終焉の悪魔は幻想曲で満たされない

御金 蒼

終焉の悪魔は幻想曲で満たされない

 軍楽科校舎。

 特別第六音楽室。


 どうしようもなくなったら、彼女に頼め。


 翠玉エメラルド紫水晶アメジストのオッドアイを持つピアニストは、きっと救いあげてくれる。




 ***




 ピアノの蓋がゆっくりと開かれる音に、静寂が細雪のように震えた。


 鍵盤を白い指先が弾く。

 柔らかく━━白く冷えた風が音になったように、彼女とピアノだけの音楽室を泳ぎ始めた。


 Cの低音が床を伝い、肺の奥で微かに震える。

 Gが重なって、差し込んだ陽光が埃の粒を金色に変える。


 光が音を孕む。


 ━━西暦23◯◯年。


 終わらぬ戦争。

 止まらない気象兵器の実験。

 一歩一歩、一音一音。


 世界が壊れていく音を、耳が拾う。


 誰かが誰かのために泣く、熱くて優しい音。

 誰かが誰かに愛を叫ぶ、強くて真っ直ぐな音。

 世界が滅ぶ音はそれでも止まない。


 明日を迎える朝日の音。

「いただきます」と手を合わせる音。

 焼夷弾の雨の音。

 耳を塞ぐと聞こえる、血液の音。

 吹き荒れる黒い灰の音。


 嗚呼……。


 こんな世界でも、私にとっては愛おしい、楽譜だ。


杏花きょうか


 鍵盤の上で踊らせていた指が止まる。

 不躾な雑音で、残響が空気に溶けてしまう瞬間が、私は嫌い。


「……何かしら? 演奏中は入らないでと言ったはずよ」

「貴方にお客様よ」


 ルームメイトが、私専用の音楽室に勝手に招き入れたのは、淡い緋色の髪の魔女だ。


 魔女━━戦争のために作られた人工人間ホムンクルス。魔法を使い圧倒的な戦力を持ちながら、薬物投与により感情を抑制され、寿命を削られた哀れな殺戮兵器。


 私の琴線に全く触れない存在だ。

 だって彼女達からは、

 私のピアノを聴かせても、


「何の誤用? キミ達魔女って、軍楽科なんて無くせと常々思ってる代表格じゃない」


 軍人を育成するこの学校において、私が所属する軍学科は殆ど現場戦場に出ない事から煙たがられ、無くせという声が後を経たない。


 いつもうんざりさせられる。

 仕事を全くしていない訳じゃ無いのに……。


「貴女は、この学園で一番と聞きました」

「ガセネタ摑まされたわね。此処に人間なんて居ないわ」


 此処は学校であるが、学生だろうと関係無い。

 入学してすぐに、生徒は現場に投入され、人を殺める事に慣れさせられる。


「全員、汚物以下の蛆虫よ」


 人間は、そう在らねばならない。

 例え、お国の為に殺す必要があろうとも、ソレ戦争を理由に、心から殺人を肯定してはならない。

 生きる為に、ただ自分が生き延びたいが為に、人を一度でも殺めた下衆なのだから。


 誰に肯定されようと、誰に誉め称えられようと、自分だけは、自分を許してはならない。


「私の曲を作って下さい」


 予想外の台詞に、その時、改めて私は彼女の表情を見た。

 他の魔女と同じ無表情の筈なのに、彼女の目の奥には、暗闇が潜んでいるのを見た。


「何故?」


 だから私は、ほんの少しだけ興味が湧いた。


「私を好きだと言った男性が、亡くなりました」


 魔女に? 馬鹿ね。


「私を庇って亡くなりました」


 ……この魔女は3年生。

 そういえば、何日か前にお偉いさんの息子で、3年のフィジカル化け物の男子生徒が、現場で死んだと小耳に挟んだ。其奴かな。


「私は、分からないんです」

「?」

「『好き』が分からない。想われても、何も返してあげられない。どうすれば良いのか━━いいえ、分からない」


 だから、教えてほしい……と。曲という形で。


 は? アホくさ。


「キミの曲なんか作らない」

「! ……どうしても?」


 ズキリと、胸が痛んだ人の顔。

 ふーん、魔女も傷付くんだ。

 けれども、返答を変える気は無い。


「作らない」

「……分かりました」


 背を向けて部屋を出て行こうとする魔女に、私は溜め息を一つ溢した。


「話、終わって無いわよ。私が作らないのは


 足音が止まる音。

 ソレに続いたのは「どう言う事ですか?」という小さな声の問い。


「キミの曲は作らないけれど、死んだっていう男子の曲は作ってあげる」


 春の象徴のような桃色の目に光が宿り、花の香りが、鈴のように耳元を吹き抜ける。

 この音……嫌いじゃ無いわね。


「だから教えなさい。その男の事」

「……よく、笑う人でした」


 ポツポツと、その日聞けた事はほぼ無いに等しかった。

 時間が無かった訳じゃ無い。

 彼女━━二千翔の持ってる情報量が、塵か屑かと思う程少な過ぎたからだ。

 だから私は課題を出した。一月猶予を与えるからリサーチして来いと。

 二千翔はマメな性格で、毎日報告してきた。一回頬が腫れていてどうしたのか聞くと、彼の親友だった男に話を聞きに行ったら『今更どういうつもりだ』と切れられたらしい。


 ロボットのような彼女が無神経に思えた故の行動だろうが、だからと言って女の子の顔面を真正面から叩く男は頂けない。


 それでも二千翔は諦めずに、彼についてまとめたノートを、大事そうにいつも抱えて音楽室に足を運んだ。




 そうして一月経って、私はピアノを奏でた。




 軽快に見せて、真っ直ぐな音を。


 好いた女に振り向いてもらいたいという一途な気持ちを。


 人を殺す事に躊躇など無い癖に、殺す事に心を痛める歪な旋律を。


 そして、1人の少年の声を再現する。


『二千翔ちゃん、大好きだよ』


 満足そうな燃える想い。

 花の香りを混ぜた音。

 戦場の片隅に差し込んだ、眩しい輝き。

 唯の一瞬に閉じ込めるには勿体無い、最期の願い。

 伝われ。伝われ。伝われ━━!


 一音の狂いもなく、想いの取りこぼしなど論外。


 最後に置いた指先が痺れる。

 もう鍵盤もペダルも手足同然で、こんなに神経を最後まで研ぎ澄ませて引いたのは、何年振りだろう。


 二千翔を見ると、目を見開いて言葉を失っていた。


「何故……」


 桜色の唇が、震えながら言葉を紡ぐ。


「何故、貴女が私の曲を作らなかったのか……分かった気がします」


 ああ、そうで無くては困る。だって、


「私の……私の中に今ある気持ちは、私だけのモノだから、ですね?」


 そうだ。他人に自分の気持ちを教えてもらうだなんて、馬鹿の極みだ。

 自分の心は、自分が一番知っている。

 他人に面倒を見させるな。自分の事は自分でしろ。


「私は、きっとまだあの人が生きていたとしても……気持ちに応える事が出来ません。だって、『好き』や『愛してる』が……やっぱり分からないから」


 でも━━と。

 顔を俯かせ、両腕でずっと抱きしめていたノートが、中途半端に折れた。


 制服のスカートに、濃い滲みが落ちる。


「もっと……言ってあげるべき言葉が……あった。言わなくて、良い……言葉があった」


 次の瞬間━━━━慟哭が、音楽室を満たした。

 座っていた椅子から崩れ落ち、床に直接膝を付いて、みっともなく魔女が泣く。


 心が産声を上げたのだ。

 悲しみと怒りを、彼女は知ってしまった。


「分からないならッ! 分かろうとするべきだった!! 分からないって、逃げて、ソレを理由に傷つけた……ッ」


 この男は二千翔に一目惚れした日から、毎日のように想いを伝え続けた。


 どれだけ無謀でも。

 如何に滑稽でも。


 本当に、事切れる寸前まで。


 嗚呼、音が聞こえる。

 曲にしたい。

 もし別の物語があるならば、彼女はどんな美しい旋律を、私に与えてくれる?


「━━ねぇ二千翔……やり直したい?」

「や、り……直し?」


 静かになったところで無意識に口ずさむと、二千翔獲物は簡単にかかった。


「そうよ。全て一から戻すの。記憶も、感情も、出会いもね」

「貴女……魔女だったんですか?」

「いいえ。違うわ」


 気分はさながら人魚姫の魔女だけれどね。


「軍学科のピアニストよ」


 キミ達人間から、時に悪魔、或いは天使と呼ばれた事もあるけれど。

 そこまで口にする必要は無い。


「……では、『やり直し』なんて出来ませんね」

「まぁ、もし出来たとしたらの話よ。したい? したくない?」

「したいです」


 即答だった為、意外だった。


「代償を払っても?」

「はい」

「……その代償が、キミの魔法でも?」


 魔女が使える魔法はたった一つ。

 二千翔の魔法は『解毒』だ。


「使いどころの無い魔法です。戦闘力にも影響しません。持って行けるのならどうぞ」


 使いどころが無いと彼女は言っているが、大気汚染が進むこの世界で、彼女の体を研究した者達が、その成果を元に汚染除去装置を作ったから、こうしてまだ戦争が出来ている。

 彼女はソレを知らないのか……。


 一度想像したら、興味が尽きない。

 戦争すら出来ないほど追い詰められた世界の音。

 終わる世界で紡がれる愛の音。


 きっと今の半分は死ぬ。

 けれども、生き残り達の奏でる音は美しく、熱く、煌めいているに違いない。


「━━契約成立よ」


 久しぶりに、心の底から笑った気がする。


 気付けば、音楽室には私しかいない。


 当然だ。もう既に、世界線なのだから。


 嗚呼、世界の音がまるで違う。


 左手のFの鍵盤に指を置き、この残酷で美しい世界の音を、私は今日も余さず拾う。


 足掻け。

 生きろ。

 子羊達よ、幸福の種は蒔いてあげるから。拾うか踏むか、後は君たち次第。

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