んできた。高梨だ。彼は心底楽しむかのように、口の端に意地の悪い笑みを浮かべている。まるで、猛獣使いが、躾のなっていない獣を指さして見世物にしているかのようだ。
「こいつは、自分がどれだけチームの足を引っ張っているのか、全く理解できていないんですから。俺たちBランクチームの貴重なリソースを、こいつ一人を食わせるためにどれだけ無駄遣いしていることか。なあ、佐々木、お前もそう思うだろ?」
その言葉は、まるでよく研がれたナイフのように、俺の自己肯定感という名の薄皮を一枚一枚、丁寧に、ゆっくりと削いでいく。
「Fランクなんて、本来なら会社にいること自体がおこがましい。そうだろ? お前みたいなのがいるから、ウチの部署全体の評価が下がるんだ。迷惑なんだよ」
「…………」
俺は何も答えなかった。いや、答えられなかった。肯定も否定も、彼らをさらに喜ばせるだけだ。俺にできるのは、嵐が過ぎ去るのを待つ石像のように、ただ動かずにいること、それだけだった。
「まったく、その通りだ。高梨、お前の言う通りだ」
武田部長は、これ見よがしに大きなため息をついた。その息には、俺という存在に対する、隠しようもないうんざりとした感情が滲み出ていた。
「会社はな、佐々木。お前みたいな穀潰しを養うための慈善団体じゃないんだ。利益を出すために存在している。利益を出せない社員は、はっきり言って不要なんだよ。分かるか? お前は、不要物なんだ」
不要。その言葉が、ずしりと重たい何かになって俺の胃のあたりに落ちてきた。分かっている。そんなことは、誰に言われるまでもなく、俺自身が一番よく分かっていた。毎朝、自分の顔を見るたびに、自分に言い聞かせていることだ。
「いいか、よく聞け。先週も言ったが、もう一度だけチャンスをやる。これが本当に、本当に最後だ」
武田部長は、俺の顔を真っ直ぐに射抜くように見つめた。
「来週の月曜日までに、営業ノルマの50パーセントを達成しろ。これが最後通告だ。もし達成できなければ――」
彼はそこで一度言葉を切った。そして、心底愉快そうに、こう続けた。
「――お前は、この会社の人間じゃなくなる。それだけのことだ。なに、簡単なことだ」
事実上の解雇予告。その言葉の冷たさに、背中を冷水で撫でられたような感覚が走った。50パーセント。今の俺の達成率が12パーセントだということを考えれば、それは地面を歩く人間に、今すぐ空を飛べと言っているのに等しい、絶対に不可能な数字だった。
「……はい」
それでも、俺はそう答えるしかなかった。絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。喉がカラカラに乾ききっている。
「ふん。返事だけは威勢がいいな」
武田部長は、椅子からゆっくりと立ち上がった。その巨体が動くだけで、部屋の空気が圧迫されるような錯覚を覚えた。
「高梨」
「はっ」
「こいつの『教育』は、お前に一任する。どんな手を使っても構わん。結果だけは出させろ」
「お任せください、部長。必ずや、こいつを『一人前』にしてみせますので。ええ、どんな手を使ってでも」
高梨が、満面の笑みで応じる。その言葉に、武田部長は満足げに頷くと、俺には一瞥もくれずに会議室のドアへと向かった。
バタン!
最後にそう言い残し、重たいドアが閉まる。その音は、まるで俺の運命が閉ざされた音のようにも聞こえた。
◇
武田部長が退室した途端、会議室の空気ががらりと変わった。先ほどまでの、上司がいる手前取り繕っていた刺々しい緊張感が消え、代わりに、より個人的で、悪意に満ちた粘度の高い何かがその空間を満たし始めた。
静寂。
聞こえるのは、空調の低い唸りと、俺自身の、浅く速い呼吸の音だけ。額に滲んだ汗が、こめかみを伝って流れ落ちるのが分かった。
「……さて、と」
沈黙を破ったのは、高梨さんだった。
彼は、まるで舞台役者のように芝居がかった仕草で椅子から立ち上がると、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。コツ、コツ、と革靴の音が、やけに大きく部屋に響く。
「二人きりになったな、佐々木」
俺は顔を上げることができない。彼の足が、俺が座る椅子のすぐ横で止まったのが分かった。高級な革靴の、よく磨かれたつま先が視界の端に入る。
「部長はああ言っていたが、お前にノルマの50パーセント達成なんて、逆立ちしたって無理なことくらい、この俺はよーく分かってるよ」
その声は、先ほどまでとは打って変わって、ひどく穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、蛇のような冷たさが潜んでいるのを、俺は知っていた。
これは、嵐の前の静けさだ。
「お前みたいな『大外れスキル』持ちのFランクが、まともな営業成績を上げられるわけがない。なあ、そうだろ? お前自身が、一番よく分かってるんじゃないのか?」
彼は俺の肩に、ぽん、と軽く手を置いた。その感触に、俺の身体がびくっとこわばる。まるで、冷たい爬虫類に触れられたかのような、嫌な感覚だった。
「だからな、佐々木。この心優しきリーダーである俺が、お前に特別なチャンスをやろうと思ってな」
「……チャンス、ですか?」
思わず、顔を上げてしまった。
高梨さんは、にたり、と口元を緩めて俺を見下ろしていた。その目は、全く笑っていない。瞳の奥には、何の感情も映していなかった。
「そう、チャンスだ。お前が、この会社に、俺たちのチームに、そしてこの俺に、貢献できる、たった一つの、そして最高に名誉なチャンスだ」
彼は俺の肩から手を離し、テーブルの縁に軽く腰掛けた。そして、ポケットからスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで何かの情報を表示させる。
「『奥多摩ダンジョン』は知ってるな?」
「……はい。高難易度ダンジョンの一つだと、聞いています」
「その通り。特に、三十階層より下は、俺たちBランクパーティーでも全滅する可能性がある危険地帯だ。生半可な覚悟じゃ、足を踏み入れることすら許されない、本物の魔境だよ」
奥多摩ダンジョン。都心から離れた山間部に出現した、広大で複雑な構造を持つダンジョンだ。低層はハイキング気分で探索する初心者もいるが、深層は全くの別物だという。凶悪なモンスターが跋扈する、文字通りの死地だと聞いている。
「実はな、お得意様の製薬会社から、依頼が入っていてな」
高梨さんは、スマートフォンの画面を俺の目の前に突きつけてきた。そこに表示されていたのは、青白く、まるで内側から発光しているかのような、奇妙なキノコのような植物の画像データだった。
「『深月の涙』。奥多摩ダンジョン四十階層以降の、特定の条件下でしか自生しない幻の薬草だ。あらゆる病を癒す万能薬の原料になるとかで、一本で億の値がつくとも言われている。これを採取してきてほしい」
俺は、自分の耳を疑った。
「……よんじゅっ、階層……?」
「そうだ」
「ですが、そこはBランクの方々でも危険な場所だと……俺のような、Fランクの探索者が一人で行っても、とても……」
「ははっ、よく分かってるじゃないか、佐々木」
高梨さんは、心底おかしいというように、声を上げて笑った。その笑い声は、空っぽの会議室に、不気味に反響した。
「だからこそ、お前にしか頼めないんだよ。これは、そういう『仕事』なんだからな」
その言葉の意味を、俺は一瞬、理解できなかった。頭が、真っ白になった。思考が追いつかない。
「これは、営業部のノルマとは別の『業務命令』だ」
彼は、ゆっくりと、一言一言区切るように、そう言った。
「成功すれば、お前の今月のノルマは全て達成したことにしてやる。部長にも、俺から上手く言っておいてやるよ。お前は、会社を救った英雄になれるんだ」
「業務、命令……」
その言葉が、俺の思考を完全に停止させた。業務命令。それは、会社の従業員である俺が、絶対に逆らうことのできない、絶対の拘束力を持つ言葉。それは、王の命令であり、神の託宣だ。
「どうした? 嬉しいだろ? 営業でこれっぽっちも結果を出せないお前でも、会社に貢献できるんだぞ。探索者として、その身を挺してな」
これは、死刑宣告だ。
Bランクですら危険な場所に、Fランクの俺が単独で行って、生きて帰れるはずがない。高梨さんは、俺に死ねと言っているのだ。それも、会社の命令という、絶対に断れない形で。
「な、なぜ……」
かろうじて、声が出た。喉に張り付いたような、かすれた声だった。
「なぜ、俺なんですか」
「決まってるだろ」
高梨さんは、心底不思議そうに首を傾げた。その仕草は、まるで、物分かりの悪い子供に言い聞かせているかのようだった。
「お前が、このチームで、いや、この会社で、一番いらない存在だからだよ」
その言葉は、何の比喩でもなく、何の躊躇もなく、俺の胸に突き刺さった。
「お前がダンジョンで死んでも、会社としては何の損害もない。お前みたいな無能でも、高い給与を払っているんだからな。むしろ、お前に払う給料が浮いて、プラスになる」
怒り? 悲しみ? 絶望?
分からない。感情が、ぐちゃぐちゃになって、もはや判別がつかなかった。
ただ、目の前の男の顔が、ひどく遠いもののように感じられた。まるで、分厚いガラスの向こう側にいるかのように、彼の声がくぐもって聞こえた。
「この業界はな、人の出入りが激しい。ある日突然、本人が一方的に退職した、で終わりだ。誰も悲しまない。誰も困らない。誰も、お前のことなんて気にしない。よくあることだ、そうだろ?」
「えっと、その…」
「まあ、せいぜい頑張れよ。万が一、億が一、その薬草を採って生きて帰ってこれたら、約束通りだ。それに、Fランクの英雄だろ。はは、まあ、あり得ないだろうけどな」
高梨さんは立ち上がると、話を続けた。
「集合場所と時間はメールで送る。遅れるなよ。これも『業務』だからな。分かったか?」
彼は、最後に俺の肩をもう一度、ぎり、と音がするほど強く掴んだ。その痛みが、俺を少しだけ現実に引き戻した。
コツ、コツ、と革靴の音が遠ざかっていく。
バタン。
再び、ドアが閉まる音がした。
会議室には、俺一人が残された。
窓の外では、西日がビル群をオレンジ色に染めている。たくさんの人々が、それぞれの家に帰っていく時間。俺にはもう、帰る場所などないのかもしれない。
灰色だった俺の世界は、真っ黒な闇に塗りつぶされようとしていた。
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