第2話 異世界はいろいろ異世界だった
空高く舞い上がる水色の花びらがスカイブルーに溶けて消えていく。
一体、何が起きたというのか。
鼻先を掠める匂い。
あの神社の湿った土の匂いとは全く異なる、ふんわりと甘くそれでいてどこかツンとしたエキゾチックな香り。
「……どこ?」
自分が見たことのない風景の中にいる事に気が付く。
小高い草原の丘の上。
前方は丘を下った先に別の丘が見える。その先は森のようだ。
左右を確認する。
左は遠くに山々が見える。右は草原が地平線まで広がる。
ガタゴトガタゴト
地平線の彼方に視線を向けていると、背後から何かの音が近づいて来る。
見ると、少し離れたところに茶色い道らしきものが見え、そこを馬車が走っていた。荷車を一頭の馬が引き、幅広の帽子をかぶった御者がパイプ煙草を吹かしながら走らせている。俺が見つめる中、10mほど先にある道を荷馬車が通り過ぎて行った。
で、それを茫然と見送る俺。
「……今、豚の顔じゃなかったか?」
何度記憶を手繰っても、豚顔の御者の顔しか思い出せない。知らない場所に異形な顔。心に不安が広がっていく。
「あ、そうだ、スマホ」
文明の利器。機械を手にするだけで異常現象への恐怖は和らぐのだ。
俺は手をポケットに突っ込み、スマホを取り出……せなかった。どれだけ探ってもポケットに何も入っていないのだ。
「ヤバい、落としたか?」
右ポケットも左ポケットもお尻ポケットも探すが見つからない。そしてないのはスマホだけではなかった。
「財布も鍵も……え、なんにもないじゃん!」
財布も家の鍵もない。ヤバい、なくしたなんて親に言ったらめちゃくちゃ叱られる。
ひざ下の短パンと半袖Tシャツ。足首までの靴下にスニーカー。あるのはそれだけだ。他に持っていたものは全てなくなっている。
「えっと……夢…とか?」
俺は夢をよく見る方だ。そして夢の中でそれが夢だと理解することもよくある。今回も一瞬そう思った。が、如何せん、すべてが妙にリアルでわけが分からない。着ていた服も見覚えのある服だし、少し前から風に運ばれてきているスパイシーな匂い。これまで夢でこんな細かなことを知覚した覚えはない。
「……」
足元の草を千切ってみると、生々しい青臭さが鼻につく。
「いや、マジでさ……」
もう一度周囲を見渡すが、さっきと同じ風景でしかない。
「意識失ってるうちに歩いてきたとか?」
認知症の高齢者が知らないうちに山に入って帰れなくなったというニュースを聞いたことがある。
「マジか……とにかく、誰か探してここがどこなのか聞かないと。で、電話とかも借りたい」
ついさっき見た農夫の豚顔が脳裏に過るが、そのまま触れずに意識の外へと追い出す。目の前にはだだっ広い草原に地平線へと続く一本道。草の生えない踏み固められたその道を、俺は“人を”探して歩き始めた。
…
「腹減ったな…」
かれこれ一時間は歩いているが、草原は一向に終わりそうにない。振り返ると、自分がいたであろう丘が遠くに見える。
「一万歩は歩いたよな」
俺は歩く時の癖で、いつも歩数を数えてしまう。まあでも、それで大体の時間を計算できたりもする。
「喉乾いたな…」
空を見上げると、さっきは傾いていた太陽がちょうど真上に移動している。そして感じる気温もだいぶ高くなった。真夏ほどではないが、立っているだけで汗ばんでくる初夏の強い日差しに似ている。
ガタゴトガタゴト
乾いた喉を鳴らしながら遥か彼方の地平線を見つめていると、背後から音が聞こえてきた。自然の音ではない、人工物の音。ずっと聞きたいと思っていた音がやっと聞こえてきた。
弾む気持ちで振り返る。
「あのーっ」
近づいてくる馬車に手を振って助けを求める。
だんだんと近づいてくる馬車。馬の向こうには御者台に座った御者が見える。フードを深く被っていて顔は見えないが、後ろに沢山の荷物を積んでいるのを見ると、仕事中なのかもしれない。
「すみません、道がわからなくて…」
ガタゴト ガタ ゴト …
馬車が止まると賑やかだった音も止み、急に静かになる。耳元をかすめていく風音。ふと、その風に生臭さを感じた。
「……」
「あの、すみません、ここが何処かもわからなくて。電話とか借りたいんですけ…ど?」
俺は話しながら、御者のフードの中から何か赤い細い紐のようなものが垂れているのに気づく。で、フードを被ったままの御者は何も答えてくれない。
「あの…」
ビュウーーー
丘の下から吹き上げてくる風が足元の塵を吹き上げる。吹き上げられた塵が目に入り片目を瞑る俺だったが、瞑った目をすぐさま見開く事になる。
なぜなら、風が地面の塵だけでなく御者のフードをも巻き上げたのだ。
フードから現れた御者の頭、そこには明らかに人ではない顔があった。
蛇。
鱗に覆われ、丸みを帯びたその顔には蛇独特の丸い目が付いている。俺を見ているのかさえ分からないその動かない目に対して、口から出た細長い舌、そのチロチロ動くその舌先だけがその蛇顔が生きていることを伝えてくる。
獣の国。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。狩るものと狩られるものしかいない世界。そして、目の前の異様な光景は俺がどちら側なのかを明確に突きつけてくる。
──逃げろ。
本能がそう叫ぶ。が、なぜかその動かない目から視線を外すことができない。そして体が動かない。
心ではすでに逃げる決断をしているのに、それが体に伝わらない。
意識と肉体を繋ぐ糸が断ち切られた感覚に、徐々に俺の心を支配していく絶望感。動かない蛇の目からなぜか「お前はすでに俺のものだ」と意思が伝わってくる。
そして、蛇顔の口角が上がった。
(蛇の笑う顔…)
蛇顔に初めて現れた明確な感情。なぜかそれにホッとしてい自分がいる。が、直後、すべてを悟って絶望に支配された。目の前の蛇顔が音もなく俺に向かって伸びてきたのだ。
御者、つまり人のような体だったはずが、いつの間にか大蛇に姿が変わっている。
動けない俺の体に音もなく巻き付いていく大蛇の胴体。太もも程もあるその胴体が俺の体に密着する。
そして、俺が自分の置かれた状況を理解したその瞬間、巻き付く大蛇の胴体からとんでもない力が伝わってくる。まるで巨大な機械で締め上げられているような理不尽な力。
ゴキ
体のどこかで何かが折られる感覚。一瞬の静寂の後に、声も出ないほどの激痛が俺の全身に走る。
「ぐぐっ!」
ボキ ポキポキ
「だはっ」
肺が押され空気が漏れ溢れる。だが、続いて肩に強烈な熱い痛みが走る。動かない首をなんとか傾けて視線を自分の肩に向けると、そこには大きな口で肩に噛みついている蛇の頭。それを見た時、腹の底から生温い何かが持ち上がって来る。
「ごほっ」
俺を締め上げる大蛇の胴体が赤く染まる。じっとりと動く大蛇の胴体を赤く染めているのが自分の血だと認識した時、俺の視界は薄くなり、意識は遠くなっていった。
和らいでゆく全身の痛みに、俺は「やっと夢から覚める」と安堵の気持ちで意識を手放した。
…
「ん…?」
意識が覚めた。なんだかすごく嫌な夢を見ていた気がする。
「おお、目覚めたか、流浪者よ」
「……?」
なんだ? 知らない声がする。流浪者? 流浪者ってなんだ? ……あ、もしかして俺、神社でも倒れちゃったか? なんか変だったしな。石が光ったりして。そうか病気かなんかたったのか。それで病院に運ばれたんだな。
ふと、目を開ける。
暗いな。夜か? にしてはなんか臭う。何だこの動物臭。うちの犬が水に濡れた時みたいな臭いだ。
首を動かし周りを見る。
暗い中で何かが動いている気がする。遠くでポコポコと何かが沸騰している音がしている。だが、病院の化学的な匂いじゃない。
……漢方か?
いろんな薬草を煎じたような有機的な匂い。独特の深みのある苦味にいかにも身体に良さそうな草の匂いが混じり合って、匂いだけで身体が元気になりそうだ。草の匂いに動物臭か。
……いや、おかしいおかしい。絶対に病院じゃないだろ! 何処だ、ここ!!
「んぐっ、痛っ」
「こらこら、いくら流浪者でも死にかけといて無茶しちゃいかん」
起き上がろうとしたら体中に鋭い痛みが走る。その後重苦しい怠いような鈍痛。やたら痛む右肩には分厚い何かが貼ってあるようだ。
「右肩……」
右肩への意識が、強烈な記憶を呼び起こす。ついさっきまで、俺のすぐ横で肩に噛み付いていた蛇顔。
全身から聞こえる骨が折れる音と激痛。
吐き出される現実感のない大量の血。
蛇独特の生臭さ。
「……う、うえ、おえええええ、おえええええ」
何も出ない嘔吐を繰り返す。
「ほら、無理をするからだ。まずはこれを飲みなさい」
薄暗い中で聞こえる野太い男の声。少ししゃがれてるが、怯える俺を温かく包み込んでくる。
「ハァハァハァ」
その嗄れ声を聞いてなんとか吐き気が収まったところで、鼻先をツンとしたハーブの香りが掠めてくる。普段は全く好きでもないその匂いを今は体の底から欲しているのがわかる。
自然と体がその香りを深く吸い込んでいく。
心地いい青臭さが肺を満たす。何度か大きく吸い込むと、肺の中が浄化されるような不思議な温かさが広がっていった。
「スーハー、スーハー」
香りの心地よさに体から力が抜けていくのを感じていると、俺の口にストローのようなものが差し込まれる。
「ほら、飲むんだ」
「……ゴク」
普段なら絶対に飲まないだろう得体の知れないものをストローから吸い上げて飲み込む。体がそれを求めているのだから止めようがない。
飲み込んだ液体が喉から食道を通り胃に落ちていくと、液体が通り過ぎた箇所がじんわりと温かくなる。
心と体が優しさに包まれるようだ。
ガチャリ
少しずつ液体を体に入れていると、ドアの開く音がする。液体を飲みながら意識を向けていると、数瞬置いてからコツコツと地面を叩く音にペタペタと足音が続く。
「おお、やっと目覚めたか」
今度の声もしゃがれている。が、今まで聞こえていた野太い声とは違い今度は甲高い声。言葉のところどころに苛立ちを感じさせる、今はあまり聞きたくないような声だ。
「ええ、重体どころか瀕死でしたので回復までに時間を要したのでしょう。ですが、もう大丈夫です」
「まったく。予言が伝える流浪者がやっと現れたと思ったらまさか瀕死とはの」
先の優し気な声に苛立ち声が被せるように言い捨てると、コツコツと激しく地面を叩く。どうやら杖でもついているようだ
「……で、あとどれくらいで戦えるようになるのじゃ?」
「そうですね。文献による流浪者の情報から推測するに三日もあれば十分でしょう」
「ふん、ではそれまでにすべての準備を整えよ」
「はい、かしこまりました」
コツコツ音と共に足音が小さくなり、ドアが閉まる。
「よし、飲み終わったな」
カチカチと数珠がこすれ合うような音がすると、俺の口からストローが抜き取られる。
「どうだ、上体は起こせるか?」
その声に、少し軽くなった体を動かしてみる。が、さっきみたいな痛みはやってこない。体の芯の部分に重苦しく鈍い痛みがあるが、ゆっくりなら問題なく体を起こすことができた。
「明かりをつけるぞ。眩しくなるから気を付けろ」
男の声がそう言うと、カチンと音がして部屋がフワリと暖色に染まった。
光が戻った世界。そこはごつごつした壁と天井に囲まれた部屋。そして俺のすぐ隣には火の明かりをその瞳に映した……
……巨大なネズミがいた。
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