第2話:占い師たちの告白
「スピリチュアル・ハート」での二日目の朝は、昨日とは違う、緊張感に満ちた線香の香りと共に始まった。
僕が店のドアを開けると、カウンター席には、既に二人の先客がいた。
「あ、昨日の軍師コスプレの人」
声をかけてきたのは、ゴシックロリータのドレスに身を包んだ、人形のように整った顔立ちの女性。タロット担当のミキさんだ。
「今日は、火攻めとか言わないでくださいね。うち、木造なんで」
その隣で、長髪に髭をたくわえた、仙人のような風貌の男性、水晶占い担当のケンジさんが、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
「ふん。我が軍略の真価、理解できぬ愚か者どもめ……」
僕が負けじと胸を張ると、奥からサクラ店長がやってきて、ポンと僕の肩を叩いた。
「はいはい、喧嘩しない。孔明さん、今日はまず、ミキちゃんからタロットの基本を教わって。昨日のユイちゃんみたいに、お客さんを泣かせて帰しちゃダメよ」
ミキさんは、やれやれといった顔で、テーブルにベルベットのクロスを広げ、美しい絵柄のカードを並べ始めた。
「いい? これがタロット。78枚のカードで、運命の流れを読み解くの。重要なのが、この大アルカナ22枚で……」
しかし、彼女の説明は、僕の耳には届いていなかった。僕の目は、その78枚の絵札に釘付けになっていた。
「ほう……! 78の兵種と、22の特殊部隊……! これは、まさに、天下を動かすための兵法書そのものではないか!」
「だから、戦術カードじゃないって言ってるでしょ!」
ミキさんの鋭いツッコミが飛ぶ。僕は構わず、一枚のカードを手に取った。
「見よ! この『愚者』のカード! 旅の始まりだと? 違うな。これは、敵陣に潜入し、情報を持ち帰る『斥候』の札じゃ! そして、この『恋人たち』! 選択の時だと? 甘いな。これは、敵国同士を婚姻で結びつけ、内から崩す『同盟』の札に相違ない!」
ケンジさんが、頭を抱えて呻いているのが見えた。
「ダメだこりゃ……。全部、軍事用語に脳内変換されちゃってるよ……」
「ならば、見せて進ぜよう! 我が『連環の計』を応用した、必勝のカード配置を!」
僕が、自信満々に扇子を広げた、その瞬間。
勢い余った扇子の風圧で、テーブルに並べられたタロットカードが、まるで蝶のように舞い上がり、床に散らばった。
「ああっ! 私のライダーウェイト版が!」
ミキさんが、悲鳴を上げる。
僕が、慌ててそれを拾おうと屈んだ拍子に、今度は扇子の骨が、彼女の置いていたコーヒーカップの取っ手に、見事に引っかかった。
ガッシャーン!
カップが床に落ち、茶色い液体が、ミキさんの黒いレースのスカートに、無慈悲な染みを作った。
「……きのう、買ったばっかりの、お気に入りのスカート……」
ミキさんの目が、据わっている。これは、まずい。本気で怒っている。
「こ、これは……扇子による、連続炎上計か……!」
「あんたのバイト代から、クリーニング代、きっちり引かせてもらうから!」
その日の午後。店の空気は、最悪だった。
そんな中、一人の青年が、おずおずと店に入ってきた。失恋の痛手で、魂が抜け殻のようになっている、大学生のユウタくんだった。
「……彼女に、振られてしまって。どうしたら、忘れられますか……」
僕は、昨日の失敗を思い出し、今度こそ、慎重に言葉を選んだ。
戦わずして、勝つ。そうだ、孫子の教えの基本ではないか。
「……うむ。それは、辛いのう」
僕は、ただ、彼の目を見て、静かに頷いた。軍略用語は、封印した。
「……はい。何も、やる気が起きなくて……」
「ならば、無理に忘れようとする必要はない。まずは、傷ついた兵(つわもの)を癒すことじゃ。食事は、ちゃんと摂っておるか? 夜は、眠れておるか?」
僕の問いに、ユウタくんは、少し驚いたように、目を見開いた。
「……あまり……。食欲もなくて、夜も、あまり……」
「いかんぞ。兵站(へいたん)が尽きては、戦はできぬ。まずは、汝自身の体を、大切にせよ。そして、一人で塞ぎ込まず、心を許せる友と、時を過ごすがよい。新たな砦を見つけ、心を耕すのじゃ」
僕の言葉に、ミキさんとケンジさんが、驚いたような顔でこちらを見ている。
ユウタくんの瞳に、ほんの少しだけ、光が戻った気がした。
「……ありがとうございます。なんだか……すごく、当たり前のことなのに、誰も言ってくれなかったから……。少し、楽になりました」
彼が、少しだけ軽い足取りで帰っていく。僕は、初めて、安堵のため息をついた。
サクラ店長が、僕の隣に来て、優しく微笑んだ。
「今の、すごく良かったわよ、孔明さん。ちゃんと、相手の心に寄り添えてた」
ミ-キさんも、少しだけ、機嫌を直したように言った。
「……あんた、意外と、人の心を読むのは上手いんじゃない? 軍略とかじゃなくて、そっちの『心の兵法』でいけば?」
その時だった。サクラが、悪戯っぽく、僕の肩に手を置いた。
「ねえ、孔明さん。そんなに人の心が読めるなら、今度、私の恋も占ってくれない?」
「な……な、何じゃ、藪から棒に!」
「だって、お客さんばっかりズルいじゃない。私も、占ってほしいな♡ 私と、孔-明さんの、相性占い♪」
ミキさんとケンジさんが、ニヤニヤしながら囃し立てる。
僕は、顔に、カッと血が上るのを感じた。
「こ、恋占いなど……! 我は、天下の軍師ぞ! 恋だの愛だのといった、浮ついた感情に、現を抜かすことなど……!」
「へえ? じゃあ、戦術的に、私を攻略してみせてよ」
サクラが、挑戦的な笑みで、僕の顔を覗き込む。
僕は、完全に、思考停止に陥った。
赤壁の戦いよりも、五丈原の死線よりも、今、この瞬間の方が、よっぽど、苦しい。
ミキさんが、クスクスと笑いながら、助け舟(という名の火に油)を出す。
「孔明さん、こういう時、男は逃げちゃダメなんだよー?」
僕は、たまらず、扇子で顔を隠した。
「こ、これは……! いかなる兵法書にも載っておらぬ、未知の心理戦か……!?」
その夜、僕は一人、呟いていた。
「心の兵法……。その道は、かくも険しいものか。そして、サクラ殿の仕掛けてくる戦は、我が知る、いかなる戦よりも、難解じゃ……」
恋という名の戦場は、どうやら、僕が思っていた以上に、複雑怪奇なもののようだった。
(第2話 終わり。次話へ続く。)
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