無能と罵られたFランク探索者、神獣と契約して成り上がる~ブラック企業を追放されたオレは、もふもふの彼女と自由気ままにダンジョンを攻略します~

速水静香

第一章:絶望と邂逅

第一話:地獄の釜の蓋

 ずっしりと、全身にまとわりつく疲労感。


 それが俺の目覚ましだった。


 けたたましく鳴り響くスマートフォンの電子音は、もはや意識を覚醒させるための合図とすらいえない。


 それは、今日もまた、魂が削られる一日が始まるという、地獄の釜の蓋が開く音だった。


 瞼を開ける。


 天井の染み模様が、まるで俺の将来の地図のように、ぼんやりと広がっていた。


 どれだけ眠っても、疲労という名の粘土は、身体の芯から剥がれ落ちてはくれなかった。


 ぎしり、とベッドが軋む。起き上がるという単純な動作が、まるで何キロもの重りを持ち上げるかのような苦行だった。


 胃が、空腹を訴えてかすかな痛みを発している。だが、キッチンとも呼べないような狭いスペースに立って何かを口にするという、たったそれだけの行為が、今は途方もなく億劫だった。冷蔵庫を開ける気力さえ湧いてこない。


「……時間がない」


 誰に言うでもなくそう呟き、俺は空腹を無視して着替えを始めた。どうせ会社に着けば、絶え間ない罵声と終わらない業務で、腹が減っている感覚などすぐに麻痺してしまう。

 それに俺の身体は、もはや俺のものではなく、会社という組織を動かすためだけの消耗品なのだから。


 玄関のドアを開ければ、そこはもう現代の奴隷船。ぎゅうぎゅう詰めの満員電車。人の吐息と湿気で、空気が白く濁っているように思えた。俺は、押し寄せる人々の波にされるがまま、ガラス窓に顔を押し付けられる。窓の外を流れていく景色も、俺の心と同じように灰色に見えた。ここでは誰もが、スマホの小さな画面に視線を落とし、現実から逃避している。


 しかし、俺には、スマホを見る気力さえ残っていなかった。


 目的の駅で、人々の塊と一緒にホームへと吐き出された。

 そこから会社までは、歩いて十分。


 ITソリューションと探索者ギルド運営を兼ねる企業、『ネクスト・フロンティア社』。


 聞こえはいいが、その実態は、社員という名の歯車を、壊れるまですり潰すことしか考えていないような、真っ黒な企業だった。


 ガラス張りの立派な自動ドアをくぐると、そこは無駄にだだっ広いエントランスホールだった。磨き上げられた大理石の床に、俺のくたびれた革靴がみすぼらしい音を立てる。壁には、銀色に輝く社名のロゴが掲げられているが、今の俺にはそれが、地獄の門に飾られた紋章のようにしか見えなかった。


 受付には誰もおらず、代わりに無機質なセキュリティゲートが並んでいる。俺が社員証をリーダーに押し当てると、重々しい音を立てて開くゲートを通り抜けた。周囲を行き交う他の社員たちも、皆一様に死んだ魚のような目をしており、挨拶を交わす者など一人もいない。


 エレベーターホールで息を殺して上昇する箱を待ち、乗り込む。他の社員と乗り合わせた密閉空間が、俺の肺から酸素を奪っていくようだ。チーン、という電子音と共に目的の階を示すランプが点灯する。


 重たいドアが開いた瞬間、俺の世界は音に塗りつぶされた。


 肺に入ってくる空気の密度が変わる。ひやりとして、それでいて淀んだ機械油のような匂い。

 フロアに響き渡るのは、無数のキーボードが叩かれる、カツカツカツッ! という無機質な音の洪水だけ。


 そこには、人間の感情が入り込む隙間など、一ミリも存在しなかった。


「おはよう、ございます……」


 誰に言うでもなく、消え入りそうな声で呟く。

 返事はない。誰もが、デスクに設置されたモニターという名の箱庭に没頭し、指をせわしなく動かしている。彼らの背中が、雄弁に語っていた。『お前のような底辺に構っている暇はない』と。


 自分の席にたどり着き、古びた椅子に身体を沈める。PCの電源を入れると、ファンがゴウ、と苦しげな音を立てて回り始めた。デスクトップ画面が立ち上がるまでのわずかな間、暗いモニターに映った自分の顔を、ぼんやりと見つめる。そこにいたのは、生気というものを根こそぎ抜き取られ、目の下に深い隈を刻んだ、自分でも知らない男の顔だった。


 俺の人生は、いつからこんなものになってしまったのだろうか。


 そんな答えの出ない問いに思考が沈みかけた、その時だった。


「おい、佐々木。いつまで黄昏てるつもりだ?お前の席は、窓の外を眺めるためにあるんじゃねえんだぞ」


 びくり、と肩が跳ねる。


 聞きたくもない声。耳の奥にねっとりと絡みつくような、粘着質な声色。


 振り返らなくても分かる。


 俺のチームリーダー、高梨 浩介。


 Bランク探索者という肩書を、これ見よがしに振りかざす男。そして、俺を社内で最も無価値な存在だと決めつけ、その尊厳を踏みにじることを、何よりの楽しみにしている男だ。


「……申し訳ありません、高梨さん。すぐに業務を開始します」


 俺は、モニターから視線を外さないまま、そう答えた。

 ここで下手に視線を合わせれば、彼のサディスティックな欲求を刺激するだけだと、これまでの経験が教えていた。


「ふん、口だけは達者だな。Fランクのくせに」


 高梨は、俺のランクを蔑むように、ちっと舌打ちをした。


 Fランク。


 それは、探索者という職業において、そのピラミッドの最底辺に位置する者に与えられる烙印。


 そもそも、俺は最初からこんな世界に足を踏み入れたかったわけじゃない。


 高校三年生の秋。苦労した就職活動の末、どうにか地元の小さなメーカーから内定をもぎ取っていた。まだ面接で苦戦しているクラスの連中を横目に、俺は一足先に『社会人』への切符を手に入れた、はずだった。


 だが、そんな俺のささやかな未来設計は、卒業を目前に控えた冬、世界を襲ったパンデミックによって、まるで脆い砂の城のように、いとも簡単にかき消された。


 世界中が、未知のウイルスに怯えた。街からは人が消え、経済は瞬く間に凍りついた。そして俺の内定も、「誠に申し訳ないが」という電話口の感情のない一言で、お釈迦になった。


 パンデミック不況のど真ん中に、『高卒』の肩書だけで社会に放り出された俺に、居場所などあるはずもなかった。

 何十社と履歴書を送っても、返ってくるのは『お祈りメール』か、あるいは無視。


 金もなく、困窮極まっていった。


 そんな時だった。


 政府が失業者対策として大々的に打ち出したのが、『探索者奨励制度』という代物。


『登録すれば生活支援金が貰える』『一攫千金の夢も』


 他に何の選択肢も残されていなかった俺にとって、その選択肢しかなかった。


 だが、そこで与えられたのが、Fランクという烙印と、戦闘には何の役にも立たない【素材分解】という『大外れスキル』だったのだ。


 一度『探索者』として登録されてしまえば、もう後戻りはできなかった。

 一般企業は『Fランク』を腫物のように扱い、履歴書を送っても門前払い。


 かといって、フリーのFランク探索者として生きていくには、この世界はあまりにも過酷だ。


 そうして、社会のどこにも居場所を失った俺のような人間が行き着く最後の受け皿。


 それが、ネクスト・フロンティア社のような、低ランク探索者を安価な労働力として使い潰すことしか考えていない、真っ黒な企業だったのだ。


 この、どうしようもなく無価値なスキルとランクが、俺を高梨たちの格好の標的にしていた。


 フロアのあちこちから、くすくす、と押し殺したような笑い声が聞こえてくる。


 見なくても分かる。


 彼らは、この一方的な公開処刑を、退屈な日常を彩るための、格好のエンターテイメントとして消費しているのだ。


 俺という絶対的な最底辺がいるおかげで、彼らは、自分たちがまだマシな場所にいるのだと、安心することができる。


 俺は、奥歯を強く噛みしめた。

 唇の内側が切れ、じわりと鉄の味が広がる。


 カタカタ、と俺もキーボードを叩き始めた。営業成績と探索者としてのノルマ。その二重の枷が、常に重く俺の首に絡みついていた。


 探索者として成果を上げられない俺は、当然、営業成績も振るわない。


 ダンジョンから得られる希少素材を企業に卸すのが主な業務である以上、Fランク探索者の俺が、まともな契約を取れるはずもなかった。


 全てが、悪循環だった。


「おい、佐々木。先月分の営業レポート、まさかまだ提出してないなんて言わねえよな?」


 まただ。再び高梨の声が、背後から突き刺さる。そのレポートは、三日前に彼のデスクに提出済みだ。おそらく、彼は確認すらしていない。俺を詰るためだけの、ただの口実に過ぎない。


「……提出済みです。高梨さんのデスクの、青いファイルの二番目に挟んであります」

「ああん? なんだその言い方は。俺が確認してないって、そう言いたいのか?お前の管理能力のなさを、俺のせいにするんじゃねえぞ」

「いえ、そういうわけでは……」

「じゃあどういうわけだよ。俺の時間を無駄にさせたお詫びは、どうしてくれるんだ? お前のその無能さのせいで、俺の貴重な時間がどんどん浪費されていくんだが」


 理不尽。その一言に尽きる。

 だが、この会社では、チームリーダーである、高梨の言葉が法なのだ。彼が『黒』だと言えば、白いカラスも黒くなる。それが、この世界のルールだった。


 俺は、音を立てないように椅子から立ち上がると、彼のデスクへと向かった。

 書類が山積みになった、まるでゴミ捨て場のような机の上から、言われた通りの青いファイルを探し出す。そして、その中から俺が提出したレポートを抜き出し、彼の目の前に、そっと差し出した。


「……大変、申し訳ありませんでした。俺の確認不足です」


 自分の心を殺し、感情を無にし、ただ謝罪の言葉を口にする。それが、この地獄で生き延びるための、唯一の方法だった。


「分かればいいんだよ、分かれば」


 高梨は、満足げに鼻を鳴らすと、俺からレポートをひったくった。俺はゆっくりと頭を上げ、自分の席へと戻る。


 もう、俺は何も感じなかった。



 昼休み。


 人の気配がまばらになる。多くの社員が食堂や外へと消えていく中、俺はデスクから動かなかった。


 そんな気力は、どこにもなかった。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。少し離れた席で、女性社員のグループが、こちらを見ながらひそひそと何かを話しているのが見えた。

 目が合うと、彼女たちは、慌てたように顔をそむけた。


「また高梨さんにやられてたね」

「Fランクなのに、よくクビにならないよね」

「いるだけで、こっちのランクまで下がりそう……」


 彼女たちの声は、ひそひそ声のつもりなのだろうが、静かなフロアでは、嫌でも俺の耳に届いた。

 どうせ、そんなところだろう。もう慣れた。何も感じない。

 そう自分に言い聞かせても、胸の奥が、チクリと小さな針で刺されたように痛んだ。


 午後の業務が始まって、数時間が経った頃だった。フロアの内線電話が鳴り、俺がそれを受けた。


 相手は、営業部の武田部長からだった。


『おい、佐々木か。高梨と一緒に、第三会議室まで来い。急ぎだ』


 一方的にそう告げられ、ガチャン、と乱暴に通話は切られた。

 また何か、面倒なことだろうか。俺の胃が、キリキリとした痛みを発し始める。

 高梨に声をかけると、彼は心底面倒くさそうに立ち上がり、俺を一瞥もせずに会議室へと向かった。俺は、まるで罪人のように、その少し後ろをとぼとぼとついていく。

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