第1部:交流 / 第12話:運命の観測者

 食堂の喧騒が、嘘のように遠のいていく。

 ユーリ、グレン、そしてカリーナ婆が座る隅のテーブルだけが、まるで異質な静寂に包まれているかのようだった。ユーリは、意を決して、ずっと胸の内で渦巻いていた問いを口にした。

「カリーナ様…先ほどの少女、マチルダのことです。彼女は、やはり…古文書にあった『神の落とし子』なのでしょうか?」


 そこは、時間も空間も意味をなさない場所。

 無数の星々が輝き、光でできた無数の糸が、タペストリーのように絡み合い、織りなされている。

 その光景を、一柱の女神が静かに見つめていた。

 女神の視線は、ひときわ強く、しかし今にも切れそうなほど不安定に輝く、一本の糸に注がれている。その糸に、柔らかな光を放つ別の色の糸が、優しく寄り添うように絡みついている。女神は、その光景に目を細め、誰に言うでもなく、静かに呟いた。

「…糸は、紡がれ始めましたね、ライオラ…」


 食堂で、カリーナ婆はゆっくりと頷いた。その皺深い瞳には、ユーリが今まで見たこともないような、深い哀しみと、世界の真理を知る者の厳しさが宿っていた。

「…やはり、目覚めてしもうたか。あの子は」

 その言葉は、ユーリの推測が真実であることを、静かに肯定していた。

 カリーナ婆は、低い声で古い伝承を語り始める。

「『神の落とし子』は、星をも砕く力と、人の子よりもろい心を持って生まれる…。その心に『愛』が灯れば、世界を救う比類なき守護者となるじゃろう。…じゃが」

 彼女は一度言葉を切り、ユーリとグレンの顔を順に見据えた。

「ひとたびその『愛』を失えば、その悲しみは世界を覆う大いなる厄災と化す。森に現れたという暗殺者も、その兆しじゃろう」

 ユーリは、アンナがマチルダの運命の、そして世界の運命の引き金になりうるという事実を突きつけられ、言葉を失った。


 女神の視線が、強く輝く糸の少し先へと移る。

 そこでは、寄り添っていた柔らかな糸が激しく乱れ、ぷつりと断ち切られそうになっている。それに呼応するように、強く輝く糸は黄金から一転、全てを焼き尽くすような怒りの赤黒い光へと変貌していた。だが、その厄災の糸の先に、白銀に輝く糸や、禍々しい輝きを放つ黒い糸が交差し、かろうじて破滅を食い止めている未来が、いくつもの可能性として揺らめいていた。

 女神は、黒い糸に繋がる、もう一本の暗い輝き――神に牙を剥く刃に目をやる。

「ええ、わかっています、ボルガン。あなたの腕一本では足りないほどの大きな代償…。けれど、それもまた、この結末に至るためには避けられぬ道筋…」

 彼女の瞳には、友を想う悲しみと、運命の管理者としての非情さが同居していた。


「我々は…どうすれば…」

 ユーリが震える声で尋ねる。カリーナ婆は、きっぱりと言い切った。

「あの子の運命を決めるのは、力ではない。その心を繋ぎ止める『愛』そのものじゃ。…決して、アンナとあの子を引き離してはならん。何があっても、じゃ」

 そして、彼女は最後に、不吉な警告を付け加える。

「じゃが、ユーリよ、気をつけなされ。愛は最も強き力であると同時に、最も鋭き刃ともなる。あの子がそれを失う時が、この世界の本当の終わりになるやもしれんからのう…」

 その言葉と同時に、天上の女神は静かに目を閉じた。

 彼女の目の前には、無数の未来が広がっている。そのどれもが、悲しみと苦しみに満ちている。しかし、その先に、ほんの僅かながらも、一条の光が差し込む未来があることも、彼女だけは知っていた。

 地上では、ユーリとグレンが、世界の運命を左右するほどの重い秘密と覚悟を胸に、静かに立ち尽くしている。

 天上では、女神が、その全てを知りながら、ただ静かに、運命の糸が紡がれていくのを見守っている。

 まだ誰も、その結末を知らない。

 ただ一人を除いては。


 数日後の昼下がり。

 グリーンウィロウの町の入り口で、リリィとラナが旅支度を整えていた。

「いやー、世話になったね、この町には」

「ええ、本当に。アンナちゃんも、マチルダちゃんも、可愛い子たちでしたわ」

 二人は、この数日間の賑やかだった滞在を思い出し、微笑み合っていた。

 その時、空が急に暗くなり、ぽつり、ぽつりと冷たい雨が降り始めた。

「あらら、降ってきちゃったね。せっかく髪を整えたのにさ」

 リリィが悪態をつきながら、二人は近くの大きな木の下に駆け込んだ。雨は次第にその勢いを増していく。

 その時、リリィがふと気づく。

「…あれ?」

 ラナも、何か不思議な感覚に首を傾げた。

 雨は激しく降っている。風も吹き、雨粒が木の下まで舞い込んできている。なのに。

「……濡れて、ない…?」

 二人は顔を見合わせた。自分たちの身体や服に当たるはずの雨粒が、まるで見えない傘に弾かれているかのように、体に触れる寸前で、すっと消えたり、横に逸れたりしているのだ。

 それは、魔法使いであるラナがどれだけ考えても理解できない、ありえない現象だった。

「嘘でしょ…」

 リリィは、食堂でのあの日の出来事を思い出す。マチルダが言った、子供のおまじないのはずの言葉。

『よし!これでおぬしたちは、この先一生、雨に濡れることはないじゃろう』

 冗談ではなかった。おまじないでもなかった。あれは、宣言だったのだ。世界の理を、ただ一言で書き換える、神の御業。

 ラナは、そのありえない奇跡に、ただ震える声で呟くことしかできなかった。

「マチルダちゃん…あの子、一体…」

 二人は、自分たちがとんでもない存在と出会ってしまったことを悟り、畏怖と驚愕の表情で、ただ激しく降る雨を見つめ続ける。

 その雨は、決して彼女たちを濡らすことはなかった。

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