オクシモロン(御苦志喪論)
青山 翠雲
第1話:アダムとイヴ
印象的な表現は、オクシモロンであることが多い。オクシモロンとは、矛盾する言葉や概念を組み合わせた表現のことで、「終わりなき短距離走」とか「勝者なき戦い」など、戦いでは雌雄を決し、勝者と敗者が必ずいるはずの戦いに敢えて勝者不在とするなどの表現で、詩や散文、日常会話、広告など、さまざまな文脈で使用され、深い意味や強烈なインパクトを持たせる効果がある。
カクヨムの奇才/鬼才/異端児と言われたこの青山翠雲、今回、何を語ろうかといえば、神をも恐れぬ「アダムとイヴ」について語っちゃおうというのだから、畏れ多いにも程があるというもの。ただ、そこは心を鬼にして突き進んでみたいと思う。
アダムとはヘブライ語で「土」と「人間」を意味する言葉であるが、神が地上初の人間を土から作ったとされるのがアダムという
神はこの二人をエデンの園という場所に住まわせ、神は園の木々の実を自由に食べてよいと告げるが、唯一、善悪の木の実だけは食べてはいけないと命じる。蛇が現れてイヴを誘惑・
果たして、これは「罪」なのか?そして、「失楽園」なのか?「労働して食料を得ること」「出産時の苦しみ」は苦しみという「罰」なのか?
そもそもである。神がアダムとイヴに「このまま知恵を授けない」ということ自体がそもそも「罪」ではないのか?現代社会に当て嵌めればネグレクト行為ではないか?仮に禁断の果実を食べなかったと仮定してみよう。そうすると、いくらでも食べられるエデンの園にいる二人は果実を捥ぎ取るということ以外、何の創意工夫を働かせることもないまま、ぶくぶくと太ったことであろう。禁断の果実を口にする以前では、アダムとイヴは、お互い全裸でいてもまったく欲情することもなく、何の反応も示さなかったわけだ。人類史はそこで終りを告げていてもおかしくはない。
そもそもオクシモロンとは、矛盾する言葉や概念を組み合わせた表現のことで、 この言葉は、古代ギリシャ語の「オクシス」(鋭い)と「モロス」(鈍い)から派生している。
まぁ、仮に禁断の果実を食したとしてだ、普段からおっぱいモロだしのイヴに臆したアダムであったならば、やはり、人類はそのまま繁栄することなく滅亡していたであろう。その場合は、B.C.(Before Christ) とかA.D.(Anno Domini ラテン語で「キリストの年に」という意味)ではなく、E.D.(Erection Disoder)という記号となっていたかもしれない。まぁ、その場合は、「人類史」的にはE.D.元年で終わっていて、誰も受け継ぐものはいなかったかもしれないのであるが。。。
蛇もいわんや神も、生殖の仕組みについて、アダムとイヴに教授したわけではない。仮に、正常 & 健全な判断力を宿していたとして、いや、正常な判断力があればこそ、アダムの「オクシス(鋭い)なモノ」に、イヴが臆したという可能性も捨てきれないのではないか?以前に他の小説でも少し触れたが、いくら本能とはいえ、誰にも教えられずに人類は「性交」に「成功」していたのだろうか?まぁ、成功したからこそ、人類はこうして連綿と命脈を保ってきているわけだが。そう考えると、最初の人類、まぁ、アダムとイヴは、初めて地球を一周したマゼランや月面着陸を果たしたニール・アームストロング級の大冒険者と言えるのではないだろうか?
もし、私がイヴの立場であれば、予備知識がなかったとして、アダムが普段オシッコをするところをギンギンにイキらせて、自分に近づいてきて、自分の中に入れてこようなどという「蛮行」をしてこようものなら、アダムの頭を引っ叩いていることだろう。逆に、自分がアダムだとして、女性が小と大をする間の部位に自分のそれを入れるなどという「荒唐無稽」なことを考えつくだろうか?仮に、片方が勃ちまくり、片方が濡れまくったとして、最初に「合一」を遂げるのは、並みの発想力や想像力では成し得ない「
アダムとイヴによる「史上最高の罪」がなければ、地球の生命体構造も変わっていただろう。その辺り、禁断の果実で、本当に知恵が果たしてついたのか、アダムの「モロ出ス」に対しても、余程、「鈍感(モロス)だった」のか、など、諸々の事情があったのかもしれないなどと、大いなる疑問を呈するのをのっけから禁じ得ないのである。まずは、そんないきなり波乱含みのモロだしとなった「アダムとイブ」論をもう少し敷衍して論じていきたい。
筆者はクラシック音楽好きであるが、最近、とみに女性指揮者の数が増えた。我が国でも憲政史上初の女性首相が誕生した。基本的に、性差による能力の差はない。しかし、もちろん、性差による、膂力の差や発揮できる母性などは男女で違いがある。そういった意味では、美乳好きの私からすると、失楽園の際、イチジクの葉は、胸にもつけるべきだと思った。話が逸れた。男女で違いがあるからこそ、「ロール」を分けられるメリットもある。まぁ、昔は24時間開いているコンビニなどもなく、銀行は午後3時に閉まってしまうような社会だったから、結婚して男女で支え合っていかないと、就ける職業にも差が男女で歴然とあったわけだから、生活が成り立たなかった側面もある。昔はまぁ、オスが「労働して食料の獲得」、メスは「出産して授乳・子育て」というロールを与えられていたのは、なんとなく分かる。ただ、優秀な女性にとってみれば、この上ない理不尽な世の中であったろう。せっかく苦労して男子と同列の大学への入学を果たしても、待っていたのはお茶汲みだったのだから。そう考えると、日本最高峰の女子大学名が「お茶の水大学」というのは、何たる皮肉であろうか?また、話が逸れた。この「罪」のおかげで、人類は労働して社会を発展させていくきっかけを得、また、創意工夫という進化の術を得たのだと思うし、(こればかりは本当に頭が下がる想いで一杯であるが)産みの苦しみがあるからこそ、余計に我が子が愛おしく思うのではないだろうか?また、産みの苦しみがあっても、子を成したいと思うよう、生殖行為に「快楽」という「甘美なる脳内麻薬」を人類に神は同時に授けたのだと思う。
「原罪」は「罪深い」側面ももちろんあるが、その他にもたくさんの良い効果を与えていることも事実だろう。
昭和50年代の日本歌謡界で一世を風靡した沢田研二のヒット曲に、令和の今ではとても出せないであろう「ストリッパー」という名曲がある。お忘れの方もいらっしゃると思うので、本作に関係の深い2番をここに引用しておこう。
嘘を脱ぎ捨て罪を脱ぎ捨て
すべてを脱ぎ捨てたらおいで
男と女はアダムとイヴ 可愛いものだよ
未来を脱ぎ捨て明日を脱ぎ捨て
すべてを脱ぎ捨てたらおいで
弱いところも見せちまえば
綺麗に変われる
朝でも夜でも真昼でも 恋はストリッパー
人生のステージ
春でも秋でも真冬でも 愛はストリッパー
幕は上がっている
俺のすべてを見せてやる
お前のすべてを見たい
つまり、アダムとイヴの原罪があってこそ、人は大事な部分を隠すようになり、それゆえ一層、エロスの概念やエッチなことを年がら年中考えるようになり、失楽園どころか皆楽園・快楽園をこの世に現出させ、こうして小説やエッセイにこういった話題があるとつい読んでしまう。また、それが一時の辛い世事の忘却となっていて、我々の魂の救済へと繋がっているのである。これを
あなたがこのエッセイをここまで読んでくれたのも、アダムとイヴの「史上最高の罪」のおかげかもしれない。
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