第7話:軍師、連鎖加速する
「スピリチュアル・ハート」が、純粋なカフェだった頃の面影は、もはやどこにもなかった。
平日の昼下がりだというのに、店のドアベルは、まるで戦の始まりを告げる銅鑼のように、ひっきりなしに鳴り響いている。
「孔明さん、今日も夕方まで予約でびっしり。もう、来週まで埋まっちゃったわよ」
サクラ店長が、嬉しさと悲鳴が混じったような声で、タブレット画面を僕に見せる。僕は、淹れたてのコーヒーの湯気の向こうで、泰然と頷いてみせた。
「ふん。我が真価が、ようやく万民に伝わったか。結構なことじゃ」
「でも、孔明さん一人に負担かけすぎじゃない? 少し、休んだ方が……」
彼女の気遣うような言葉を遮るように、店のドアが、勢いよく開いた。
「孔明さん! お友達、連れてきました!」
先日、奇跡的な的中を体験したエミが、二人の女性の背中を、まるで捕虜でも連行するかのように、ぐいぐいと押しながらやってきた。
最初の相談者は、美咲と名乗る、儚げな雰囲気のOLだった。
「……三ヶ月前に別れた、元彼と、復縁したいんです」
彼女は、まるで罪を告白するかのように、消え入りそうな声で言った。
「私が、仕事にかまけて、彼をないがしろにしてしまって……。彼から、『もう疲れた』って……」
僕は、タロットカードを滑らかな手つきで広げながら、彼女の心の城壁を探るように、静かに問いかけた。
「ふむ……。別れてから、三ヶ月。その間、彼から、連絡は?」
「……一度も、ありません」
「汝からは?」
「……一度だけ、LINEを送りました。でも、既読がつくだけで、返信は……」
なるほど。敵は、籠城戦の構えか。
僕は、深く集中し、脳裏に戦場の絵図を描く。見えた。敵陣の、僅かな、しかし、致命的な隙が。
「天啓を得たり!」
僕が、勝利を確信して扇子をバッと開いた、その瞬間――
バシャーン!
お約束のように、扇子の先端が、僕のコーヒーカップを薙ぎ払い、茶色い液体が、テーブルの上のタロットカードを、無慈悲に染め上げた。
「ああっ!」「またやった!」
美咲の悲鳴と、カウンターの向こうからのミキの怒号が、美しいハーモニーを奏でる。
「す、すまぬ……! 天啓の閃きに、我が魂が、昂ってしもうた……!」
僕は、サクラから布巾を受け取り、コーヒーの海に沈んだカードを救出しながら、何事もなかったかのように、分析を続けた。
「……さて、美咲殿。汝、彼のSNSを、毎日、確認してはおらぬか?」
「え……? な、なんで、それを……」
「そして、面白いことにな。彼もまた、汝のSNSを、同じ頻度で、確認しておる」
「……本当、ですか?」
「うむ。彼は、汝を忘れてはおらぬ。ただ、一度『疲れた』と白旗を揚げた手前、自分から和睦を申し出るための『大義名分』を失っておるだけじゃ。男のプライドとは、かくも厄介なものよ」
僕は、コーヒーで茶色く染まった「塔」のカードを、彼女の前に置いた。
「この崩れ落ちる塔は、汝らの関係ではない。彼の、脆いプライドそのものじゃ。今、必要なのは、攻城兵器ではない。城門を内から開かせるための、労いの言葉じゃ」
「労い……?」
「うむ。『最近、また忙しそうだけど、体調は大丈夫?』。ただ、それだけでよい。責めるでもなく、復縁を迫るのでもなく、ただ、彼の身を案じていると、伝えよ」
美咲の目に、みるみるうちに光が宿っていった。だが、僕は、そこで、あえて、軍師としての「罠」を仕掛けた。
「……ただし、一つだけ、条件がある」
「……条件?」
「そのLINEを送った後、一週間、汝からは、一切の連絡を絶て。彼のSNSも、見るでない」
「え……!? でも、もし、返信が来たら……」
「来ても、返信はするな。一週間、完全に、沈黙を守るのじゃ」
美咲の顔が、不安に曇る。
「なぜ、ですか……?」
「良いか。疲弊した兵士に、温かい粥を与える。それは、慈悲のようで、実は、最も効果的な『揺さぶり』なのじゃ。一度、温もりを与えられた後、再び突き放される。その寒暖差こそが、彼の心の城壁を、内側から、最も激しく揺さぶるのじゃ。彼は、たまらず、城門を開け、汝を求めに来ようぞ」
それは、優しさの仮面を被った、冷徹なまでの、心理戦の駆け引きだった。
美咲は、戸惑いながらも、僕の目をじっと見つめ、そして、覚悟を決めたように、小さく頷いた。
次に席に着いたのは、看護師のあかりだった。
彼女の悩みは、「職場の先輩が好きだが、既婚者かもしれない」という、情報戦の初歩で躓いている状態だった。
僕は、彼女に、指輪の有無や、日焼け跡の確認といった、基本的な「偵察」の方法を教えた後、核心を突いた。
「良いか。偵察の基本は、敵の行動様式を観察することにある。その先輩とやらは、他の看護師たちと、汝に対する態度に、違いはないか?」
僕の問いに、あかりは、はっとしたように顔を上げた。
「……言われてみれば……私にだけ、よく笑顔で話しかけてくれたり……」
「それじゃ。その先輩、十中八九、汝に気がある。そして、独身じゃ」
だが、僕は、そこで、さらに、もう一つの「罠」を仕掛けた。
「……ただし、一つだけ、試してみるがよい」
「……試す?」
「うむ。来週の金曜日、彼と二人きりになったら、こう言うのじゃ。『実は、最近、知り合いから、食事に誘われてて……。でも、私、そういうの、初めてで、どうしたらいいか、分からなくて……』と」
あかりの顔が、困惑に染まる。
「え……? なんで、そんな、嘘を……?」
「これは、敵陣に、火のついた矢を放り込む、『陽動』じゃ。もし、彼が、汝に、ただの後輩以上の感情を抱いておれば、必ずや、動揺するはず。『どんな相手なんだ?』と、食いついてくるか。あるいは、あからさまに、不機嫌な顔をするか。その反応を見て、初めて、彼の本心が見えるのじゃ。その上で、おもむろに、『お疲れ様です』と、夜襲の狼煙を上げるがよい」
それは、相手の心を試す、少しだけ、意地の悪い計略だった。
だが、恋という戦は、時に、綺麗事だけでは勝てないのだ。
その夜、店の片付けをしながら、サクラが、楽しそうに、しかし、どこか探るような目で、僕に話しかけてきた。
「孔明さん、本当に人気者になっちゃったわね。もう、私が口を出す幕もないくらい」
「ふん、当然のことじゃ」
「……そんなに忙しくなったら、私の相談、聞いてもらう時間、なくなっちゃうんじゃない?」
その、冗談めかした響きの奥に、ほんの少しだけ、本心の色が滲んでいる。
これは、試されている。
僕の心を、探るための、彼女なりの「陽動」か。
「……何を言うか」
僕は、あえて、彼女の目を見ずに、カップを拭きながら答えた。
「店長の悩みとあらば、いかなる軍議よりも、最優先で、承る所存じゃ」
僕の、予想外の「切り返し」に、今度は、サクラの方が、言葉を失っていた。
ふふふ。面白い。
この、恋という名の、終わりなき心理戦も、存外、悪くない。
(第7話 終わり。次話へ続く。)
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