序章 / 第5話:反逆の刃
エアデール王国国境近くの丘の上。ザイン・アストラルは一人、静かに夜を迎えていた。
焚き火の心許ない光が、彼の傍らに置かれた、布に固く巻かれた長大な剣を鈍く照らし出す。人々はいつからか、彼のことを「勇者」と呼ぶようになった。だがザイン自身は、その称号が自分ではなく、この忌わしいほどに美しい剣に向けられたものであることを知っていた。
『運命に逆らう剣。だが、俺はまだ、その運命にすら出会えていない』
そんなことを考えながら、彼はただ静かに、夜空に浮かぶ星々を見上げていた。
ふと、ザインの脳裏に、この剣と出会った日の光景が蘇る。
まだ「勇者」と呼ばれる前の、一介の冒険者だった頃。ギザリオン公国近くの砂漠を旅していた彼は、奇妙な運命の悪戯に導かれていた。まるで誰かが見えざる手で道筋を示しているかのように、彼の足は忘れ去られた古代の神殿へと向かったのだ。
砂に半ば埋もれた神殿の最奥。祭壇に突き立てられていたのは、一本の長大な剣だった。それは神への冒涜そのものであり、世界への反逆を体現したかのような、あまりにも異質な存在。後世に『神殺しの剣』と呼ばれることになる、運命の刃だった。
彼がその柄に触れた瞬間、世界から音が消えた。いや、正確には、世界に満ちていたはずの微かな魔法の響き、マナのせせらぎが、彼の周囲だけ完全に「無」になったのだ。そして、この剣が何か途方もない『宿命』を背負っていること、そしてそれが自らの魂と結びついたことだけを、漠然と理解した。
望まぬままに主となった日から、彼の目的を探す放浪の旅が始まった。
数週間前、その剣が初めて、明確な意思を示すかのように共鳴した。
魂に直接響く、低く、冷たい振動。それは、今まで感じたことのない異質な神の気配だった。世界の外側から来たような、秩序も法則も持たない、ただ荒々しく感情のままに揺れ動く力。
ザインは直感した。これこそが、剣が自分を導く「目的」なのだと。彼は、その力の発生源であるエアデール王国へと、静かに旅路を変えた。
そして昨日、彼はついに力の源泉に辿り着いた。森の木々の隙間から、湖畔の光景を冷静に観察していた時のことを思い出す。
黒髪の少女が持つ力は、間違いなく神々のそれに匹敵する。だが、その力はあまりにも不安定で、隣にいる人間の少女の笑顔ひとつで、その揺らぎが僅かに収まる。花冠を渡され、戸惑いながらもそれを受け入れる姿。
「フン…あれが首輪というわけか。力を持て余した獣には、お似合いだな」
ザインは、黒髪の少女がまだ善悪を知らない、極めて危険な「純粋な力」であると判断した。そして、彼女の隣にいるアンナという少女こそが、その力をかろうじて繋ぎ止めている唯一の存在であると。彼はマチルダの反応を見るために姿を現し、そして確信した。今はまだ、斬るべき時ではない、と。
思考を中断し、ザインは鋭く顔を上げた。焚き火の炎が不自然に揺らめき、森の闇から複数の気配が立ち上る。
音もなく、三つの人影がザインを取り囲んだ。黒装束に身を包んだ、明らかに手練れの刺客だ。
「その剣を渡してもらおう、勇者殿」
「―――死ね!」
一人が低い声で言うと同時、三方から一斉にザインへと襲い掛かる。だが、ザインの動きはそれを遥かに上回っていた。焚き火のそばから最小限の動きで立ち上がると、腰に差した長剣を抜き放ち、流れるような動きで初撃を受け流す。金属音が闇に響き、火花が散った。
刺客たちの連携は完璧だった。一人がザインの剣を受け止めている隙に、残る二人が背後と側面に回り込む。しかし、ザインは冷静だった。彼は刺客の一人を盾にするように体勢を入れ替え、残りの二人の刃を同士討ちさせる。純粋な剣技だけで、熟練の刺客たちを赤子のようにあしらっていた。
「…ちぃっ!」
追い詰められた刺客の一人が距離を取り、懐から魔術の触媒を取り出した。「ならばこれで!」
凝縮された魔力が、灼熱の炎の槍となってザインへと殺到する。
その瞬間、ザインは初めて、傍らに置いていた長大な剣に手を伸ばした。
布を解き、神剣ネメシスを抜き放つ。闇の中で、まるで宇宙の深淵を切り取ったかのような刀身が、月光を吸い込むように輝いた。
次の瞬間、信じられないことが起こる。
ザインに殺到していた炎の槍が、まるで存在しなかったかのように、ふつりと掻き消えてしまったのだ。
「なっ…打ち消しただと!?」
驚愕する刺客たちに、ザインは冷徹に、しかし峰打ちで的確な一撃を加え、全員を戦闘不能に追い込んだ。
ザインは気絶した刺客の一人の懐を探り、一枚の羊皮紙を見つけ出す。そこに記されていたのは、簡潔な指令だった。
『“神の落とし子”の監視、及び“鍵”の奪取』
使われている羊皮紙の質、そしてインクに含まれた僅かな魔力の残滓。それは、並の貴族や組織が使えるものではない。
「…厄介な相手のようだな」
そして、指令の内容。“鍵”が自分の剣であることは間違いない。だが、“神の落とし子”とは。
―――湖畔にいた、あの黒髪の少女のことか。
ザインは、マチルダがいるであろう森の方角を見つめた。自分を追う組織と、彼女を狙う組織は、どうやら同じらしい。
もはや、ただの観察対象ではない。
「お前が神の力を持っているというのなら」
彼は静かに呟く。
「それは、お前が戦う理由を、お前自身で選べるってことだろう、マチルダ」
ザインは、神剣ネメシスを再び布で包み、背負い直した。この地を、すぐには離れられない。彼の目的が、今、少しだけ明確な形となって定まった。
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